第30話見えない嵐の中で
第30話「見えない嵐の中で」
2021年1月。
世界は依然として、新型コロナウイルスの猛威の中にあった。日本国内でも感染者数は過去最多を更新し続け、航空業界は深い打撃を受けていた。空港の出発ロビーは閑散とし、国際線の搭乗ゲートは閉ざされ、予定されていたフライトの多くがキャンセルとなっていた。
JALの桐谷隼人も例外ではなかった。
年明け初めの乗務を終えたあと、軽い喉の痛みと倦怠感を覚え、PCR検査を受けた。結果は陽性。
報せを受けた瞬間、彼の中に走ったのは恐怖ではなく、周囲への申し訳なさだった。
「…俺が感染したら、仲間にも迷惑がかかる。便だって回らない。こんな時期に……」
高熱と咳で朦朧とする中、都内の自宅マンションで一人、布団に横たわる。
食事も喉を通らず、冷えたお粥のパックに手をつける気力すらなかった。
咳の合間に浮かぶのは、晴れた空を飛ぶ機体の姿。
――コックピットに戻りたい。あの、空の中に。
だが現実は、体がまるで自分のものではないような重さに支配されていた。
5日目の午後、インターホンの音が鳴った。
桐谷は反射的に動こうとしたが、体がついてこない。
数秒後、部屋のドア越しに聞き覚えのある声がした。
「桐谷。佐久間だ。玄関前に差し入れ置いといたから、あとで取りな。」
師匠――佐久間洋一。
かつて、初めて国際線の訓練を担当したベテラン機長だった。
その厳しくも温かな指導で、桐谷は今の自分があると思っている。
「……キャプテン……」
かすれる声で桐谷はつぶやいた。ドア越しに伝わる気配。
ドアを開けることはできない。感染リスクがある。
だがその場に立ち続ける師の姿を、桐谷は目を閉じて想像した。
「医者には、ゆっくり休めって言われたんだろ。
焦るな。お前の空は、逃げたりしないさ。
……それと、ちゃんと食え。命綱だぞ、これは」
ドアの前には、保温バッグに詰められた手作りのスープと、カロリーゼリー、ビタミンドリンクが整然と並んでいた。
一つひとつに手書きでメモが貼ってある。
「熱が下がったら、これを先に飲め」
「味がしなくても、これだけは食っとけ」
「戻ってこい、俺の後ろに座る副操縦士」
桐谷は熱いものが喉を通るのを感じながら、袋の中のスープに手を伸ばした。
口に含むと、薄味ながらも懐かしい、昔ホテルで食べた機内食に似た味がした。
涙が不意にこぼれた。
「……まだ、空に行けるかな、俺」
その問いに答えたのは、誰でもなかった。
だが、師匠の足音がゆっくりと廊下を離れていくのを聞いたとき、桐谷は確信した。
――待っていてくれる人がいる。
――空がまた、自分を呼んでくれる日が来る。
それだけで、再び空へ戻る理由には十分だった。感染から1週間が経ったある朝。
長く続いた高熱がようやく引き、桐谷隼人は久々に目覚めた瞬間、布団の重さよりも、静寂を実感した。
咳はまだ少し残っていたが、頭の中の霞が晴れつつある。
スマートフォンを手に取り、溜まっていた通知をゆっくり確認する。
JALの同僚たち、整備士の大島、同期の副操縦士、キャビンアテンダントの小机アンナからのメッセージ。
「無理せず休んでね」「絶対戻ってくるって信じてるよ」「空は、ずっとあんたの居場所だよ」
――そして一通の短いメッセージ。
「スープ、ちゃんと食ったか? 回復したら連絡くれ。次は一緒にソウル上空、夜景でも見ようぜ。
佐久間」
涙ぐみながらも、桐谷は軽く笑った。
熱が下がった今、できることは少ない。
だが、まずはリハビリと診断クリア。体力を戻し、職場復帰への準備を始めなければならない。
2週間後、桐谷は医師の診断を受け、飛行許可を得る。
その日、JAL本社ビルの出入り口に現れた彼は、痩せた顔にマスクをつけ、少しだけ背筋を伸ばしていた。
「桐谷さん、よく戻ってきてくれました!」
出迎えた整備担当の大島が、握手を求める。
CAの小机アンナも遠くから手を振り、明るく「おかえりなさい!」と声をかけた。
一歩、また一歩。
ターミナルのガラス越しに、滑走路が見える。
そこには、B787がゆっくりと地面を滑っていく姿――自分がかつて乗った機体と同じ。
「……ただいま、空」
彼は心の中でつぶやいた。
その日の午後、ブリーフィングルームに呼ばれた桐谷は、懐かしい姿と再会する。
グレーのスーツに身を包んだ佐久間洋一が、隅の席から立ち上がった。
「よう、少し痩せたな。けど目の輝きは、まだ残ってる」
「キャプテン……」
「今のご時世、戻ってこれただけでも奇跡だ。だが桐谷、お前にはまだやることが山ほどある」
「……はい。俺、もう一度、今の空を飛びたいです。どんな時でも、守りたい人たちがいるから」
「そうだ。その心構えがあれば、空はまた微笑んでくれる」
――見えない嵐の中で失いかけたものを、もう一度取り戻す。
そうして、桐谷隼人はふたたび空へと歩み出すのだった。




