第31話空への帰還
第31話「空への帰還」
2021年1月末。
春の風が羽田空港の滑走路を抜ける朝。
ターミナルに立つ桐谷隼人の姿は、以前より引き締まっていた。復帰後の乗務は順調にこなしており、今朝は特別なフライトを控えていた。
「おい、桐谷」
ブリーフィングルームのドアを開けると、先に待っていたのは白髪交じりの男――中島政義キャプテン。
JAL国際線の“生きる伝説”と称される男であり、佐久間キャプテンの師匠、そして桐谷にとっては“師匠の師匠”にあたる存在だ。
「お久しぶりです! ご一緒させていただくのは初めてですね」
「そうだな。だけど、今日が最後になる。俺のラストフライト、お前と行けて光栄だ」
その言葉に、桐谷は背筋が伸びる想いだった。
中島キャプテンは、JALがまだDC-10やB747を運航していた頃から数々の国際線を飛び続け、航空界の激動期を乗り越えてきた。
そしてこの日、中国・北京首都国際空港へのフライトが、彼にとって最後の乗務だった。
「行き先は北京、JAL869便。機材はB787-9。副操縦士として頼むぞ、桐谷」
「はい、全力でサポートします!」
機内準備が整い、8:45、東京・羽田空港を離陸。
太平洋上空から中国大陸へ。揺れはほとんどなく、順調なクルーズだった。
コクピットの中、会話は穏やかに進んでいた。
「佐久間は元気か?」
「はい、僕がコロナで倒れたときにも見舞いに来てくれました。あの人には、何度も助けられました」
「……あいつも俺の昔からの弟子でな。口は悪いが腕と覚悟は本物だった。お前も、そんなあいつに鍛えられたパイロットなら、これから先、もっと遠くまで行けるはずだ」
「……ありがとうございます」
その言葉に、桐谷の胸が熱くなる。
北京の上空に入り、降下開始。
現地時間11:20、北京首都国際空港に進入。
「滑走路見えました、キャプテン。アプローチングミニマム」
「オーケー。フラップ30、ギアダウン、スピードチェック」
「ランディングチェック完了です」
中島キャプテンは、最後のランディングに向けて操作を進める。
長い経験をその手に込めるような、無駄のない操縦。
「…さて、締めくくるか」
「100……50……40……30……20……10」
接地――タイヤがアスファルトを噛んだ瞬間、桐谷は思わず心の中で叫んでいた。
「すげえ……ピタリだ」
完璧なランディングだった。
スポイラーが立ち、逆噴射が入り、機体がゆっくりと減速していく。
滑走路を抜け、スポットへ。
無線が静かになったタイミングで、中島が口を開いた。
「……着陸、完了。これで、俺の空も終わりだな」
「お疲れさまでした、キャプテン」
「いや、ありがとうと言うのはこっちだ。こんな時代に、まだ空を飛ぼうとする若いお前がいてくれて、本当に安心した」
そのままタラップを降りた中島キャプテンは、滑走路の空を一度だけ振り返った。
「さよならだ。俺の空よ」
機体に向かって軽く敬礼をして、彼は歩き出した。
**
帰りのJAL870便。
操縦は桐谷が担当することになった。副操縦士の座に今度は中島が座っている。
「最後に教えておく。いいか、“空”ってやつはな――正しい判断と、譲れない信念がなきゃ、あっという間に裏切ってくる。だが信じて飛び続ければ、ちゃんと答えてくれるんだ」
「……はい、肝に銘じます」
「クリアード・テイクオフ、JAL870」
「じゃあ行け。新しい空の、その先へ」
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羽田着陸後。
花束を手にした整備士、CA、管制官まで集まり、中島キャプテンの引退を拍手で見送った。
桐谷はその後ろから、静かに見つめる。
その背中に――未来の自分の姿が、重なる気がした。




