第32話さらばトリプル7-200
第32話「さらば、トリプル7-200」
2021年2月。
羽田空港の整備場に、静かに佇む一機のボーイング777-200型機。
JALが1996年に導入して以来、国内外の主要路線で長らく活躍してきたこの機体は、老朽化と環境性能の関係から今月末での全機退役が決定されていた。
そしてそのラストフライトの任務が、桐谷隼人に託された。
「……この機体、俺が初めてソロで訓練した時のだったんです」
羽田空港のスポット。整備士との最終確認の後、桐谷は機体の胴体にそっと手を触れた。
B777の丸みを帯びた美しいフォルム。その手触りに、何度も訓練で汗を流した記憶がよみがえる。
フライトは羽田〜伊丹のJAL特別記念便。
機内には、航空ファン、元整備士、退役機関係者らが搭乗。副操縦士には、同じ訓練機を経験した同期の城之内副操縦士が座る。
「最後まで、しっかり飛ばそう」
「もちろんです、キャプテン。あの頃の俺たちの全てを、この空に残しましょう」
出発前、桐谷はコクピットに座り、しばし目を閉じた。
訓練のとき、佐久間キャプテンに叱られたこと。滑走路で何度もやり直した着陸。
そして初めて機体を操ったときの、あの震えるような誇り。
「JAL2001便、クリアード・テイクオフ」
エンジンが唸りを上げる。
「スラストセット」
「80ノット」
「V1……ローテート」
ぐん、と空へ。
巨大な翼は、最後のフライトにふさわしい美しさで上昇していった。
**
巡航中、コクピットには静寂が流れる。
「このコックピット、懐かしいな」
「ええ……昔、ここで何度も泣きましたよ」
「俺もだ。あの時の汗と涙が、今の俺たちを作ったんだよな」
伊丹へのアプローチ。
ATCの周波数から、関係者の声が重なった。
「JAL2001、ようこそ、ありがとう、そしてお疲れ様」
「JAL2001、伊丹アプローチ、君たちに最大の敬意を」
桐谷はマイクに向けて、ゆっくり答えた。
「JAL2001より、ありがとう。私たちも、この機体に敬意を込めて着陸します」
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「ギアダウン。フラップ30」
「滑走路、視認。アプローチングミニマム……」
「ランディング」
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タイヤが地を噛み、リバースが入り、機体は滑走路を駆け抜けた。
伊丹空港では、放水アーチが機体を出迎えた。
シャワーのような水が777に降り注ぎ、まるで“ありがとう”と声をかけているかのようだった。
機体が停止し、乗客が拍手と涙で機内に別れを告げる中、桐谷は最後にもう一度、コクピットから外を見つめた。
「ありがとう。俺をパイロットにしてくれた、最初の翼」
そうつぶやくと、ゆっくりと機体を降りた。
その翼に、そっと右手で触れたまま。
**
その夜、桐谷は整備士の古賀と共に乾杯を交わしていた。
「なあ、タカ(桐谷)、お前、この飛行機のどこが一番好きだった?」
「全部です。でも……一番は、最初に“空を信じさせてくれた”ことかもしれません」
古賀は笑いながらも、グラスを持つ手を震わせた。
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JALの一つの時代が終わった夜だった。
でも桐谷の物語は、まだ続いていく。
新しい翼で、より遠く、高く――。




