28話 破滅へのステップ
「シア!」
マクシミリアンの目に飛び込んできたのは、噴水の傍らに座り込むオルテンシアの姿だった。大公家から遣わせたメイドに結わせたはずの髪はほどけ、ふわふわと波打つ淡い金の髪が月明かりを弾いている。
涙をいっぱいに溜めた翡翠色の大きな瞳に、言葉を失ったマクシミリアンは急いで駆け寄った。
「マクス様……」
オルテンシアが見上げた瞬間、その白い頬を大粒の涙がこぼれ落ちた。
涙声で呼ばれた名に、マクシミリアンの胸はきつく締め付けられる。
「いったい、何があったんですか」
膝をついたマクシミリアンは、オルテンシアを落ち着かせるように、穏やかな声音で話しかけた。
「髪飾りが、そこに……」
震える指で噴水を指したオルテンシア。そこには、二年前にマクシミリアンが贈った白薔薇の髪飾りが沈んでいた。
(どうして、こんな所に……)
マクシミリアンは手袋を外し袖を捲ると、噴水の縁から手を伸ばし、髪飾りを掴んだ。
「……大丈夫。どこも欠けてはいませんよ」
「マクス様、ありがとうございます」
ふわりと安堵の笑みを浮かべたオルテンシアに、マクシミリアンは淡く微笑む。
だが、何気なく髪飾りを裏返した彼の瞳は、刃のような鋭い光を宿した。
(シアの髪が……)
金具に絡む金糸のような髪の毛に、マクシミリアンは奥歯を噛み締めた。絡まっているそれが、まるで無理に引き千切られたかのように見えたのだ。
オルテンシアの腕が届かない場所に、髪飾りが自然に落ちるはずがない。近くに立って不躾に見ている赤いドレスの令嬢が、強引に奪って投げ入れたのではないか。――そう想像したマクシミリアンは、全身の血が沸騰しそうなほどの怒りを感じた。
(落ち着け……シアを守ることだけを考えろ)
マクシミリアンは握っていた白薔薇の髪飾りを懐に仕舞うと、眼差しを和らげた。
「髪も……せっかく結っていただいたのに……」
「……シアは、どんな髪形でも可憐ですよ」
悲しげな顔で睫毛を伏せているオルテンシアに優しく囁くと、マクシミリアンは彼女の涙を拭い、髪をそっと撫でた。
◇
(何よこれ……この二人って、そういう関係だったの……? 花月の夜会でこんな……とんだ恥知らずだこと!)
今にも抱き合いそうな距離で見つめ合うマクシミリアンとオルテンシアを見て、ジュリエッタは震える唇で歪んだ笑みを浮かべた。
「大変!! 聖女様が浮気をしてるわよ!!」
ジュリエッタはありったけの大声で叫んだ。
集まり始めた貴族たちに、ジュリエッタはしたり顔で目を細める。
「婚約されたばかりで――それも、聖女様が浮気だなんて、許されませんわよね……? 私、黙ってられなくって……」
ジュリエッタはしおらしく睫毛を伏せた。集まった貴族たちから怪訝な眼差しを向けられていることにも気づかず、笑みを浮かべる口元を扇で隠している。
「浮気とは……?」
「聖女様とベルディア侯爵に失礼ではないか!!」
「ベルディア侯爵、聖女様は大丈夫ですか?」
(ベルディア侯爵? いったいどこの田舎から出てきたのかしら)
聞き覚えのない家名に、ジュリエッタは僅かに眉を寄せる。“侯爵”でこの若さと容姿であれば、とっくに令嬢たちの噂になっているはずだと――
だが、侯爵だろうと、今夜の不祥事でこの護衛騎士もオルテンシアもおしまいだ。ジュリエッタは、険しい顔で立つマクシミリアンと呆然としているオルテンシアを見て、鼻で笑った。
「いったい何事だ?」
騒ぎを聞きつけたレヴェル公爵夫妻とエミリオが駆けつけた。その後ろには、隠れるように立っているフラヴィオの姿も見える。
「ジュリエッタ嬢、何故ここに――」
険しい表情の公爵夫妻に歩み寄ると、ジュリエッタはすました顔を上げた。
「聖女様が護衛騎士と不貞を働かれていたので、皆様にお知らせしましたの」
月明かりに煌めく噴水の傍。マクシミリアンの腕に守られるように抱き寄せられているオルテンシアの姿に、公爵夫妻は目を見開いた。
夜会用に美しく整えられていたはずのオルテンシアの髪は全てほどけ、細い肩を覆っている。
公爵は扇で口元を隠すジュリエッタを振り返った。僅かに弧を描く瞳は、愉悦の色を滲ませている。
(この恥知らずは、いったい何をしたんだ……!!)
レヴェル公爵は一瞬で顔色を変えると、わなわなと拳を震わせた。
「お前は、何をやっているんだ!!」
公爵の怒声に、肩をビクリと震わせたジュリエッタは目を見開いた。
エミリオとフラヴィオは蒼白な顔で立ち尽くし、青ざめた公爵夫人は震える手で口元を覆っている。夫人は今にも倒れそうな様子だった。
そして、立ち尽くすジュリエッタを押しのけたレヴェル公爵夫妻は、マクシミリアンとオルテンシアに向かって深く頭を下げた。
ジュリエッタが見たこともないほどに、深い礼だった。
「ベルディア侯爵、この度は――」
「もう謝罪は結構です。そちらのご令嬢はお知り合いですか」
「息子の――婚約者で……」
「それなら話が早い。その令嬢も含めて、二度と私たちの前に姿を見せないでいただきたい」
(どうして、お義父さまが頭を下げているの? ……ベルディア侯爵なんて、聞いたこともないわ。顔が良いだけの田舎貴族でしょう?)
不躾なジュリエッタの視線など気にも留めず、マクシミリアンは公爵を真っ直ぐに見据える。
「命よりも大切な婚約者の涙を見て、思わず剣を抜いてしまいそうになりましてね……お分かりいただけるだろうか」
公爵は、マクシミリアンの腰に輝く白銀の柄を見て息を呑んだ。
王国騎士団の第二師団長で国王の甥でもあるマクシミリアンは、聖女の護衛騎士として夜会でも帯剣を許されていた。
『剣を抜きそうになった』――その言葉はマクシミリアンにとって、怒りを表す表現の一つだったが、彼は剣の名手としても名が知られていたため、公爵だけでなく周りの者たちを震え上がらせるには十分だった。
「……お詫びのしようもありませんが、当家にできうる限りの謝罪を――」
「結構です」
冷たい声音で言い切ったマクシミリアンに、公爵の瞳に絶望の色が滲む。
「……ベルディア侯爵、このことについては――」
「今回のことは、決して許すことはできません。……ですが、決めるのは私ではない」
マクシミリアンは、オルテンシアを守るように抱き寄せた。
彼らを囲むように、貴族たちは大勢集まっていた。マクシミリアンが言わずとも、大公家や国王に話が伝わるのは時間の問題だった。
揃って深く頭を下げている公爵夫妻やフラヴィオたちの姿に、扇を握るジュリエッタの指先は震えだした。
(どうして……? だって、公爵家の方が格上でしょう? それに、なんで浮気してるオルテンシアが責められないのよ!?)
夜会に滅多に顔を出さなかったマクシミリアンを、ジュリエッタは一度も見たことがなかった。
状況をまだ理解していない彼女は、マクシミリアンに抱き寄せられているオルテンシアを悔しげに睨みつけると、勢いよく指差した。
「どうして不貞を働いたオルテンシアを許すのよ? 師団長と婚約しているくせに、護衛騎士なんかと恋仲になるような女、聖女にふさわしくないでしょう?!」
公爵一家は、まるで時を止めたかのように唖然と立ち尽くした。
集まっていた貴族たちも、驚きのあまり静まり返っている。
響くのは、噴水で流れる静かな水音だけだった。
そんな中で、マクシミリアンだけがジュリエッタを真っ直ぐに睨んだ。
「私は王国騎士団第二師団長、マクシミリアン・ド・ベルディア。この国の聖女であるオルテンシア嬢の正当な婚約者だ」
「えっ……だって……師団長は……」
小さな声で口籠ったジュリエッタは、それ以上何も言えなかった。あたりを見回しても、自分に向けられているのは、呆れたような視線や侮蔑の眼差しだと気づいたのだ。
(嘘よ……師団長が、こんなに若いなんて……)
だが、誰も否定しないということは、事実だということ。――そう、ジュリエッタもやっと理解した。
胸の前で扇を握る彼女の手は、小刻みに震えていた。
「二度と私の大切なシアに近づくな」
マクシミリアンは、まるで射殺すような眼差しでジュリエッタを一瞥すると、オルテンシアを抱き上げて颯爽と王城を後にした。
そして、噂はたちまち広まった。
この夜会で、レヴェル公爵子息の婚約者のヴァレンティノ伯爵令嬢が、ベルディア侯爵と聖女オルテンシアに大変な無礼を働いたのだと――
会場中の視線と囁きに耐えかねて、レヴェル公爵一家とジュリエッタは、逃げるように大広間を出た。馬車に乗り込んだ彼らは、ひと言も喋らなかった。
そして、遅れてことを知ったヴァレンティノ伯爵夫妻も、真っ青な顔で王城を出た。
彼らは、レヴェル公爵家に入り浸っていた愛娘が『公爵夫人』の座を失うどころか、伯爵家が取り潰しになる可能性に怯えながら馬車に揺られた。




