27話 花月の夜会 〈ジュリエッタsideあり〉
五月最後の夜を迎えたフィオレンツァの王城では、国王主催の花月の夜会が開かれていた。
夜空には淡い金色に輝く満月が浮かび、その柔らかな光を受ける王城は、綺羅びやかな灯りに満ちている。
花の細工が施された白い列柱が並ぶ回廊を甘い花の香が渡り、人々のざわめきが響いていた。
「王国騎士団第二師団長マクシミリアン・ド・ベルディア侯爵、並びに婚約者の聖女、オルテンシア・ローディア侯爵令嬢」
よく通る侍従官の声に、会場中の視線がマクシミリアンとオルテンシアの二人に集まった。
夜会には滅多に顔を出さない大公家の子息と話題の聖女の姿に、会場はしんと静まり返った。
(緊張するわね……しっかりしないと)
五年前に侯爵家が多額の負債を背負ってから、社交界に顔を出すことがほとんどなかったオルテンシアにとって、大きなシャンデリアに照らされた王城の大広間はあまりに眩しすぎた。集まる視線も、まるで肌に突き刺さるかのように感じたのだ。
オルテンシアは、この夜会のためにマクシミリアンから贈られた象牙色のドレスの裾にそっと触れた。最高級の刺繍が施された裾が、足を進めるたびに微かな衣擦れの音を立てる。
「シア、私がいますよ」
オルテンシアの耳朶に、マクシミリアンの柔らかな低い声が落ちた。
切れ長の青い瞳がオルテンシアを愛しげに見つめる。彼は白い手袋に包まれた手で、微かに震えていたオルテンシアの手を包むようにそっと握った。
オルテンシアは、心までが、まるで彼の手の温もりに包まれているかのように感じた。
「マクス様、ありがとうございます」
オルテンシアはふわりと微笑むと、マクシミリアンの腕をそっと握った。
普段とは違い、マクシミリアンは前髪を軽く撫でつけ、額を露わにしていた。
彼が纏う黒い騎士用の礼装は微かに艶の感じられる生地で、金色の肩章と飾緒が上品に煌めいている。左胸に輝く幾つもの勲章や記章は、二十七歳という若さで師団長に登り詰めた彼の騎士としての実力を表していた。
「あれがマクシミリアン卿ね……噂には聞いていたけれど、本当に素敵な御方ね」
「なんでも、百人の令嬢からの恋文をすべてお断りになったとか……そんな御方が、聖女様には夢中だそうよ」
マクシミリアンとオルテンシアの噂話に花を咲かせる令嬢たち。
そこへ、遅れて現れたジュリエッタが顔を覗かせた。
波打つ豊かな赤毛に黒いチュールレースの付いた赤い薔薇の髪飾りを着け、フリルが幾重にも重なった真紅のドレスで着飾った彼女の姿はとても目立っていた。
(フラヴィオ様ったら、つれないんだから……)
ジュリエッタをエスコートして入場したフラヴィオは、挨拶回りをする公爵に張り付いていた。その様子を見て不満げに目を細めると、ジュリエッタは会場を見回しながら歩く。
眉をひそめる令嬢たちを気にも留めず、ジュリエッタは膨らんだドレスの裾で彼女たちを押し退けた。
(いたわ……!)
オルテンシアの姿を見つけたジュリエッタは目を輝かせた。
だが、彼女の弧を描いた琥珀色の瞳は大きく見開かれた。
オルテンシアの傍らにいる騎士が、年嵩の師団長ではなく、若く凛々しい騎士だったからだ。
(何よあれ……聖女だからって、あんなに素敵な護衛騎士を侍らせるなんて……)
ジュリエッタの胸に、どす黒い感情が渦を巻いた。マクシミリアンは、彼女が見てきた第一師団のどの騎士よりも容姿端麗だった。
「聖女様も素敵ね。さすが王家の血を引く御方だわ……」
「見て! あのネックレスも髪飾りも、ホワイトオパールよ! お噂通り、とても愛されておいでなのね」
ジュリエッタの瞳が、オルテンシアの結い上げられた髪を飾る白薔薇を捉えた。美しく編まれた淡い金の髪に、白い宝石が淡い光を散らしている。
「ぷっ……」
吹き出したジュリエッタは、扇で口元を押さえた。
フラヴィオと婚約白紙になる以前から、オルテンシアがあの髪飾りばかり着けていたのを彼女は知っていた。
(あんなのまがい物よ! 婚約したのに髪飾りも贈ってもらえないなんて、可哀想だこと……)
ジュリエッタは、オルテンシアに憐れむような視線を向けた。その眼差しには、嘲笑が滲んでいる。
「聖女様の花冠は白薔薇だそうよ。とっても珍しい品種なんですって」
「まあ、素敵……羨ましいわ。侯爵夫人になられるのよね」
まだフラヴィオから花冠を受け取っていないジュリエッタは、鼻を小さく鳴らして僅かに俯いた。
(何よ……私は公爵夫人になるのよ。つる薔薇の花冠だって、もう用意してもらってるんだから)
扇を握り締め、令嬢たちから顔を逸らした彼女の視界を、マクシミリアンにエスコートされたオルテンシアが横切る。
オルテンシアが足を進めるたびに、象牙色のドレスの裾が柔らかく揺れ、淡い七色の刺繍がシャンデリアの灯りを受けて煌めいた。
鮮やかなドレスや落ち着いた色の燕尾服がひしめき合う大広間で、誰よりも清楚なドレスを纏ったオルテンシアは、まるで物語の姫君のように一際目立っていた。
皆が羨望の眼差しを向ける中で、ジュリエッタだけは忌々しげに目を細める。
(何が聖女よ……所詮、傷を癒す力もないお針子でしょう? 貧乏オルテンシアのくせに、生意気だわ……)
ジュリエッタは、黒い手袋に包まれた右手で扇をきつく握り締めると、憎らしげにオルテンシアを睨んだ。
◇
(マクス様、早くお戻りにならないかしら……)
私は、庭園から大きな窓を見つめた。
煌々と灯りが満ちた大広間からは、ざわめきが聞こえてくる。
庭園には、噴水の水音と夜風に揺れる草木のさざめきだけが響いていた。
微かに波打つ噴水の水面には、満月が静かに揺らめいている。
柔らかな夜風が淡い色の花々を優しく揺らし、ドレスの裾をさらりと撫でていった。
『男性は通さないよう伝えてあります。すぐに戻りますから』
マクス様はそう言って、大広間へと戻っていったままだ。
『どうしても謝罪がしたい』と歩み寄ってきたレヴェル公爵夫妻との話を終わらせるためだった。
「はぁ……」
小さなため息をこぼしたとき、コツコツとヒールの音が背後から響いて、突然に後ろ髪を掴まれた。
ぐいと後ろに引っ張られ、綺麗に結い上げてもらった髪が、はらりと背中に落ちる。
「何をなさるの!?」
髪を押さえながら振り返る。
そこに立っていたのはジュリエッタだった。意地悪そうに目を細め、私の頭の天辺から爪先までを品定めするかのように睨みつけている。
「フラヴィオ様に捨てられたくせに、『聖女』だなんて呼ばれて、随分調子に乗ってるみたいね?」
小さく息を呑んだ。彼女の態度は前から挑戦的だったが、ここまでひどくはなかったからだ。
「どうせ、王家の薄ーい血と師団長のコネで聖女になったんでしょう? お針子しかできないくせに、早く辞めないと恥ずかしい思いをするわよ」
あまりの発言に何も言えずにいると、ジュリエッタは口の片端を上げ、私を見下すかのように笑った。
彼女の黒い手に握られた白薔薇の髪飾りが灯りに煌めいて、私はドレスの裾を握り締める。
「これ、随分前から気に入ってるみたいね?」
「それを返して!」
「ふん。ホワイトオパールだなんて嘘をついて、恥ずかしくないの?」
「なんのことだかわからないわ。それを早く返して」
私は彼女に手を差し出した。
マクス様から贈られた髪飾りもネックレスも、全てホワイトオパールだ。
裕福な伯爵家で育ち、公爵令息のフラヴィオと結婚するのだと噂されるジュリエッタ。令嬢たちから羨ましがられている彼女が、何故こんなことをしてくるのか、私には理解できなかった。
「髪飾りも贈ってもらえないなんて、同情するわ……あなたのお相手、いい年をして随分気が利かないみたいね? さすが、師団長のくせに、遅くまで売れ残ってるはずだわ!」
(なんですって……?)
あまりの悔しさと怒りに、目の奥が一瞬で熱くなる。滲んだ涙がこぼれないように、私は彼女を睨みつけた。
「撤回して! マクス様は誰よりも素敵な方よ! 悪く言うなんて、絶対に許せないわ!!」
「バッカじゃないの!? どうせ、あの素敵な護衛騎士が相手なら良かったと思ってるくせに!!」
「何を言って――」
「アンタの相手、侯爵だそうね? 私は公爵夫人になるのよ! アンタより、私の方が格上になるんだから、偉そうにするのはやめておいた方が良いわよ!」
私に扇を向けて歪んだ笑みを浮かべるジュリエッタに返す言葉もなかった。
黙っていると、彼女は面白くなさそうに私を睨みつけた。
「前から、貧乏なくせにすましてるアンタが嫌いだったのよ……。何が聖女よ! アンタには、売れ残り師団長がお似合いよ!」
「やめて……!」
私の後ろへ向かって放り投げられた髪飾りに、慌てて振り返る。
大理石の噴水の底で、七色の輝きが淡く揺らめいているのが見えた。
(マクス様からの、初めての贈り物なのに……!)
噴水へと駆け寄り、白薔薇の髪飾りへと必死に手を伸ばす。
そのとき、急くような硬い靴音が石畳に響いた――




