29話 月夜のワルツ
ガラガラと車輪の音が響いている。
けれど、大公家の馬車は作りが良いのだろう、車輪の音は王家の馬車に劣らないほど静かで、座り心地がとても良かった。
(マクス様との初めての夜会だったのに、踊れなかったわ……)
私は、膝の上で重ねた手をそっと握った。
年頃になる前から社交界を避けるように過ごしてきたため、ダンスにあまり自信はない。だから、正直夜会で踊るのはとても不安だった。
けれど、マクス様に贈られたこの綺麗なドレスで、ワルツを踊るのを楽しみにしていたのだ。
そのとき、傍らからふわりと良い香りがして、私は浅く息をした。馬車の中にいるせいか、やけに近く感じる距離。高鳴り始めた胸を落ち着かせるように、私は窓の外を眺めた。
外はすっかり闇に染まっている。じきに、夜会も終わる時間になるだろう。
木立を抜けると、淡く輝く満月が辺り一面を照らしているのが見えた。
「シア……」
顔を向けると、心配そうなマクス様の眼差しと目が合った。深海のような青い瞳は、私の瞳の色を窺うかのように揺れている。
「……平気ですわ。マクス様が守ってくださいましたもの」
彼の白い手袋に包まれた手が、私の右手をそっと包んだ。
見上げると、彼はそっと瞼を伏せた。どこか罪悪感を感じているかのような表情に、胸の奥がチクリと痛む。
「これからは、絶対に守ります……」
少しだけ掠れた声。
私は何も返さず、私の右手を握る彼の手に、上からそっと左手を重ねた。
いつの間にか、大通りを抜けた馬車はどこかに停まっていた。窓の外には、薄ぼんやりとした闇が広がっている。
「シア、着きましたよ。降りましょう」
「……?」
(ここは……)
マクス様のエスコートで馬車から降りると、ふわりと澄んだ甘い香りが鼻先をくすぐった。
目の前には、月明かりに照らされた白薔薇のアーチ。花冠を捧げられた、想い出の白薔薇の園だった。
柔らかな夜風に、白薔薇の茂みが微かに揺れている。
大好きな花の香りを、私は胸いっぱいに吸い込んだ。
『また一緒にここに来る』という約束が、まさか今夜、果たされるなんて――
彼に優しく手を引かれて、私は白薔薇のアーチをくぐった。
「シア、これを……」
マクス様が、白薔薇の髪飾りを私の髪に着けてくれた。左耳の上に着けたそれを、彼は眩しそうに見ている。
「一曲、踊っていただけますか」
静かに差し出された彼の大きな手に、躊躇いがちに伸ばした指先で触れる。
彼の手が、私の手をそっと包んだ。
「……でも、足を踏んでしまうかもしれませんわ」
「シアは羽根のように軽い。いくら踏まれても平気です」
「まあ……」
思わず笑ってしまった私に、彼は柔らかく目を細めた。
背中にそっと触れた手の温もりに、私は彼の肩に手を伸ばす。ざらりとした少し硬い生地からは、微かに樹木の香りがした。
彼のリードで始まるワルツ。
流れるような彼のステップに合わせて、象牙色のドレスの裾が柔らかく揺れる。月光に照らされて、ふわりと広がったドレスの裾が淡い七色に煌めいた。
「そのドレス、とても良く似合っています。……一目見て、シアが浮かんだんです」
「ありがとうございます。こんなに綺麗なドレスは初めてで……一番のお気に入りですの」
嬉しそうにはにかんだ彼に、思わず笑みがこぼれる。
「マクス様は、ワルツがお上手ですのね」
「そう思っていただけたのなら、光栄です。ですが、シアもとてもお上手ですよ」
「マクス様のリードのおかげですわ。わたくし、兄以外の男性とこうして踊るのは初めてで、少し不安でしたの……でも、ずっと踊っていられそうですわ」
ほのかに赤く染まった彼の目元に、微かに心臓が鳴った。
「私も、ずっとこうして踊っていたい……ですが、鐘が鳴ったら、お送りしなくてはなりません……」
伏せられた彼の視線に、胸の奥が締め付けられた。
王城で夜会が開かれる晩だけは、零時を告げる鐘が鳴る。夜会の終わりを告げる鐘が――
(鐘なんか、永遠に鳴らなければ良いのに……)
澄んだ月明かりの下。
白薔薇の甘い香りを纏う夜風が、私の髪と彼の濃紺のマントをふわりと揺らした。
十二回目の鐘が鳴り終わるまで、私たちは踊り続けた――




