33話 女神の加護
闘技場の中央。ヴァレリオの研ぎ澄まされた剣先が、マクシミリアンの喉元に迫る――
「マクス様……!!」
オルテンシアの声が響いた。
その瞬間、白い光が闘技場に閃いた。
マクシミリアンの喉元に迫ったヴァレリオの剣先は、白く輝く障壁に阻まれるかのように崩れ落ちた。
砕け散った剣身は白い輝きの中に消え、まるで祝福が降り注ぐかのように、柔らかな光の粒子がオルテンシアを包んでいた。
「女神様だ……」
民たちは、目の前に女神が現れたかのように、膝をついて祈りを捧げ始めた。
思わず腰を上げたエゼキエルは、薄紫の瞳を見開き立ち尽くしている。
(これが、『女神の加護』の力なの……?)
オルテンシアも目の前の光景に呆然としていた。
半透明の白い障壁が、まるでマクシミリアンを守る盾のように浮かんでいた。その奇跡のように美しい光景に、会場中が静まり返っていた。
障壁の中央に淡く浮かび上がっているのは、青い紫陽花の花だった。オルテンシアがマクシミリアンのために縫った、魔石入れの刺繍と同じ――
「女神様だ……聖女様の祈りに、女神様がお応えになったんだ!」
「聖女オルテンシア様!!」
民たちはオルテンシアの名を叫んだ。
騎士たちは皆立ち尽くし、王族や貴族たちも瞬きを忘れたように目の前の光景に目を奪われていた。
オルテンシアの背後から腕を伸ばしていた人型の黒い靄は、白い光が閃いた一瞬で霧散し、既に影も形もなかった――
「シア……」
マクシミリアンは、観覧席に立つオルテンシアを見上げた。
一陣の風が闘技場を渡り、優勝者のために籠一杯に用意されていた鮮やかな花びらが舞い上がる。
オルテンシアの淡い金の髪と白い衣が柔らかに靡き、濡れる翡翠色の瞳はマクシミリアンだけを映していた。
(マクス様……良かった⋯⋯)
オルテンシアの耳には、湧き上がる歓声など聞こえなかった。ただ、マクシミリアンの無事な姿を見て、彼女ははらはらと涙をこぼした。
「シア……!!」
白く輝く障壁に呆然としているヴァレリオを置いて、マクシミリアンは観覧席へ向かって全力で馬を走らせた。馬上から勢い良く飛び降りると、階段を駆け上がりオルテンシアの元へと向かう。
「シア! どこも怪我はありませんか!? おかしなところは?」
マクシミリアンは、兜を着けたままオルテンシアの両頬にそっと触れて覗き込む。
オルテンシアはそんなマクシミリアンを見上げ、ふわりと微笑んだ。
「わたくしは平気ですわ。マクス様こそ、お怪我は……?」
「少しもありません。……シアが、私を守ってくれたんですね」
マクシミリアンは兜を取ると、甲冑の首元から紐を引いて魔石入れを取り出した。それには、青い紫陽花の花が淡く煌めいている。
涙を滲ませて微笑んだマクシミリアンの胸元に、オルテンシアは頬を寄せた。
「マクス様がご無事で、本当に良かった……」
涙をこぼすオルテンシアをそっと抱き締めると、マクシミリアンは淡い金の髪に唇を寄せた。
いつの間にか、白く輝く障壁は跡形もなく消え、ヴァレリオは騎士たちに連れられ姿を消した。
そのとき、平民用の観覧席から女性たちの悲鳴が上がった――
◇
「魔女だ! 魔女がいるぞ!!」
ジュリエッタは、震える手を見つめた。
雪のように白く美しいと褒められ、自慢だった手の甲には、薔薇のつるのような黒い刻印が刻まれ始めていた。それは手首へと伸び、つるが巻き付くようにじわじわと広がっていく。
恐怖に震える彼女は、悲鳴を上げることさえできなかった。
(嘘でしょう……? オルテンシアが、こうなるはずだったのに……!!)
「見つけたぞ! 捕らえろ!」
悲鳴を聞いて駆けつけた第二師団の騎士たちに捕縛されたジュリエッタは、後ろ手に拘束され、闘技場の中央へと引き立てられた。
闘技場の出入り口は全て騎士たちによって封鎖され、王族も貴族も民も、この場にいる皆が捕らえられたジュリエッタを見つめていた。
「何故、聖女を呪い殺そうとした」
放たれた国王の声は、誰も聞いたことがないほどに低く響いた。
地面に両膝をついたジュリエッタは、国王を見上げ大きく首を振った。纏っていた茶色のローブは剥ぎ取られ、臙脂色のドレスの膝は土に汚れている。
「私は殺そうとなんて、していません!! ただ……私は……」
震える声は途切れた。その先を、ジュリエッタは口にしなかった。
セヴランが、ジュリエッタが隠し持っていた短剣を手にして目を細める。
「これは……どの国かはわからないが、異国製の魔導具だ。本人の言う通り、命を奪うものではないようだが――」
セヴランの鋭い眼差しに睨まれ、ジュリエッタは慌てて俯いた。
彼女はとても口には出来なかった。生涯消えない醜い呪印をオルテンシアの全身に刻み、『聖女に相応しくない』と任を解かせ、マクシミリアンとの婚約をなかったことにさせる計画だったなどとは――
「聖女様は神聖力に満ちておいでだ。おそらくは、悪しき力を跳ね返したのでしょう」
エゼキエルがジュリエッタを見つめた。口元に淡い笑みを浮かべてはいるが、その瞳の奥の鋭さは隠しきれてはいなかった。
(私は……どうなってしまうの……)
ジュリエッタは、地面に座り込んだまま俯いた。体を這うように覆っていく黒いつるのような呪印に、涙が止め処なくこぼれ落ちる。
「呪印が……」
騎士の誰かが呟き、ジュリエッタは顔を上げた。
彼女の鎖骨まで伸びた黒いつるに、皆が息を呑んだ。美しいと評判だった彼女の肌に黒く禍々しい呪印が広がっていく様に、目を背ける騎士さえいた。
「シア、見てはいけません」
マクシミリアンが、手のひらでオルテンシアの目を覆い隠し、守るように抱き寄せた。
ジュリエッタの白い首筋を覆った呪印に、国王は目を僅かに見開き、王族の女性たちは扇で顔を隠し俯いた。
薔薇のつるのような呪印が、ジュリエッタの美しい顔へと迫る。細い顎から真上に伸びた黒い二本のつるは、赤い唇を避けて進んだ。そうして、小鼻にぶつかると、両脇に曲がってくるりと渦を描いて動きを止めた。
目を丸くした国王と王族の男性たち。
第一師団の近衛騎士たちは口元を覆い、くぐもった声を漏らした。
「――ぶふっ! ギャハハハハ!!」
始めに大きく吹き出したのは、ジュリエッタを捕縛した第二師団の騎士だった。
「ひっ……ひっ……ヒゲ……!!」
目を見開いたジュリエッタがハッと顔を向ける。
彼女の小鼻の両脇には、それぞれ一本ずつくるりと巻いたつるのような呪印がくっきりと刻まれていた。それがまるで、立派なヒゲのように見えたのだった。
(ヒゲですって……?!)
瞬く間に、どっと笑いが広がる。
「何よ?! 私の顔、どうなってるの?!」
ジュリエッタの顔を指差し、大笑いする第二師団の騎士たち。
かつてジュリエッタに微笑まれて満更でもなかった第一師団の美しい騎士たちは、口元を隠して笑っている。
(どうして皆、笑ってるのよ?!)
眉を寄せたジュリエッタがきょろきょろと辺りを見回すと、傍らの騎士が手にしていた剣の鞘に、彼女の顔が映し出された。
(私の……美しい顔が……)
大勢の笑い声に包まれる中で、ジュリエッタは悲鳴を上げた――




