2話 婚約白紙
「オルテンシア、なんて顔をしてるんだ。それじゃあまるで、僕やジュリエッタが悪いことをしているみたいじゃないか」
(この人、全く自覚がないのね……)
フラヴィオ様は、私を傷付けていることに少しも気が付いていない様子だった。
『花冠を贈るのは、一生に一人だけ』――この王国の男ならば、誰であれ幼い頃からそう言われて育つはずだ。
それなのに彼は、婚約式を控える私を差し置いて、幼馴染のジュリエッタに花冠を捧げ、私の“秘密”まで漏らした。
彼らに何と言われようと、それは変えられない事実だった。
(いつもそうだわ……フラヴィオ様は、いつだってジュリエッタさんばかり――)
『その日は、ジュリエッタと約束してるんだ。君とは、結婚してからずっと一緒にいられるだろう?』
『もうすぐジュリエッタの誕生日なんだ。一緒にプレゼントを選んでほしい』
そう言いながら、彼は結局ジュリエッタが望んだという宝石のネックレスを選んだ。金の鎖に大きなアメジストの宝石。――それはまるで、彼の金髪と紫色の瞳を表しているかのようだと思った。
そして、私の誕生日の贈り物の真珠のネックレスは、ジュリエッタが選んだそうだ。何も知らず喜んだ私に、フラヴィオ様は得意げに語った。
彼は婚約式の日取りが決まっても、私を後回しにし続けた。
私がやんわりとジュリエッタと距離を空けるように伝えたときには、「彼女はただの幼馴染だ。嫉妬深い女性は嫌いなんだ……うんざりするよ」と、不愉快そうに私を睨みつけた。
それでも、彼から花冠を捧げられて正式に婚約すれば、きっと彼らの関係は変わるはずだと信じていた。
いや、信じようとしていたのかもしれない――
「……私、余計なことしちゃったみたいね。……これ、オルテンシア様に返すわ」
しおらしい顔になったジュリエッタが、頭から外した花冠を差し出してきた。だが、その瞳は試すように私を見ている。
怒りに震える指先を、私は小さく握った。
「先に、私がもらってしまったけれど……フラヴィオ様がせっかく編んだものだから……」
そう言いながら、弧を描いた琥珀色の瞳。彼女が少しも悪く思っていないのだと、容易に理解できた。
「ジュリエッタさん、わたくしは――」
「それはジュリエッタにあげたんだ。オルテンシアに譲る必要はない」
「子供の頃から、僕の花冠を欲しがっていただろう」と、フラヴィオ様はジュリエッタの手から花冠を取り上げ、再び彼女の頭に載せた。
「あれ……フラヴィオ様よね?」
「素敵! 婚約されたのね」
通りがかりの令嬢たちの声に、フラヴィオ様は少し気まずそうに視線を泳がせた。
私たちの婚約の予定については、まだ広くは知られていない。これで、ジュリエッタが彼の婚約者だと広まるだろう。
「フラヴィオ様……」
彼の名を小さく呼ぶことしかできない私を見て、彼は薄く笑った。
「オルテンシア。文句があるなら、婚約の話は白紙にしても良いんだよ?」
(白紙……?)
私は言葉も出なかった。
勝ち誇ったように笑うジュリエッタに、フラヴィオ様は気付いているのだろうか。
以前、彼女が私の家のことを『血筋だけの侯爵家』だと口にしたとき、彼は否定すらしなかった。
そして、彼は言った。
『僕以外に、君なんかと結婚する男はいないよ』――あの時の私は、胸を刺した小さな痛みに気付かないふりをした。
公爵家との願ってもない縁に喜ぶ両親に、ホッとした顔の兄。
レヴェル公爵家が、私に流れる王家の血だけを目当てにしていることには薄々気付いていた。けれど、他に縁のない私が彼との縁談を断ることなど、頭の片隅にも浮かばなかったのだ。
(きっと、これからもわたくしを見下して、ジュリエッタさんを大切にするんでしょうね……)
もう、限界だった。
彼から花冠を捧げられても、きっと少しも嬉しくない。
何より、こんな男と結婚するために、これ以上私が我慢する必要があるのだろうか――
「フラヴィオ様は……ジュリエッタさんと結婚されたいのですか」
ほんの微かに震えた声は、思っていたよりも低く冷めていた。ずっと胸の奥に押し込めて、聞けずにいた言葉を、私は初めて口にしたのだ。
僅かに口籠った彼は、傍らに立つジュリエッタの肩を抱き寄せた。
「そうだな……それも良いかもしれない」
そう言って、ジュリエッタを見つめた彼を見た瞬間――私の心に少しだけ残されていた彼への淡い想いは消え去った。
婚約予定の相手をこんなにも蔑ろにして、他の女を優先する男を、誰が愛すことができるだろうか――
「……婚約を白紙にするお話、承知いたしました」
私はそう小さく返すと、彼に背を向けた。
「今、何と言った……? オルテンシア、待ってくれ――」
「フラヴィオ様、せっかくだから、このまま街を歩きたいわ……もうすぐ、こうして一緒に歩けなくなるでしょう?」
「……ああ、わかったよ。行こう、ジュリエッタ」
一度だけ振り返ると、去っていく二人の後ろ姿が見えた。
フラヴィオ様は、花冠を載せたジュリエッタの肩を抱いている。まるで、結婚を控えた恋人同士のようだ。
きっと今日も、彼女が欲しがったドレスや宝石を、彼は惜しげもなく買い与えるはずだ。
それを見かけた誰もが祝福し、「婚約おめでとう」と声をかけるのだろう。
私は、静かに零れ落ちる涙を拭い、ドレス店にキャンセルの連絡をしてから、家へと帰った。
「オルテンシア、いったい何があったの?! 今日は婚約式のドレスの試着だったはずでしょう!」
「お母様……わたくしに、縁談の話があるのでしょう?」
「あなた……どうして、それを知って……」
数日前、兄と両親が話しているのを偶然聞いていたのだ。私が婚約式を控えていることを知りながら、私との婚約を望んでいる人がいることを――
それが誰かは知らないけれど、誰であろうと、あのフラヴィオ・レヴェルよりはマシだ。絶対に。
「フラヴィオ様との婚約は白紙ですわ。お母様、縁談をお受けします。今すぐに」
彼に未練など微塵もない。
涙に濡れた私の瞳にも、冷え切った心にも、もう迷いなどなかった。
「――花冠を、他の娘に贈っただと?!」
父と兄が帰ってきてから、私は今日起きた出来事を全て説明した。
「オルテンシア……辛かったな……」
母は涙を流し、父と二番目の兄のレナートは怒りに震えていた。
「婚約は白紙だ!! すぐにレヴェル公爵家に書状を送る。あんな男に、大事な娘を任せられん!」
「それなら、僕は訴状を送り付けようかな」
レナート兄様の軽口に、私は小さく笑った。
心配そうにしていた両親の顔が和らいだのが、何よりの救いだ。
こうして、私とフラヴィオ・レヴェル公爵子息との婚約は白紙になった――




