第35話「空の罪、空の希望」
第35話「空の罪、空の希望」
―桜が咲く町にて―
事故から3日後――。
「ご自宅前でコメントを一言だけ!」
「機内ではどのような状況でしたか?パニックは?」
「パイロットとして、あの判断は正しかったと思われますか?」
玄関を開けた瞬間、シャッター音が雪のように降り注ぐ。
一瞬にして、記者、レポーター、そして見知らぬカメラが桐谷の目の前を埋め尽くした。
「……すみません、何もお話しできません」
何度そう繰り返しても、彼らは玄関前を離れなかった。
4日目、JAL本社
「桐谷くん。休養、しっかり取ってるか?」
直属の上司・奥村部長が声をかけてくる。
「……外に出られないんです。毎日、家の前に10人以上。誰かが24時間張り付いてて」
奥村は腕を組んでうなずく。
「引っ越せ。JALの安全委と広報で手配する。身バレしないように。場所は…そうだな、桜新町。駅から少し歩いたとこに物件がある」
「桜新町……」
「静かだ。著名人が多い割に、干渉されない土地だ」
桐谷は静かにうなずいた。
1週間後――桜新町
春の気配が町を包む三月の中旬。
駅から東へ歩いて15分ほど、緩やかな坂の先にそのマンションはあった。
築浅のRCマンション。4階建て。管理人の姿もなく、まるで時間が止まっているような静けさ。
「……ここか」
内覧のときに感じた印象と変わらぬ、どこか“空っぽな”部屋。
だが今の自分にはちょうどよかった。
段ボールを床に下ろし、コーヒーメーカーを出してカップを満たす。
外は曇り空。遠くで電車の音がかすかに聞こえる。
テレビをつけると、まだ自分の名前がニュースで繰り返されていた。
「JAL062便緊急事態。両エンジン停止からの生還。乗員乗客214名を守った英雄は今――」
英雄。
桐谷は苦く笑った。
「……誰かを救えば、誰かに見られる。誰かに見られれば、誰かに語られる」
窓を開ける。
乾いた春風が、カーテンを揺らした。
この町には“空気”がある。喧騒から切り離された空気だ。
彼はノートを広げ、ペンを走らせた。
《JOURNAL》 桐谷隼人 個人記録
2021年3月15日
・桜新町へ転居
・毎日が静かで、音が少ない
・事故の夢を見る夜もあるが、不思議と呼吸がしやすい
→ 次に飛ぶとき、自分は「何を恐れ、何を信じるべきか」を書いておきたい。
翌朝、玄関に届いた宅配便。差出人は、師匠の佐久間。
中には1冊の本と、短いメモ。
「“空”に戻る準備ができたら、また飛べ。俺は、信じてるぞ。
―佐久間」
その本のタイトルは、かつて佐久間が新人時代に読んでいた『空の哲学』。
桐谷は表紙を撫でたあと、深く息を吐いた。
ここからが、再起だ。
事故から数えて13日目。
桜新町の空は、冬の寒さが残る中にも春の陽射しを含んでいた。
桐谷は、部屋の片隅に置いてある小さなデスクに腰掛け、フライトログを開いていた。
事故当日の操縦記録――
あの瞬間、何を考え、何を判断し、何を“見て”いたのか。
映像のように、記憶が蘇る。
プライベートジェットとの接触。
エンジン両方停止。
電源を落とし、グライダー状態で降下。
着陸装置を出す余裕すらなく、滑走路手前で草地にタッチダウン。
乗客は全員無事脱出。
すべて、手順どおりだった。
でも――。
「あなたの判断で、数百人の命が救われました」
「でも同時に、あのプライベート機の操縦士は…」
「……わかってる」
独り言のように、桐谷は呟いた。
操縦士として生きるということは、いつか“誰かを救い、誰かを失う”覚悟を迫られるということ。
今までも知っていたつもりだった。
けれど、実際に“命”と向き合ったとき、胸の奥に生まれた痛みは、それまでの経験とは比べものにならなかった。
その日の夕方。スマホにメッセージが届いた。
【柳瀬悠人】:おい、生きてるか。近くまで行くけど顔出していい?
桐谷は笑みを浮かべ、
「来いよ。淹れたてのコーヒー出す」
と返した。
1時間後、柳瀬がマスク姿で現れた。
「お前、まじでここ住んでんのか?修行僧みたいな部屋だな」
「……静かでいいんだよ、今の俺には」
二人は無言でコーヒーをすすり、やがて柳瀬が真剣な顔で言った。
「また飛べよ。俺は、お前が操縦する機体でなら、どこへでも飛ぶ」
「……」
「師匠の佐久間さんも言ってただろ。“飛びたくなくなったら、そんとき初めてパイロットを辞めろ”ってさ」
桐谷は、ゆっくりうなずいた。
「怖いんだよ」
「だろうな。でもな……俺はもっと怖かったぞ。足が砕けて、飛べなくなると思ったときのほうがな」
その言葉に、桐谷は初めて“共感”という痛みに触れた。
そうだ。俺だけじゃない。柳瀬も、アンナも、佐久間も、みんな“空”と闘ってる。
夜。
ベッドの中で目を閉じると、事故の残像がまだ目の裏に焼き付いていた。
でも、その中で――不思議と一筋の“光”が見えた気がした。
その光は、滑走路に差す誘導灯かもしれない。
あるいは、またどこかの雲間を貫く、太陽の道かもしれない。
「……飛ぶか」
桐谷はつぶやいた。
再び、空へ。
翌朝。JAL本社。
桐谷は、訓練担当の松田に会いに行った。
「…復帰フライトの申請を出させてください」
松田は一瞬驚いた顔をしたが、やがて笑ってうなずいた。




