第20話風邪で休んでる日に
第20話「風邪で休んでる日に」
2019年11月。秋が深まる東京、二子玉川のマンションで、桐谷隼人はくしゃみと咳に悩まされながら、ソファに身を沈めていた。
「まさか、ここで風邪を引くなんてな……」
前日のロサンゼルス便を終えたばかりで、時差ボケと過労が重なったのだろう。体は熱を持ち、喉はひりつく。JALの医務室で診断を受け、正式に休養を言い渡された彼は、その日、自室で静養することになった。
午後1時。テレビをつけたまま、ぼんやりと湯気の立つ紅茶を飲んでいると、臨時ニュースのチャイムが鳴り響いた。
――「臨時ニュースをお伝えします。先ほど午後0時48分頃、東京・川崎市の武蔵小杉付近で、大型旅客機が多摩川河川敷に不時着したとの情報が入りました。航空機はJAL仁川発羽田行き、JL720便。着陸直前に両エンジンが停止し、機体は多摩川に接触後、高架橋に尾翼をぶつけ、胴体着水した模様です。現在、消防と警察が……」
隼人は、熱の残る額に冷たい汗がにじむのを感じた。
「……JL720便? それって……!」
思い出す。今朝、自分の代打としてこの便に乗務することになったのは、他でもない、同期の柳瀬悠人だった。
「柳瀬……!」
ソファから跳ね起きた隼人は、咳き込みながらも急いで上着を羽織ると、バッグに財布とスマートフォンだけを放り込み、玄関を飛び出した。
「頼む、生きててくれ……!」
自宅から武蔵小杉までは、田園都市線から南武線への乗り継ぎで30分ほど。だがこのとき、線路は事故の影響で運転見合わせとなっていた。
「くそっ……!」
迷わず、彼はマンションの駐車場に停めていた愛車に飛び乗り、多摩川沿いの道をアクセル全開で駆け抜けた。
午後2時17分。
多摩川の河川敷には、消防車と救急車、パトカーが集まり、ヘリコプターが低空で旋回していた。報道陣が押しかけ、野次馬が柵の向こうからスマホを掲げる。だがその雑踏の先に、黒煙を上げながら横たわるB787の胴体があった。
胴体部分は辛うじて原形を保っているが、右エンジンは完全に脱落し、左翼下部も損傷が激しい。尾翼は東横線の高架橋の一部を削り取りながら壊れ、川の浅瀬に半ば沈んでいた。
桐谷は警察の制止を振り切り、関係者であることを名乗り、制服のIDカードを提示して機体に向かう。
「あなた……JALの方ですね?」
応対に出た消防指令が言った。
「副操縦士の方は、意識があります。ですが、右足の骨が粉砕骨折……重傷です。まもなく救急搬送します。こちらへどうぞ」
隼人の心臓が痛いほど脈打った。
救急車のそば、ストレッチャーに載せられた柳瀬悠人が、酸素マスク越しに微かに動いた。髪は濡れて泥にまみれ、制服も血と水で汚れていた。両腕には擦り傷、そして――右足がぐにゃりと不自然な角度を描いている。
「悠人!」
駆け寄った隼人の顔を、柳瀬がゆっくりと見た。
「……は、やと……」
かすれた声。それでも、目にはちゃんと意思があった。
「生きてて、よかった……!」
隼人は、思わず柳瀬の手を握った。
「俺が……代わりに乗ってたら……」
「バカ……なこと、言うなよ……。お前が乗ってたら……同じこと……」
柳瀬の唇が、酸素マスクの内側で震える。
「バードストライクで……両エンジンが止まった。もう、滑走路に戻る時間はなかった……」
「わかってる。わかってるよ、悠人……お前、よくやった」
周囲の救急隊員が頷く。
「副操縦士が、最後の瞬間まで冷静に管制と連絡を取りながら、川への緊急着水を選びました。乗員乗客、全員無事でした。彼のおかげです」
その言葉に、隼人は泣きそうになった。
「……でも」
柳瀬が絞り出すように言う。
「……パイロット、もう無理だって、医者に……足が、もう……元通りには……」
隼人は、ぎゅっと柳瀬の手を握り返した。
「そんなこと、まだ決まってねぇだろ……! 俺たち、何度だって空に戻ってきたじゃないか」
「お前はな……。でも俺は……」
柳瀬が小さく笑う。
「……すごいよな。お前は、風邪で寝込んでる間に……俺の人生が終わった」
「ふざけんな……! 終わってない。終わらせるなよ!」
救急隊員がそっと声をかける。
「搬送の準備が整いました」
隼人はゆっくりとうなずき、最後に柳瀬の肩に手を置いた。
「絶対、また会おう。お前がもう一度、空に戻れる日まで、俺は……待ってるから」
柳瀬の目に、ほんの少しだけ涙が浮かんだ。
やがて救急車がサイレンを鳴らし、川辺を離れていく。
その背中を見送った隼人は、ぐっと拳を握りしめ、吐く息に震えが混じるのを止められなかった。
同日夜 二子玉川
自宅に戻っても、隼人はテレビをつける気になれず、リビングのソファで沈黙していた。
スマホにはメディアや同僚からの連絡が多数入っていたが、どれにも返信する気が起きない。
静寂の中、LINEの通知音が鳴る。
――【アンナ:ニュース見ました。大丈夫……?】
少しだけ、心が温かくなる。
――【大丈夫。柳瀬は命は助かった。……でも、足を失った。】
数秒後、また返信が来た。
――【今夜、そっち行ってもいい?】
隼人はスマホを胸に当て、黙って天井を見上げた。
柳瀬が空を降りても、桐谷は飛び続けなければならない。
彼の分まで。仲間の想いを乗せて。
――明日、また空が晴れるなら。
自分は再び、空へ向かう。




