第21話 はじめての炊飯
作業小屋の窓から、青白い朝の光が差し込んでいた。
私は目を覚ますと、毛布を跳ねのけ、真っ先に木の器へ駆け寄った。
昨夜、水へ浸しておいた試験用の米が、器の底へ沈んでいる。
浸したのは数粒だけだ。
苦労して精米した米を、最初から全部水へ入れる勇気はなかった。
「どうなってる?」
眠そうな声とともに、ガルドが起き上がる。
「ちゃんと膨らんでる」
私は一粒を指でつまんだ。
昨夜より白くなり、少しだけ大きくなっている。
爪で割ってみると、中心まで水分が入り始めていた。
べたべたに崩れてもいない。
どうやら、この米も前世の米と同じように、水を吸わせてから炊けばよさそうだ。
「これなら炊ける」
「本当か?」
「たぶん」
「最後に不安な言葉をつけるな」
仕方がない。
前世で炊飯器のボタンを押した経験は何度もある。
だが、鉄鍋と薪だけで米を炊いた経験はない。
知っているのは、おおまかな原理だけだ。
水を吸わせる。
沸騰させる。
弱い火で中まで加熱する。
火から下ろし、蒸らす。
簡単に聞こえる。
しかし、私たちが持っている米は三人で一食分ほどしかない。
失敗すれば、収穫、乾燥、脱穀、籾すり、精米からやり直しだ。
「まず、少量だけ試します」
私は白っぽくなった米を、ほんの一握りだけ取り分けた。
残りは布袋の中へ戻す。
「全部炊かないのか?」
ガルドが露骨に残念そうな顔をした。
「いきなり全部失敗したら、今日の朝食が米粉の焦げ煎餅になるわよ」
「それはそれで食えそうだが」
「私はご飯が食べたいの」
小さな鉄鍋を洗い、試験用の米を入れる。
水は米とほぼ同じ体積。
そこへ、ほんの少しだけ追加した。
精米が不均一で、糠も残っている。
前世の白米より、吸水には時間がかかるはずだ。
木製の蓋を載せ、石炉へ鍋を置く。
薪へ火をつける。
最初はしっかりと熱を入れ、鍋の中の水を沸かす。
やがて、蓋の隙間から白い蒸気が漏れ始めた。
ぐつぐつ。
小さな鍋が震える。
「来た……!」
「何が来たんだ」
「沸騰よ!」
私は薪を減らし、火を弱めた。
ここからは、焦がさずに中まで火を通す。
耳を澄ませる。
ぐつぐつという水音が、少しずつ小さくなる。
代わりに、
ぱち。
ぱち。
と、鍋底で水分が弾けるような音が聞こえ始めた。
「そろそろかしら」
「開けるのか?」
「まだ」
「いつ開けるんだ?」
「私も知りたいわよ!」
炊飯器なら、炊き上がった瞬間に音で知らせてくれた。
この鉄鍋は何も教えてくれない。
匂い。
音。
湯気。
すべて自分で判断する必要がある。
私は焦げた匂いが出る前に、鍋を火から下ろした。
蓋は開けない。
そのまま布をかぶせ、しばらく置く。
「これが蒸らし?」
セインが見張りから戻り、鍋の前へしゃがんだ。
「残った熱と蒸気で、中まで火を通すの」
「どれくらい待つ?」
「分からない」
「またか」
時計がないため、体感で待つしかない。
三人で鍋を見つめる。
誰も喋らない。
泥蟹池から、小さな鋏の音が聞こえる。
かち。
かち。
まるで、早く開けろと催促されているようだった。
「もういいだろ」
ガルドが言う。
「まだよ」
「さっきもそう言ったぞ」
「焦ったら負けなの!」
さらに少し待つ。
私は深く息を吸い、蓋へ手をかけた。
「開けます」
「おう」
「慎重にな」
ゆっくりと木の蓋を持ち上げる。
白い湯気が立ち上った。
甘い穀物の香りが、小屋の中へ広がる。
「米の匂い……」
懐かしい。
前世では、毎日のように嗅いでいた香り。
特別なものだと思ったことなどなかった。
今は、その匂いだけで胸が詰まりそうになる。
だが、鍋の中を見た私は、すぐに現実へ戻された。
「……硬そうだな」
ガルドの言うとおりだった。
米は膨らんでいる。
表面も白くなっている。
だが、粒の中心が少し透けたままだ。
一粒を取って食べる。
外側は柔らかい。
中心には、はっきりと硬い芯が残っていた。
「失敗?」
セインが尋ねる。
「半分成功」
「それは成功なのか?」
「米が爆発も炭化もしてないから、半分は成功よ」
鍋底には、薄い焦げ目がついている。
水分がなくなるのが早すぎたらしい。
原因はすぐに分かった。
木製の蓋がゆがみ、鍋との間に隙間がある。
そこから蒸気が逃げていたのだ。
「水を少し増やす」
私は試験炊飯の結果を整理した。
「それと、蓋の上へ重しを載せて、蒸気を逃がさないようにする。弱火の時間も少し長くするわ」
「試した米は?」
「食べます」
少し硬いだけで、毒ではない。
湯を足して煮れば、お粥にできる。
一粒も無駄にはしない。
いよいよ本番だ。
残しておいた米を、木の器へ移す。
水を入れ、指先で軽く混ぜる。
精米で出た糠や細かな粉が、水を薄く濁らせた。
何度も洗えば、割れた米まで流れてしまう。
二度だけ水を替え、慎重に水を切った。
「これが全部か」
ガルドが器を見つめる。
「三人で分けたら、ほんの少しね」
「大豆パンも食うか?」
「今日はご飯が主役です」
鍋へ米を入れる。
試験より少し多めの水を注ぐ。
木の蓋を載せ、その上へ平たい石を置く。
蓋と鍋の隙間には、水で湿らせた布を外側から巻いた。
火へ近づきすぎないよう位置を調整する。
「これで蒸気は逃げにくいはず」
石炉へ鍋を載せる。
炎を起こす。
三人の視線が、再び一つの鍋へ集中した。
最初は強めの火。
鍋が温まり、内部から水音が聞こえる。
ぐつぐつ。
蓋が持ち上がろうとするが、重しの石が押さえている。
蒸気は、隙間から細く漏れるだけだ。
「火を弱める」
薪を一本抜く。
鍋の下へ残すのは、小さな炎と赤く燃える炭。
ぐつぐつという音が、静かな水音へ変わる。
やがて、
ぱち。
ぱち。
と、試験炊飯でも聞いた音が始まった。
今度は、すぐに火から下ろさない。
焦げた匂いが出ないか確かめながら、もう少し待つ。
音が軽くなる。
私は鍋を炉から外した。
「ここから蒸らし」
今度は、誰も急かさなかった。
試験炊飯の失敗を見たためか、ガルドも大人しく腕を組んでいる。
セインは泥蟹の見張りをしながら、ときどき鍋を振り返った。
私は鍋の前へ座ったまま、じっと待った。
森で目覚めた日。
頭から枝豆が生えていると気づいた日。
初めて枝豆を茹でた日。
味噌を仕込んだ日。
大豆村ができた日。
白米を探して村を出た日。
軍隊へ大豆を配った日。
湿地の稲を見つけた日。
泥蟹の親子を移住させた日。
そのすべてが、この小さな鍋へつながっている。
「もういい」
今度は私が言った。
蓋の重しを外す。
木の蓋へ手をかける。
指先が少し震えていた。
「いくわよ」
ゆっくりと蓋を持ち上げた。
白い湯気が、勢いよく噴き出した。
朝の光の中で、湯気が薄く広がっていく。
その向こうに、炊き上がった米があった。
真っ白ではない。
薄茶色の粒も混じっている。
欠けた米もある。
大きさも不揃い。
それでも、一粒一粒が水を吸い、ふっくらと膨らんでいる。
表面には、柔らかな艶があった。
「……炊けた」
私は平らな木べらを差し込み、鍋底から米を返した。
湯気とともに、甘い香りがさらに強くなる。
底には、ほんの少しだけ焦げ目がついていた。
だが、黒くはない。
香ばしい程度だ。
「成功?」
ガルドが尋ねる。
「食べるまで分からない」
三人分の木皿へ、ご飯を分ける。
一人分は、両手で包める程度しかない。
それでも、白っぽいご飯が器へ盛られている。
その光景を見ただけで、涙が出そうになった。
だが、朝食はご飯だけではない。
予備の小鍋では、乾燥味噌玉を溶かした汁を温めていた。
具は乾燥野菜と、大豆ミート。
そこへ、塩を振って火を通し、干しておいた泥蟹の身を少しだけ入れてある。
蟹のだしと味噌の香り。
その隣に、炊きたてのご飯。
私が求め続けた朝食が、ようやく目の前へ並んだ。
「いただきます」
私は両手を合わせた。
ガルドとセインも、少し遅れて真似をする。
まずは、ご飯だけ。
木の匙ですくい、口へ運ぶ。
柔らかい。
試験炊飯のような硬い芯はない。
完全に均一ではなく、少し硬い粒も混じっている。
精米し切れなかった糠の香りも残っている。
前世で食べた白米ほど、滑らかでも甘くもない。
それでも、噛む。
一度。
二度。
三度。
米の甘みが、ゆっくりと口の中へ広がった。
「……ご飯だ」
声が震えた。
もう一口食べる。
温かい。
柔らかい。
大豆ではない。
パンでもない。
間違いなく、私がずっと探していたご飯だった。
「おいしい……」
視界が滲んだ。
森で目覚めてから、一番食べたかったもの。
特別な料理ではない。
豪華な肉でもない。
ただの白いご飯。
前世では、あることさえ意識しなかった朝食。
それが今は、何よりも贅沢だった。
ガルドも米を噛みしめている。
「派手な味じゃないな」
「悪かったわね」
「違う。これだけなら、肉や味噌より薄い。だが――」
彼は味噌汁を一口飲み、もう一度ご飯を食べた。
目を見開く。
「一緒に食うと、妙に止まらん」
「でしょう!」
味噌の塩気。
泥蟹の旨味。
そのあとに食べる、穏やかな甘さのご飯。
ご飯を食べれば、また汁が欲しくなる。
味噌汁を飲めば、またご飯が欲しくなる。
完璧な循環だった。
セインも静かに匙を動かしている。
「エダが言っていた意味が分かった」
「何が?」
「大豆パンは保存食で、白米は生活だという話だ」
第8話で、私は確かにそう言った。
硬い大豆パンは、旅の空腹を救ってくれる。
だが、毎朝食べたいものとは違う。
温かいご飯は、腹を満たすだけではない。
今日も生きようと思わせる食べ物なのだ。
「そう」
私は味噌汁の器を両手で包んだ。
「これが、私の欲しかった朝食よ」
三人とも、ほとんど喋らなくなった。
量が少ない。
一口ずつ、大切に食べる。
最後には、鍋底の薄いお焦げも湯へ浸して分けた。
香ばしさが加わり、それはそれでおいしかった。
食事を終えても、しばらく誰も立ち上がらなかった。
鍋は空。
木皿も空。
だが、胸の中には温かいものが残っている。
「これで目的達成か?」
ガルドが尋ねた。
私は作業小屋の外へ目を向けた。
水田跡には、まだ黄金色の稲が残っている。
壊れた水門。
仮補修の補助排水路。
枝豆の根で固めた溜め池。
使いにくい脱穀器。
籾を砕いてしまう籾すり道具。
時間のかかる木製の臼。
ご飯を一度炊くことはできた。
だが、同じ朝食を明日も食べられるわけではない。
「まだよ」
私は立ち上がった。
「一杯炊くだけなら成功した。でも、私が欲しいのは、毎朝食べられる白米なの」
種籾を選ぶ。
水田を直す。
水門を修理する。
稲を育てる。
脱穀器と籾すり道具を改良する。
大豆村まで持ち帰り、栽培方法を広める。
やることは山ほどある。
白米を探す旅は、ここで終わった。
だが、白米のある生活を作る仕事は、今始まったばかりだ。
「次は、一食分じゃない」
私は空になった木皿を掲げた。
「村全員が食べられるだけ作るわよ!」
ガルドが苦笑しながら立ち上がる。
「また畑を作るのか」
「今度は水田です」
「また水路を掘るのか?」
「もちろん」
ガルドの表情が固まった。
セインはすでに水路図を開いている。
泥蟹池から、鋏の鳴る音が聞こえた。
かちん。
まるで、新しい開拓の始まりを告げる音のようだった。
この世界で初めて炊いた、私たちのご飯。
その一杯は、白米探索の終着点ではない。
大豆村の食卓を変える、新しい始まりだった。




