32話 夏至祭の御前試合
夏至を迎えたフィオレンツァの王都では、紫陽花が見頃を迎えていた。
王都の北側、王城に程近い場所にこの闘技場はあった。初夏の花々で飾られた観覧席の中央には、近衛騎士たちに守られた王族の席がある。
その脇にある来賓席には、エゼキエル様の姿が見えた。ふいに視線が交わり、ふわりと微笑まれた私は会釈をして慌てて視線を逸らした。
観覧席の通路を、甲冑に身を包み、自慢の剣を携えた騎士たちが行き交う。
その中で、私はマクス様と向かい合った。
「マクス様、どうかお怪我はなさらないでくださいね」
「はい」
淡く微笑んだマクス様は、白銀の全身甲冑を着けている。胸当てに刻まれた第二師団の青い紋章が、眩しい日差しに煌めいた。
「マクス様、今日はお渡ししたいものがあるのです」
彼の不思議そうな表情にはにかみながら、完成したばかりの魔石入れをそっと差し出す。
小さな濃紺の巾着袋には、青い紫陽花の花の刺繍がかすかに煌めいている。首から下げる黒い紐には、翡翠の小さな玉を通した。彼のために、心からの祈りを込めたお守りだった。
「これを、私のために……?」
小さく頷くと、彼は「ありがとうございます。大切にします」と嬉しそうに笑った。夏至の太陽よりも眩しい笑顔に見惚れてしまう。
「愛するシアに、勝利を捧げます」
「わたくしは、マクス様がご無事ならそれで良いのです……ですが、応援していますわ」
屈んだ彼の首に、そっと魔石入れを掛ける。
姿勢を戻した彼の黒髪が、初夏の風に柔らかく靡いた。
「安心してください。必ず無事に、シアの元へ戻ってきますから」
不安げな顔になっていたのだろう。甲冑に包まれたマクス様の手が私の手をそっと包んだ。ひやりとした金属の冷たさに、胸がざわめく。
彼は私を見て愛おしげに目を細めると、小脇に抱えていた白銀の兜を被り、静かに背を向けた。
(マクス様……)
何故か、彼の背中が急に遠く感じて、私は両手をそっと組んだ。彼の無事を祈りながら、風に揺れる濃紺のマントを見送る。
(それにしても……皆、すごい気迫ね……)
剣の手入れをしたり、馬に話しかけている騎士たちのそばをマクス様が通っていく。
三年連続で優勝している彼は、観客や騎士たちの視線を一身に浴びているように見えた。
試合の優勝者への褒美は剣だそうだ。国王陛下から剣を賜る栄誉のために、出場する騎士たちは皆緊張しながらも気合が入っている様子だった。
(マクス様は、また優勝されるのかしら……私も緊張してきたわ)
私は御前試合を観覧するのは初めてだった。こう言っては悪いが、レナート兄様は剣の腕前を競い合うほど強くはないようで、こういった試合などには縁がなかったのだ。
『御前試合』は、国王陛下の御前で開催される、騎士たちが馬上で剣を交える神聖な試合だ。対戦相手の剣を落とすか、相手の喉元に剣を突きつけることで勝利となる。
直接相手を傷つける行為は禁止されていて、もし剣で対戦相手に怪我をさせた場合は即退場、今後五年は出場が許されないそうだ。
闘技場の端には、魔導師団の紋章が刻まれた白いテントがある。怪我人が出た場合に備えて、大量の回復薬が用意されていた。
テントから騎士や馬たちの様子を窺い見ているセヴラン様を見て、私にも傷を癒す力があれば良いのに――そう思ってしまった。きっと、セレスティアの聖女なら、傷ついた騎士たちをたちまち癒すことができるのだろう。
(私には、聖女として何ができるの……?)
手のひらを見つめる。
回復薬の効果が上がったことも、体の不調が治ったと感謝されることも、嬉しかった。私にもできることがあるのだと……。
けれど、私の胸の内には白い靄がずっと掛かっているのだ。
(もし⋯⋯私にも傷を癒す力があれば、マクス様が傷ついたときに、助けることができるのに――)
「聖女様ですわね?」
響いた愛らしい声に振り返ると、そこには王女殿下が立っていた。私よりも一つ年下の十七歳のお姫様だ。癖のない長い金の髪にふんわりとしたピンク色のドレスが、おとぎ話の姫君のようだ。
「イリス王女殿下、お声がけいただき光栄です。オルテンシア・ローディアでございます。どうぞ、オルテンシアとお呼びくださいませ」
「お久しぶりですわね。……わたくしのことを覚えていて?」
「はい、勿論でございます。王女殿下には――」
「堅苦しいのはやめましょう。わたくしたち、親戚のようなものでしょう?」
小首を愛らしく傾げ、微笑んだ王女殿下。王女の降嫁は七代も前に遡るため血筋的にはかなり遠いと思うのだが、王女殿下のお気遣いを有り難く感じた。
五年前、王女殿下には王城の花月の夜会で挨拶したことがあった。それを覚えていてくださったことに、嬉しくもあり、少しだけ複雑な気持ちにもなった。私は、五年もの間、花月の夜会に参加しなかったのだと、思い知らされたからだ。
侯爵家が負債を背負ってから、王城に着ていけるようなドレスはクロゼットから消えた。“没落した貧乏貴族の令嬢”だと囁かれるのが、惨めで恥ずかしくて、あのときの私には耐えられなかった。そうして、私は社交界から距離を置いた。
けれど今は、この国の聖女として、大切な人の傍で堂々と立つことができる。まだ自信があるわけではないけれど、改めて幸せなことだと感じた。
「今日は、マクシミリアン卿を応援にいらしたのね」
「はい」
両手を組んだ王女殿下は、水色の瞳をきらきらと輝かせた。
「素敵! 騎士と聖女の恋……まるで物語のようですわ」
うっとりと天を仰ぐ王女殿下に、私の頬は急に熱くなった。
けれど、彼女の後方に控えた騎士たちは表情を変えずに佇んでいる。王女殿下は、いつもこの調子なのかもしれない。
「イリス王女殿下、そろそろ国王陛下がご挨拶をなさいます。お席にお戻りになりませんと」
「仕方ありませんわね……オルテンシアさん、また今度ゆっくりお話しましょう。わたくしのことはイリスと呼んでちょうだいね」
可愛らしく微笑むと、イリス王女殿下はドレスの裾を揺らしながら王族の観覧席へと戻っていった。
「皆、よく集まってくれた。今年もこうして夏至祭の日を迎えられたことを嬉しく思う。騎士たちよ、今日の日のために磨いた剣の腕前を、存分に振るうとよい。そして、集まった皆も大いに楽しんでほしい」
国王陛下の声が、どこか遠く聞こえる気がする。
私は挨拶を聞きながらも、微笑むマクス様がここへ戻ってくる姿ばかり思い浮かべていた――
◇
「勝者、第二師団長、マクシミリアン・ド・ベルディア!!」
会場中から、歓声が上がる。
見事な剣技を見せ、順調に勝ち進んだマクシミリアンは、馬上で兜を外すと観覧席へと視線を向けた。
初夏の花々のような鮮やかなドレスに身を包む令嬢たちの中で、飾り気のない純白のドレスを纏うオルテンシアは、まるで一輪の白薔薇のように彼の視界に浮かび上がった。
(シア……どうか心配しないで)
どこか不安げな眼差しのオルテンシアに淡く微笑むと、マクシミリアンは再び兜を着けた。
「第一師団、ヴァレリオ・バローネは前へ」
(――殺気?)
ほんの僅かに粟立った肌に、マクシミリアンは目を細める。
新たな対戦相手は、面識のない若手の騎士だった。白金の胸当てに刻まれた第一師団の赤い紋章が、真上に輝く太陽を弾いて煌めいている。
ヴァレリオ・バローネは、マクシミリアンを真っ向から見据えると静かにバイザーを下ろした。隙間の向こうから、マクシミリアンを射抜くように鋭い眼差しが覗いている。
「……始め!」
フィオレンツァ王国の赤い旗が振り抜かれた瞬間、ヴァレリオは飛び込んできた。
マクシミリアンはすかさず剣で受け、弾き返す。
熱い歓声が上がる闘技場に、剣が交わる甲高い音が幾つも響いた。
第二師団において随一の剣の使い手と名高く、御前試合でも三年連続で優勝しているマクシミリアンに臆することなく真っ向から向かってきたのは、ヴァレリオが初めてだった。
(どういうつもりだ……?)
ヴァレリオの剣筋に乱れはない。けれど、彼の動きは的確ながらもあまりに無謀だった。
まるで相打ち覚悟で剣を突き入れてくるかのようなヴァレリオの動きに、マクシミリアンは胸の内で僅かに動揺していた。
(まるで、死に急いでいるかのようだ――)
マクシミリアンの脳裏に浮かんだのは、かつて辺境の地に応援に向かった際に対峙した狼の魔獣の群れだった。赤い目を爛々とさせ、仲間がいくら斬り捨てられても牙を剥いて飛びかかってくる様がヴァレリオの姿と重なったのだ。
二人が激しく剣を交える音が闘技場に響き渡る。
そのとき、どこからか女性の悲鳴が上がり、マクシミリアンは弾かれたように観覧席を見上げた。
「シア……!!」
試合中であることも忘れ、マクシミリアンはその名を叫んだ。
観覧席に立つオルテンシアの背後から、黒く禍々しい靄が迫っているのが見えたのだ。
「シア! 逃げるんだ!!」
それが何かはわからない。けれど、誰もが良くないものだと感じ取れるほどに禍々しい気配を放っていた。
固唾を呑んで試合を見守っていたオルテンシアは、あまりの激しい打ち合いに瞼を閉じて一心に祈っていた。ただ、マクシミリアンの無事だけを――
レナートや騎士たちが靄を斬って彼女に駆け寄ろうとするも、何かに阻まれているかのように押し返されていた。彼らがいくら剣を振るっても、靄は飛散するどころかオルテンシアに真っ直ぐに向かっていく。
その黒い靄は、オルテンシアに近づくにつれて人の形をなしていった。それはまるで、ドレスを纏った女のような形をしていた。
マクシミリアンから距離を取っていたヴァレリオは、剣を天に向かって掲げると、マクシミリアン目掛けて駆け出した。
その様子を、平民用の観覧席の端から覗き見ている影があった。茶色のローブを目深に被り、美しい短剣を握ってほくそ笑んでいる若い赤毛の女――それは、ジュリエッタだった。
「オルテンシア……これで、アンタの幸せな人生はおしまいよ」
人型の黒い靄が、オルテンシアを背後から抱きしめるように両腕を伸ばす。顔はないはずなのに、その口元は大きく裂けたようにニタリと笑った――
「シア……!!」
(マクス様……?)
叫ばれた名に、オルテンシアは瞼を開く。
二人の視線が交わったとき、彼女の翡翠色の瞳が大きく見開かれた。
「マクス様……!!」
ヴァレリオの鋭い剣先が、マクシミリアンの喉元に迫っていた――




