第3話 火と塩の気配
川の下流に揺れる橙色の光を頼りに、私は暗い森を歩いていた。
といっても、拠点から遠く離れたわけではない。
帰り道を見失わないよう、数歩ごとに木の幹へ泥で印をつけている。地面にも枝を並べ、自分にしか分からない矢印を作った。
異世界に来て初日に迷子になり、そのまま魔物に食べられるなど、あまりに格好がつかない。
「枝豆娘、森で遭難して終了……は嫌すぎる」
昼間でさえ不気味だった森は、夜になると別の場所に変わっていた。
枝を踏む小さな音。
草むらを駆け抜ける何かの気配。
遠くから響く獣の声。
私は頭の枝豆を両手で押さえながら、慎重に足を進める。
前世では、上司の機嫌を読むことに全神経を使っていた。
まさか今度の人生では、角の生えた狼の気配を読みながら歩くことになるとは思わなかった。
やがて、木々の間に開けた場所が見えた。
布を張った小さな天幕。
地面へ突き立てられた二本の槍。
その中央で、焚き火が赤々と燃えている。
火の上には、金属製の鍋が掛けられていた。
「鍋……!」
思わず声が漏れそうになり、慌てて口を押さえる。
鍋の中では、干し肉と根菜らしきものが煮込まれていた。
湯気に乗って、温かな匂いが流れてくる。
焚き火を囲んでいるのは、革鎧を身につけた二人の男だった。
片方は大柄で、腰に剣を下げている。
もう片方は細身で、弓と矢筒を背負っていた。
商人というより、冒険者だろう。
そのすぐ脇に、小さな木製の壺が置かれている。
鍋。
火。
そして、あの壺が塩なら。
私の悲願である塩ゆで枝豆が、ついに完成する。
「でも、どうやって近づけば……」
頭から枝豆を生やした少女が、真夜中の森から突然現れる。
どう考えても怪しい。
魔物か。
妖精か。
森に迷い込んだ変な子供か。
どれに分類されるとしても、剣を向けられる可能性は高かった。
まずは遠くから声をかけるべきだろうか。
敵意がないことを示すため、枝豆を手土産にするか。
そんなことを考えながら後ずさった瞬間、足元で乾いた枝が折れた。
ぱきり。
森の中では、驚くほど大きな音だった。
「誰だ!」
大柄な男が立ち上がった。
剣を抜き、こちらへ向ける。
弓を持った男も矢をつがえ、茂みへ狙いを定めた。
「出てこい! 魔物なら撃つぞ!」
逃げるべきか。
名乗るべきか。
迷っている間にも、矢の先端がこちらへ向けられている。
私は覚悟を決め、両手を上げながら茂みから出た。
「撃たないでください! 食べ物を探しているだけです!」
二人の冒険者が固まった。
剣と弓は、まだこちらへ向けられている。
視線だけが、ゆっくりと私の顔から頭へ移動した。
「……子供?」
「いや、待て。頭に何か生えてるぞ」
大柄な男が目を細める。
「植物型の魔物か?」
「違います!」
私は即座に否定した。
たぶん人間だ。
少なくとも、自分ではそのつもりである。
「人間です。頭に枝豆が生えているだけです」
「エダマメ?」
二人が同時に首をかしげる。
やはり、この世界に枝豆という言葉はないらしい。
私は頭の莢を一つ指さした。
「この緑色の莢の名前です。中に豆が入っています」
「食えるのか?」
「茹でれば、ものすごくおいしいです」
冒険者たちは顔を見合わせた。
剣を持った男が、わずかに眉をひそめる。
「茹でれば、ということは、まだ食ったことがないのか?」
「前の世界では何度も食べました」
「前の世界?」
「そこは今、説明すると長くなります」
正直に答えたのに、怪しさが増した気がする。
弓を持った男は警戒を解かず、私の全身を観察していた。
「こんな時間に、子供が一人で何をしている」
「川上に寝床を作りました。でも火も鍋もなくて、食べ物を調理できないんです。火の光が見えたので来ました」
「仲間は?」
「いません」
「親は?」
「たぶん、別の世界です」
二人が再び顔を見合わせる。
今度は、かなり困った表情だった。
嘘をついていると思われたのか。
頭を打った子供だと思われたのか。
どちらにせよ、すぐに斬られる雰囲気ではなくなった。
大柄な男が剣を下ろす。
「そのエダマメとやらを見せろ。妙なことをしたら斬るぞ」
「分かりました」
私は頭から莢を一つもぎ取った。
ぷつり、と軽い痛みが走る。
男たちが同時に一歩後ずさった。
「本当に頭から取ったぞ……」
「大丈夫です。また生えてきます」
もぎ取った場所では、すでに小さな芽が膨らみ始めていた。
それを見た二人の表情がさらに引きつる。
説明するほど、人間から遠ざかっている気がする。
私は莢を開き、中の緑色の豆を見せた。
「このままでは食べません。莢ごと塩水で茹でます」
「毒は?」
「ありません。たぶん」
「たぶん?」
この世界の土で育てた枝豆なので、絶対とは言い切れない。
しかし、促成栽培したときに感じた感覚では、前世の枝豆とほとんど同じだった。
「私が最初に食べます。それなら大丈夫でしょう?」
男は少し考え、ようやく剣を鞘へ戻した。
「いいだろう。ただし、俺たちの鍋へ妙なものを入れるな。別に湯を沸かしてやる」
「本当ですか!」
思わず一歩踏み出すと、再び剣の柄へ手をかけられた。
私は慌てて立ち止まる。
「すみません。鍋がうれしくて」
「鍋を見てそんな顔をする奴は初めてだ」
焚き火の近くには、スープ用とは別に、小さな金属鍋が置かれていた。
大柄な男がそこへ川の水を入れる。
「塩はありますか?」
「ああ。岩塩ならある」
木製の壺が開けられた。
中には、白っぽい結晶を砕いたものが入っている。
塩。
紛れもなく塩だ。
私は危うく、その場へひざまずきそうになった。
「そんなに珍しいものでもないだろ」
「今の私には、金貨より価値があります」
男は呆れながら、鍋へ塩をひとつまみ入れた。
「これくらいか?」
「もう少しお願いします」
「結構入れるんだな」
「莢の外側にも塩を擦り込みたいです」
「注文が多い子供だな」
文句を言いながらも、男は塩を分けてくれた。
私は頭からいくつか莢をもぎ取る。
それだけでは足りない。
焚き火から少し離れた地面へ豆を埋め、手を当てた。
「《促成栽培》」
淡い緑色の光が土へ流れ込む。
冒険者たちが、再び武器へ手を伸ばした。
しかし、地面から現れたのは魔物ではない。
芽が伸びる。
茎が育つ。
葉が開く。
数秒後には、枝豆の株が青々と茂り、無数の莢を実らせていた。
二人の男が絶句している。
「畑が……生えた」
「畑は普通、生えるものじゃないぞ」
「これは私のスキルです」
私は枝豆を収穫し、水で軽く洗った。
莢へ塩を擦り込み、沸騰した鍋へ入れる。
じゅっ、と音がした。
鮮やかな緑色の莢が湯の中で揺れる。
久しぶりに見る、懐かしい光景だった。
前世では、居酒屋で注文すれば数分で運ばれてきた。
スーパーへ行けば、冷凍されたものがいくらでも売られていた。
火も。
鍋も。
水も。
塩も。
どれも当然にあるものだと思っていた。
だが、この世界では、その一皿へたどり着くだけでも命懸けだった。
茹で上がった莢を湯から取り出し、少し冷ます。
表面へ塩を振った。
緑色の莢に、白い粒が付着する。
「できた……」
手が震えた。
私は莢を口元へ運び、指で押す。
中の豆が、つるりと口へ飛び込んだ。
柔らかな食感。
噛むほどに広がる甘み。
そのあとから追いかけてくる、塩の刺激。
「……これだ」
空腹だったからではない。
懐かしかったからでもない。
異世界で最初に自分の力で手に入れた、温かい食事だった。
「おい、泣いてるぞ」
「泣いてません。湯気です」
「もう湯気は出てないが」
私は無視して、二つ目の莢へ手を伸ばした。
冒険者たちは、鍋を遠巻きに眺めている。
「食べますか?」
「頭から生えたやつだろ?」
「畑から取ったほうをどうぞ」
「そういう問題なのか……?」
二人は警戒しながら、それぞれ一莢ずつ手に取った。
食べ方を説明すると、恐る恐る豆を口へ押し出す。
大柄な男が噛む。
細身の男も続く。
二人とも、しばらく黙っていた。
「……うまいな」
「だろう?」
思わず胸を張った。
私が作った品種ではない。
ただ育てて茹でただけだ。
それでも、自分が褒められたようで誇らしい。
大柄な男は、すぐに二莢目へ手を伸ばした。
「これ、酒に合いそうだな」
「分かってるじゃないですか」
「酒はないぞ」
「そうですか……」
異世界最初の塩ゆで枝豆は完成した。
だが、生ビールまでは用意されていなかった。
どうやら私の異世界生活には、まだまだ足りないものが多いらしい。
そして翌朝。
二人の冒険者は、枝豆の株を見ながら私へ尋ねた。
「なあ。このエダマメってやつ、もっと作れるのか?」
その質問が、森の小さな寝床を人の集まる拠点へ変える、最初のきっかけになった。




