第34話空白の10秒間
第34話「空白の十秒間」
2021年7月。成田発ロサンゼルス行き JAL062便。
機材は最新鋭のエアバスA350-1000型。桐谷隼人、32歳。機長として国際線の第一線を飛ぶようになっていた。
今日の空は快晴。
桐谷は副操縦士・片桐とともに、離陸から順調に上昇中だった。
「FL350到達、巡航モードへ。オートスロットル安定」
「交信切り替え完了、センターとの接続良好」
淡々としたやりとりが続く中、桐谷の目が不意にコクピット窓の右斜め前を捉えた。
――白い閃光。
(Rise Rise! Rise now)
桐谷の叫びとともにA350は急上昇を試みた。
だが、それはほんの0.3秒早かっただけだった。
右エンジンに白い小型ジェットの右翼が突っ込むように衝突した。
振動。衝撃。轟音。
そして――右エンジン停止。
だがそれだけでは終わらなかった。
左エンジンにも飛散した破片が入り込み、左エンジンも数秒後に火を噴き停止。
完全なダブル・エンジン・アウト(両発停止)
「両エンジン停止、推力ゼロ……グライド降下に入る!」
桐谷は冷静にグライド角度を保ちつつ、最寄りの空港を探す。
「…燃料漏れ、火災の兆候は?」
「ない!でも制限時間は10分以下…」
「羽田へは届かない…下だ!」
桐谷は地図を指差した。
「…静岡県・御前崎沖の離れた埋立地。非常用滑走には足りる」
機内ではアナウンスが響いた。
「お客様にご案内いたします。現在、機体の安全上の理由により、非常着陸を行います。…乗務員の指示にご協力をお願いいたします」
コクピットに沈黙が落ちた。
――速度が、落ちる。
副操縦士がつぶやく。「あと100ノットでストール域……」
その時、片桐の声が震えながら響いた。
「…キャプテン、家に……帰れるんですよね?」
桐谷は言った。
「帰す。誰一人、失わない。絶対にだ」
**
そして8分後。
コンクリートがむき出しの埋立地に胴体着陸が決行された。
衝撃が走る。煙が舞う。
だが――
「Evacuate! Evacuate! 脱出用スライド展開!!」
機体からは全員が90秒以内に緊急脱出成功。
火災も起きず、乗員乗客326名全員が生還した。
**
翌日――JAL本社前。
記者の波が押し寄せる中、桐谷は静かに応えた。
「空は美しい。でも、一瞬で牙をむく。
それでも、僕たちは信じて、そこを飛ぶ。――命を預かるために」
**
病院の廊下。
小机アンナが駆け寄ってきた。
「無事で……よかった……!!」
「ごめん、心配かけて。……でも、みんな帰ってこられた。それが一番」
**
機長室。
師匠・佐久間がぽつりと呟いた。
「……桐谷。もうお前は、完全に俺たちの“背中”になったな」
桐谷は少しだけ照れくさそうに、しかし力強く笑った。
「でも、まだまだ空に教えてもらうことは多いです」
その言葉の先に、再び空の旅が待っていた。事故から3日後――。
都内のJAL安全対策センター。
桐谷隼人は、内部ヒアリングに応じていた。
「両エンジン停止後、即座にグライドモードへ。最寄りの代替着陸地点として御前崎沖を選択。理由は?」
「海抜ゼロメートルで障害物がなく、風向きも安定していたためです。加えて、日中で視界が確保されていた」
「乗客の動揺は?」
「アナウンスをCAと連携して落ち着いた声で続け、パニックを防ぎました。CAのリードが完璧でした」
桐谷の口調に迷いはなかった。だがその目は、どこか遠くを見つめていた。
翌日、社内メール。
件名:【感謝と報告】JAL062便、全員無事に生還
桐谷隼人 機長と片桐副操縦士、CAチームの迅速かつ冷静な判断と行動により、重大事故から全員が救われました。
皆様のプロ意識に深く敬意を表します。
数時間後、電話が鳴る。師匠・佐久間からだった。
「お前、本当にやりやがったな。心配したぞ」
「……すみません。でも、生きて帰りました」
「当たり前だ。あの日お前がコクピットで泣きながら言ってたこと、覚えてるか?“一人も失わせたくない”って。あれ、本当にやったな」
「はい。でも、心のどこかで、まだ震えてます」
「それでいい。その震えが消えたら、飛ぶ資格はない」
電話を切ると、小机アンナからメッセージが届いていた。
「帰ってきてくれてありがとう。怖かったけど、信じてた」
そして、柳瀬からも。
「お前、また伝説作ったな。俺も、早く完全復帰しなきゃな。負けてられない」
桐谷は笑った。そして、空を見た。
事故の影に、再び飛ぶ理由があった。
数日後、国土交通省・航空安全委員会 聴聞会
桐谷は証言台に立っていた。
「今回の事故において、最も改善すべきは?」
「管制の空域調整です。あの高度、あの地点で民間プライベート機の飛行が許可されていたこと、それがすべての発端でした。今後は、民間・国際問わず、情報の即時共有とフライトプランの厳格化が必要だと思います」
「恐怖はありましたか?」
「……ありました。でも、それよりも『責任』のほうが勝ちました。あの座席に座っている以上、“怖い”は言い訳にはできない」
質疑応答が終わると、静かな拍手が起こった。
夜・二子玉川のマンションにて
テレビでは事故の再現アニメーションと、称賛の声が流れている。
「JAL機長・桐谷隼人氏、全エンジン停止から全員生還へ。あの“空白の十秒間”で何があったのか?」
小机アンナが桐谷の隣で微笑んでいた。
「……あなた、本当にすごいね」
「違うよ。全員で助かっただけだ。俺は“空”に試されただけだった」
「じゃあ、空は、なんて言ってた?」
「――『お前には、まだ託したい命がある』って」
その言葉に、小机は涙を浮かべながら静かにうなずいた。
窓の外、夜空は静かだった。
だが桐谷にははっきりと聞こえていた。
また、空が呼んでいる。




