第21話再び空を信じて
第21話「再び、空を信じて」
都内某所、整形外科専門の高度医療センター。
病室の前で、桐谷隼人は額に汗を浮かべながら深呼吸をした。
隣の病室からは、モニターの電子音と、低く鳴るテレビの音。
そこにいるのは、事故から5日が経った柳瀬悠人。事故当日の手術は無事終了したが、右足の脛骨・腓骨は激しく砕け、粉砕骨折の中でも最悪の部類だった。
医師の口から出た言葉は重かった。
「――普通の生活には戻れる。ただし、パイロットにはもう戻れないでしょう」
その言葉を、桐谷は否定できなかった。
でも、それを柳瀬本人が受け入れるはずがなかった。
ノックして中に入ると、柳瀬はベッドの上で天井を見つめていた。無表情だった。点滴の針が細く腕に刺さっている。リハビリの予定はまだ立たない。
「……はやとか」
「よう」
いつもなら軽口を叩き合う仲だ。でも今日は違った。
「先生に、会ってきた」
隼人の言葉に、柳瀬がゆっくり目を向ける。
「お願いした。頼み込んだ。どんな可能性でもいいから、お前をまた空に戻してくれって……!」
肩が震えていた。隼人は目を伏せ、拳を握りしめた。
「……俺、医者に、土下座した。恥ずかしくても何でもいい。お前が、また、機長席に戻るところを……見たいんだよ」
その時、病室のドアがノックされた。
現れたのは、主治医の岸田医師だった。50代後半、穏やかな声と、厳しいまなざしを併せ持つ男。
「失礼します。柳瀬さん、ご本人の意志も強いようなので、治療方針についてご説明します」
医師の口から語られたのは――
「50%の確率で完治する、再建手術」
特殊な人工骨と骨再生誘導材を併用し、骨の自然再生を誘導する高度な再生医療。ただし、リスクもある。拒絶反応、感染症、骨融合不良……どれか一つ起きても、再び歩くことは困難になる。
「ただし、うまくいけば……理論上、パイロットとして復帰も不可能ではありません」
隼人は身を乗り出した。「やろう。なぁ、悠人」
柳瀬は黙っていた。
だが数秒後、彼はゆっくりと首を縦に振った。
「……やる。俺は……あきらめない」
その言葉に、隼人の目が潤んだ。
数日後、柳瀬はサインを済ませ、手術は準備された。
そして運命の朝――
「絶対、また空に戻ってこいよ」
手術室の前で、桐谷が手を握った。
「お前とまた、副機長として一緒に飛ぶ日を、俺は待ってるから」
柳瀬は、笑った。涙を浮かべながら。
「――ああ。絶対に、戻ってくる」
ストレッチャーが手術室に消えていく。
桐谷は祈るように目を閉じた。
10時間後――
医師の顔は、少し疲れていたが、微かに笑っていた。
「無事終了しました。今のところ、経過は良好です」
その瞬間、桐谷は声を上げて泣いた。誰も見ていなかった。誰にも見せなかった。でも、この日だけは、止めることができなかった。
季節は、春へと移り変わった。
桜が咲くころ、柳瀬は歩行訓練を始めていた。
「くそ……痛ぇ……!」
そう言いながらも、彼は一歩、一歩、前へ進んだ。
最初は杖が必要だった。だが日が経つごとに、彼の歩みはしっかりしていった。
半年後、柳瀬悠人は飛行適性試験の再受験に合格した。奇跡だった。
いや――努力の積み重ねだった。
2020年秋、羽田空港。
整備室の奥で、二人の男が向き合っていた。
「復帰、おめでとう」
桐谷の差し出した手を、柳瀬が強く握る。
「これからも、よろしくな。キャプテン桐谷」
「おう、頼りにしてるぜ。ファーストオフィサー柳瀬」
整備士が呼びに来る。
「1903便、搭乗お願いします!」
二人は並んで歩き出す。コックピットへと向かって。
それが、再出発の日だった。
再び空へ。――信じる心と、友情の翼を乗せて。
の陽射しが、リハビリ室の窓から差し込んでいる。
松葉杖を両脇に挟み、汗を滲ませながら、柳瀬悠人は一歩、また一歩と歩みを進めていた。ギプスは取れ、装具とバンドで固定された足はまだ完全とは言えないが、それでも「歩く」という行為に対する彼の意志は揺るがなかった。
「よし、今日のステップ数、1,100超えたぞ」
担当の理学療法士が微笑む。柳瀬は苦笑を返しながら、水をひと口飲んだ。
リハビリ室の隅には、毎日見ている航空雑誌の切り抜きと、桐谷隼人との写真が貼られている。
「次は俺も一緒に」と、書き添えられていた。
夏――
汗ばむほどの空気が病院の中庭に広がっている。
柳瀬はすでに松葉杖を外し、自立歩行を行えるまでに回復していた。担当医の岸田が結果を見て、言葉をつぶやいた。
「本当に……信じられない回復力だ。手術から半年で、ここまで戻すとは」
「――俺には、あの空に戻るっていう目的があるから」
柳瀬は笑いながら答える。医師が渡したのは、JAL指定の健康診断書類。
「これが受けられるということは……」
「そう。パイロット再審査の準備に入っていい、ということです」
柳瀬は、その場で手を握った。
秋、羽田空港の訓練施設。
桐谷隼人は、柳瀬が最終シミュレーションを受ける様子を、ガラス越しに見ていた。
モックアップの中、柳瀬は真剣な表情で操縦桿を握っていた。教官が仕掛ける数々の非常事態。エンジン火災、油圧系統の故障、そして、視界ゼロのILSアプローチ。
そのすべてに、彼は冷静に対処し、乗り越えていった。
試験終了のアナウンスが鳴る。ドアが開く。教官が笑顔で一言。
「……柳瀬君。よく戻ってきたね。合格だよ」
桐谷が拍手を送った。柳瀬がこちらに振り返り、涙をこらえるように笑った。
2020年10月。
搭乗ゲートが開き、1903便のクルーたちがブリーフィングを終えてゲートへと向かう。
その中に、二人の姿があった。
桐谷隼人、機長。
柳瀬悠人、副操縦士。
久々のツーマン体制だった。再会のフライト。
「なんか、変な感じだな。俺が左席に座ってて、お前が右席に戻ってくるなんて」
「ふん。半年のブランク、返してもらうからな、キャプテン桐谷」
会話は軽い。だがその奥に、互いを支え合ってきた絆があった。
滑走路へと向かうB787。
エンジンが唸り、タクシーライトが機体を照らす。
「クリアード・フォー・テイクオフ、ランウェイ3-4ライト」
「Roger, 3-4ライト、テイクオフ。Set thrust」
桐谷の指示に、柳瀬がエンジンレバーを前へ押す。
エンジンが轟き、機体は滑走を開始した。
速度計が上昇し、桐谷が声を上げる。
「V1… Rotate」
機体が宙に浮く。
数ヶ月前まで、ベッドの上で動けなかった男が、今、空の一部になっていた。
安定飛行に入ったところで、桐谷がふと口を開いた。
「……なぁ、柳瀬。お前があの時、空に戻れなかったら、俺、何かが壊れてたと思う」
「……俺もだ」
柳瀬は空を見た。
「俺の空は、お前が繋ぎ止めてくれた。――だからまた、飛べる」
雲の上には、果てしない青の世界が広がっていた。




