第22話 帰還、そして新たな農作業
旧東方開拓試作農場へ入ってから、八日目の朝。
私たちは、作業小屋の前に荷物を並べていた。
持ち帰るものは多くない。
試験用に精米した米の残り。
乾燥させた稲穂。
発芽状態を調べるための種籾。
脱穀器と籾すり道具の簡単な図。
補助排水路と泥蟹池の位置を書き込んだ地図。
それから、泥蟹の甲殻片が数枚。
「本当に、これだけでいいのか?」
ガルドが、黄金色の稲穂が残る水田跡を見渡した。
「全部持ち帰ったら、来年ここで増えないでしょう」
野生化した稲が、どの程度自然に種を落とすのかは分からない。
それでも、群生地を丸ごと刈り取るわけにはいかなかった。
必要な量だけ収穫する。
残りは現地へ残す。
それが、補給局から許可を得た条件でもある。
「種籾も、三つに分けてあります」
私は小さな木箱を確認した。
一つ目は、大豆村での発芽試験用。
二つ目は、保存用。
三つ目は、東方補給局へ提出する標本だ。
一つの袋へ全部入れて、途中で水へ落としたら終わる。
大豆なら、頭からまた生やせる。
だが、稲はそうはいかない。
乾いた藁で包み、布袋へ入れ、さらに木箱へ収めてある。
「ずいぶん厳重だな」
セインが言った。
「白米の未来が詰まっていますから」
「金貨より重い扱いだな」
「金貨は食べられないでしょう?」
「普通は金貨で食料を買うんだ」
それはそうなのだが、種籾の価値は金貨だけでは決められない。
これを増やせれば、一食分のご飯が百食分になり、いつか村全員の朝食になる。
箱の中に入っているのは、穀物ではなく未来の水田なのだ。
出発前に、私たちは補助排水路をもう一度確認した。
腐った弁へ開けた穴は、木栓で水量を絞ってある。
少量の水だけが新しい溜め池へ流れ続けていた。
泥蟹池には、巨大な母蟹と幼体たちがいる。
味噌を与えなくても、水中の虫や小魚、植物の根を食べているらしい。
私たちが餌をやり続けなければ生きられない場所ではない。
「これなら、しばらく放置しても池は干上がらない」
セインが水位を確認した。
「ただし、大雨が来れば補強部分が崩れる可能性はある」
「そのときまでに、正式な修理の許可を取らないとね」
旧水門は、まだ使える状態ではない。
補助排水路も仮補修のまま。
泥蟹親子を移動させ、水田跡へ入れるようになっただけだ。
農場を復活させたわけではない。
ようやく、再生を始められる状態へ戻したのだ。
私は枝豆の垣根越しに泥蟹池を見た。
巨大な母蟹が、泥の中からこちらへ触角を向けている。
友好的な様子はない。
こちらへ近づくな、と警戒しているように見える。
「仲良くなったわけではないのよね」
「当たり前だ」
ガルドが即答した。
「味噌で引っ越しさせただけだ」
「同じ土地で、お互いの場所を分けられただけでも十分よ」
水田は人間の場所。
池は泥蟹の場所。
その境界を守れるなら、無理に全てを倒す必要はない。
私たちは作業小屋の扉を閉めた。
扉と呼べるほど立派なものではないが、雨風を多少は防げる。
補給局の調査員が来たとき、最低限の拠点にはなるだろう。
「また来るからね」
私は水田跡へ向かって言った。
黄金色の稲穂が、湿地の風に揺れた。
返事の代わりに、泥蟹池から鋏の音が聞こえる。
かちん。
「今のは見送りか?」
ガルドが尋ねた。
「警告だと思う」
「だろうな」
私たちは最低限の荷物を背負い、東方都市へ戻る道を歩き始めた。
荷車は都市の宿へ預けたままだ。
湿地の中へ持ち込めなかったため、収穫物も道具も全て人力で運ぶしかない。
行きと同じ泥道。
行きと同じ吸いつくような足場。
それでも、帰りの足取りは少し軽かった。
「この泥も、前ほど嫌に見えないわね」
私は長い棒で足元を確かめながら言った。
「感覚が麻痺したのか?」
「違います。水田に向いている土地だと思えば、宝の山に見えてくるのよ」
「泥を宝と言い始めたぞ」
ガルドが心配そうにこちらを見る。
おいしいご飯を一度食べただけで、湿地を見る目まで変わってしまった。
人間の食欲とは恐ろしい。
一日半をかけ、私たちは東方都市へ戻った。
門をくぐると、そのまま宿へは向かわず、東方補給局へ行く。
報告を先に済ませなければ、持ち帰った種籾も正式な試験材料として扱えない。
記録官のオルセンは、私たちの泥まみれの姿を見ると眉を上げた。
「生きて戻ったか」
「無事に稲を確認できました」
私は木箱から、標本用の穂と籾を取り出した。
「それから、実際に籾殻を外し、精米して、炊飯にも成功しました」
「食べたのか?」
「はい」
「記録では、何時間煮ても食べられなかった穀物だぞ」
「殻をつけたまま煮たからです」
オルセンの顔が固まった。
どうやら、十七年前の開拓団へ少し同情しているらしい。
私は調査記録を机へ広げた。
野生化した稲の群生範囲。
旧水門の損傷。
補助排水路の位置。
仮に作った溜め池。
泥蟹の巣穴。
親個体と幼体を移動させた経緯。
オルセンは黙って記録を読んでいた。
「泥蟹を討伐せず、別の水場へ移したのか」
「水田を壊されなければ、倒す必要はありませんから」
「その水場は維持できるのか?」
「補助排水路から少量ずつ流しています。ただし仮補修なので、大雨には耐えられないと思います」
「正直だな」
「壊れるものを、直ったとは言えません」
オルセンは水路図へ印をつけた。
「現地調査員を派遣する。農場の管理権については、私の権限では決められん」
当然だった。
一度水路を掘っただけで、広大な農場が私たちのものになるはずがない。
土地は領主のもの。
水路や水門の本格修理には、人手も資材も金も必要だ。
「だが、持ち帰った種籾の小規模な試験栽培は許可できる」
オルセンは一枚の書類へ印を押した。
「大豆村の周辺で育成条件を調べ、収穫量と品質を報告すること。種籾の売却や領外への持ち出しは禁止だ」
「分かりました」
これで、大豆村に小さな水田を作れる。
いきなり大規模な栽培はできない。
だが、村の土と水で発芽するかどうかを試すことはできる。
オルセンは、最後に稲穂を一本持ち上げた。
「本当に、うまいのか?」
「味噌汁と一緒に食べると最高です」
「そうか」
記録官の顔が、ほんの少しだけ緩んだ。
「次に炊けたら、標本だけでなく試食も持ってこい」
「検査ですか?」
「記録のためだ」
たぶん、食べたいだけだと思う。
補給局への報告を終え、宿へ戻る。
赤帽子の商人ハインは、食堂で帳簿を確認していた。
私たちの姿を見るなり、椅子から立ち上がる。
「本当に帰ってきたか!」
「帰ってきました」
「泥蟹は?」
「専用の池へ引っ越しました」
「討伐したんじゃないのか?」
「一匹は食べました」
「話が全く分からん」
ハインは頭を抱えた。
その夜、私たちは久しぶりにまともな寝台で眠った。
翌朝、宿へ預けていた荷車を受け取る。
種籾の木箱。
記録の写し。
水路図。
農具。
残った大豆保存食。
来たときより荷物は増えている。
「結局、帰りも重いのか」
荷車の縄を握ったガルドが言う。
「未来の主食ですよ」
「軽くはならないのか?」
「中身を食べたら軽くなります」
「食べるなと言ってただろ」
今は食べてはいけない。
これは食料ではなく種だ。
ハインの商隊が西へ向かう日程と重なったため、途中の宿場町までは再び同行させてもらった。
そこから大豆村へ続く森の道へ入る。
帰路は順調だった。
領軍の野営地にも立ち寄った。
軍用大豆畑は、私たちが出発したときより広がっていた。
ただし、一部の葉が黄色くなっている。
兵士たちが同じ場所へ植えすぎ、土の栄養が偏り始めたらしい。
「帰り道まで農業指導か」
ガルドが呟く。
「畑は、作ったら終わりじゃないのよ」
大豆を収穫した場所へ、落ち葉と灰、家畜の糞を混ぜる。
次は畑を少し休ませる。
兵士たちへ最低限の説明をして、私たちは再び出発した。
大豆村を離れてから、何日経っただろう。
森の向こうに、見慣れた枝豆の防壁が見えた。
その内側には、小さな家。
畑。
発酵小屋。
煮炊きの煙。
「帰ってきた……」
村の子供が最初に私たちを見つけた。
「エダだ!」
その声で、畑にいた人々が一斉に振り返る。
「エダちゃん!」
「ガルドさんたちも帰ってきたぞ!」
子供たちが駆け寄ってくる。
私は荷車の横から手を振った。
「ただいま!」
村人たちの顔を見ると、胸の奥が緩んだ。
森で一人だった私が作った場所。
今では、帰ってくる場所になっている。
村の畑では、私がいない間も枝豆が育っていた。
通常の速さで植えた区画。
収穫を遅らせ、大豆へ成熟させている区画。
土を休ませている区画。
村人たちは、私の《促成栽培》がなくても畑を維持できていた。
「ちゃんと育てられたのね」
「エダちゃんに教わったとおりにしたんだ」
村人の一人が、誇らしげに答えた。
私がいなくても食料を作れる。
それは、大豆村を出る前に一番心配していたことだった。
畑が残っている。
人が残っている。
村が動いている。
旅の成果よりも、そのことがうれしかった。
やがて、村人たちの視線が荷車の木箱へ集まった。
「それが、探してた白米なのか?」
「米になる種です」
「食べられるのか?」
「食べられます」
歓声が上がった。
「じゃあ、今夜は宴だ!」
「食べません!」
私は木箱を抱え込んだ。
村人たちの動きが止まる。
「食べられるのに?」
「これは種籾です。全部食べたら、来年から一粒も増えません!」
「少しくらいは?」
「駄目です」
「東まで行って、持ち帰ったのに食べないのか?」
「増やしてから食べるんです!」
食料を持ち帰ったと思った村人たちの顔から、期待が消えた。
気持ちは分かる。
私だって食べたい。
だが、一食分を今食べるか。
百食分へ増やすか。
ここは我慢するしかない。
「代わりに、発芽試験を始めます」
私は村の中を見渡した。
川に近い低地。
水を引きやすい場所。
土を掘れば、水がたまりそうな窪地がある。
いきなり水田にするのは危険だ。
まずは種が芽を出すか調べる。
木箱から、試験用の種籾を十粒だけ取り出した。
浅い器へ布を敷き、水を含ませる。
その上へ種籾を並べた。
乾かないよう、発酵小屋の暖かい場所へ置く。
「これで稲になるのか?」
子供の一人が器を覗き込む。
「うまくいけばね」
「《促成栽培》を使わないの?」
「最初は普通に育つか確かめるの」
私の魔法で無理に発芽させても、大豆村の環境に適応できるか分からない。
水温。
土。
日照。
季節。
大豆とは違う条件が必要になる。
今回は、急がない。
種自身の力で芽を出してもらう。
二日後。
発酵小屋へ入った私は、器の前で足を止めた。
種籾の一つから、小さな白い根が伸びていた。
ほんの数ミリ。
見落としそうなほど細い。
それでも、確かに生きている。
「芽が出た……」
大豆村の土へ植えられる可能性がある。
東の湿地でしか育たない植物ではないかもしれない。
私は器を抱え、外へ飛び出した。
「みんな! 水田を作るわよ!」
村人たちが、一斉にこちらを見る。
ガルドは畑の隅で、大剣を振る代わりに鍬を持っていた。
私の声を聞き、嫌そうに空を仰ぐ。
「帰ってきた翌日から、また土木工事か……」
「白米のためです!」
「その言葉、万能すぎないか?」
大豆村への帰還は、旅の終わりではなかった。
一粒の種から、新しい畑を作る。
大豆だけだった村の主食へ、米を加える。
白米を探す旅は終わった。
今度は、白米を毎日食べられる生活を作る番だった。




