36話
合同実技の日。訓練場の空気は、わずかに張り詰めていた。
サロンでの一件以来、表立って何かが変わったわけではない。
「次、レイティアラ」
名を呼ばれた彼女は静かに前へ出る。
彼女が選んだのは炎ではない、別の属性。派手さはないのに、何故か目が離せない。
魔力は乱れず、制御も完璧だ。
「安定しているな」
簡潔な評価。それだけで、十分だった。
「カルミナ」
自分の名を呼ばれ、息を吸い、中央へ向かう。
炎を灯す。炎を選ぶのは当然だ。
掌に魔力を集め、火が灯り、円環状に広がる。均一な熱量。揺らぎはない。
「良い」
先生が頷く。
並ぶだけでは、皆と同じでは意味がない。
ほんの少し、魔力を足すと炎の色が濃くなる。
熱が増し、空気がかすかに歪んだが、まだ制御できる範囲だ。
さらに、少し魔力を流し込む。しかしその瞬間、炎の縁がじわりと外へ滲んだ。
「……熱くない?」
周囲からの小さな囁き。
次の瞬間、炎は大きく波のように外へ膨らんだ。
周囲を包み込む熱に、逃げ場のない拡張。
悲鳴が上がった。
はっとしたカルミナは即座に魔力の収束を試みるが、一瞬の遅れが境界を越えた。
「きゃあ!」
あちこちで悲鳴が上がる。
「収束しろ、カルミナ!」
エレメンス先生の声。
炎を抑えられない。制御が失われた炎は広がり続ける。
周囲に鋭い冷気が漂った瞬間。透明な壁が炎を囲いこんだ。
氷だ。向こう側が透けて見えるほどの透明な氷の壁。
迷いなく展開されたそれが、炎を押し返すと蒸気が立ちのぼり、炎は霧散する。
静寂。
「……負傷者は?!」
「軽傷者数名です!」
最前列で、知っている少女が腕を押さえていた。
「だ、大丈夫……です」
震えた声だった。
その少女と目が合う。その目にあったのは、怒りではない。恐れ。
少女はすぐに目を逸らし、寄り添っていた友人の後ろへ隠れてしまう。
その、無言だけど、ほんの一歩分の距離が、酷く遠く、胸が軋む。
──軽傷よ。最終的には抑えられたわ。
視界の端で、氷が静かに解かれるのが見えた。
しかし、レイティアラは何も言わない。こちらを見もしない。それが、何より重い。
「問題ありません」
自分の声はいつも通りだ。微笑みも、崩れていない。
地面に残された焦げ跡だけが、事実を物語っていた。
◇◇◇
「実技は中断だ。負傷者は医務室へ、他の者は教室へ戻れ」
エレメンス先生の指示に、慌ただしい足音が広がる。
視線が自然と集まるのがわかる。責めるでもなく、慰めるでもない、ただただ距離を測るだけの視線。
そんな視線を躱し、歩き出す。ただの事故だ。重大な過失ではない。
──氷がなくたって、抑えられた。ほんの少し、遅れただけよ。
そう自分に言い聞かせながら、カルミナは訓練場を後にする。
その足取りは乱れていない。背筋も綺麗に伸ばしたまま、普段と何も変わらない歩き方。
けれど、背後の会話に一瞬足が止まる。
「あの方でしょう? 先程の……」
「驚きましたわ。あっという間に炎が広がって……」
「恐ろしかったですわね」
声はすぐに小さくなったが、既に遅い。
──わざわざ聞こえるように話さなくてもよろしいのに。
カルミナは振り返らない。あれはただの事故だ。振り返る理由などない。誰にでも起こりうることだ。
そう思うのに、地面に残された焦げ跡だけが脳裏に焼きついて離れない。
「カルミナ」
振り返れば、いつもと変わらない表情のエレメンス先生がこちらを見ていた。
「教室に戻る前に、少し話がある。着いて来い」
呼び出しだ。その言葉の意味を、カルミナは瞬時に理解した。けれど、表情は崩さない。
「はい」
廊下を歩く足音は二人分。
しばらくの沈黙の後、エレメンス先生が口を開いた。
「制御を失った原因は?」
責める声ではなかった。ただ事実を確認する声。それはとても静かな問いだった。
「……魔力を、増やし過ぎました。制御できると思っていたのですが……」
カルミナは正直に答えた。その返答に、エレメンス先生が足を止めた。
「そうか」
それはあまりに短い言葉だった。けれど、その言葉はカルミナの胸にチクリと刺さった。
しかし、次の言葉がカルミナを凍りつかせた。
「焦ったか?」
声が上手く出せない。焦った? 何に?
「い、いいえ」
絞り出した声は掠れていた。
「そうか? 俺には焦りがあるように見えたが……誰と比べた?」
「……」
答えられない。けれど、エレメンス先生は続ける。
「実技で魔力を増やすことは問題ではない。だが、制御できると”思った”という判断は違う。魔力制御は感覚に頼るものではない。冷静な判断の上に成り立つものだ」
「…………」
淡々と静かな指摘。そして、事実の確認。
「あの時のお前は冷静ではなかった。今回の件は上に報告する」
カルミナは一瞬だけ目を見開いた。
「後で学園長室に来い」
「……はい」
カルミナは何も言わない。しかし、その肩は僅かに震えており、爪が食い込んだ掌には薄らと血が滲んでいた。
そして別れ際、エレメンス先生が言った。
「カルミナ、今のお前は上を目指す時じゃない。お前が今やるべきは、常に冷静さを保てるようにする事だ。お前の炎を瞬時に止めた”レイティアラ”のようにな」
悪意のない、その言葉がカルミナをドン底へと突き落とした。
──あの、氷……。




