第19話 白米への最初の一粒
泥蟹池との境界に作った枝豆の垣根の向こうで、巨大な母蟹が泥へ身体を沈めている。
その腹の周囲では、何十匹もの幼体が小さな鋏を動かしていた。
ときどき、こちらへ向けて鋏を鳴らす個体もいる。
だが、枝豆の垣根を越えてくる様子はなかった。
「ちゃんと住み分けできてるみたいね」
私は水田跡へ視線を戻した。
黄金色の稲穂が、湿地の風に揺れている。
すべてを刈るつもりはない。
野生化した稲が、来年もこの土地で育つか分からないからだ。
今日は、試験に必要な分だけ。
炊飯に成功しても失敗しても、種籾を残せる程度に収穫する。
「一食分って言ってなかったか?」
ガルドが、私の足元に積み上がった稲束を見た。
「失敗分と種籾と予備を考えたら、これくらい必要なのよ」
「最初から一食分じゃないな」
「最終的に一食分になればいいの」
実際、穂についている粒の全部が食べられるとは限らない。
中身の入っていない籾。
鳥に食われた粒。
虫に傷つけられた粒。
加工途中で砕けるものもある。
一食分の白米を得るために、どれだけの稲穂が必要なのか、私には分からなかった。
だから、多めに採る。
食べ物を前にしたときの私は慎重だった。
刈り取った稲束を作業小屋へ運び、床の比較的乾いた場所へ広げる。
すぐに加工を始めようとして、私は穂へ触れた。
まだ柔らかい。
茎にも水分が残っている。
「これ、乾燥させないと駄目ね」
「すぐ食えないのか?」
ガルドが残念そうな顔をする。
「水分が多いままだと、穂から外れにくいし、保存もできないわ」
前世で稲刈りをした経験はない。
米は袋に入った状態で買うものだった。
だが、収穫した穀物を乾かす必要があることくらいは知っている。
私たちは作業小屋の外へ、二本の木を横に渡した。
そこへ稲束を逆さに掛ける。
湿地は空気そのものが湿っている。
普通に置いておくだけでは、乾燥する前に黴が生えるかもしれない。
「《乾燥促進》を使ってみる」
私は稲穂へ手をかざした。
《大豆進化》の派生機能として使ってきた加工能力だ。
ただし、対象は稲。
大豆ではない。
淡い緑色の光が稲束を包む。
反応はある。
だが、大豆を乾燥させるときよりも、明らかに効率が悪い。
《対象適性が低下しています》
視界に文字が浮かぶ。
「やっぱり、大豆以外には完全には使えないのね」
それでも、表面の余分な水分を減らす程度には働いた。
残りは風と時間に任せる。
稲束が乾くまでの間、私たちは作業小屋の中を調べた。
補給局の台帳には、木製の脱穀器が残されている可能性があると書かれていた。
小屋の奥には、用途の分からない木枠や、歯のついた板がいくつも積まれている。
その一つを引っ張り出す。
長い木板に、錆びた鉄の爪が何本も並んでいた。
「これじゃない?」
私は稲穂を爪へ通すような動作をしてみた。
穂を引けば、籾だけが引っかかって外れる。
足踏み式の機械ではない。
もっと単純な、櫛のような脱穀道具だ。
「鉄が錆びているな」
ガルドが爪の一本へ触れる。
少し力を加えただけで、根元から折れた。
「十七年間放置されてたんだから当然ね」
使える爪は半分ほど。
木板にも亀裂が入っている。
ガルドは新しい木材を当て、細い縄で何重にも縛った。
セインは錆の少ない爪を選び、位置を調整する。
完全な修理ではない。
一度の試験に耐えられれば十分だ。
夕方。
稲穂の表面は、朝より乾いていた。
試しに一本だけ、脱穀板の爪へ通す。
穂を引く。
ざりっ。
乾いた音とともに、籾が数粒落ちた。
「取れた!」
床へ落ちた黄褐色の粒を拾い上げる。
だが、籾だけではない。
細かな茎。
穂の欠片。
中身のない軽い粒。
いろいろなものが混じっている。
「これを全部、手で分けるのか?」
ガルドが尋ねる。
「風を使えば軽いものだけ飛ばせるはず」
私は平たい籠へ、脱穀したものを入れた。
小屋の外へ出る。
籠を軽く揺らしながら、少しずつ上から落とす。
湿地の風が、細かな藁や軽い籾を横へ飛ばした。
中身の詰まった重い籾だけが、籠へ戻る。
一度では分け切れない。
何度も繰り返す。
そのうち、籠の底に黄金色の籾がまとまって残った。
「選別まで必要なのか」
セインが感心したように言う。
「稲穂を刈れば米になると思ってた?」
「籾のまま煮た開拓団を笑えないな」
確かにそうだ。
私も前世の知識がなければ、穂から粒を外した時点で鍋へ入れていたかもしれない。
だが、ここからが本当の難所だった。
籾殻を取り除く。
籾すり。
私は一粒を指でつまみ、爪を立てた。
硬い。
短剣の先を使えば剥けるが、一粒ずつ作業していては日が暮れる。
というより、もう暮れ始めている。
作業小屋の隅には、円形の石板が二枚転がっていた。
第1話の私なら、すぐに石臼として使おうとしただろう。
だが、今は少し慎重になっていた。
「これで挽いたら、中の米まで粉になるわね」
「隙間を広くすればどうだ?」
ガルドが、上側の石を少し持ち上げる。
籾より狭ければ潰れる。
広すぎれば、殻へ力がかからない。
微妙な調整が必要だ。
それに、石の表面は長年の放置で荒れている。
いきなり全部を入れるのは危険だった。
「少量だけ試しましょう」
籾を十粒ほど、二枚の石の間へ入れる。
上の石を完全には載せず、木片を挟んで隙間を作る。
ガルドがゆっくり回した。
ごり。
嫌な音がした。
石を持ち上げる。
十粒のうち、三粒は完全に砕けていた。
四粒は殻が割れている。
残りは、ほとんど変わっていない。
「失敗ね」
私は砕けた米を指で集めた。
「でも、殻が割れたものもある」
セインが一粒を拾う。
籾殻を指でこすると、中から茶色がかった細長い米が出てきた。
玄米だ。
「……出た」
私はその一粒を受け取った。
前夜に手で剥いたものと同じ。
だが今度は、道具を使って殻を外した。
たった一粒。
石臼へ入れた籾の半分以上を失敗した結果だ。
それでも、一粒ずつ爪で剥くよりは先がある。
「石の重さが強すぎるのね」
私は二枚の石を観察した。
「もっと軽い上板にする。表面も、米を砕かない程度にざらつかせる」
「木板はどうだ?」
ガルドが、脱穀器の修理で余った板を持ち上げた。
「石の下板に木を押し当てて擦れば、殻だけ割れるかもしれん」
「試してみましょう」
平らな石の上へ籾を置く。
その上から、木板を軽く押し当てる。
円を描くように動かす。
ごりごりと強く擦らない。
籾同士をぶつけ、外側の殻だけを外すようにする。
最初は何も起きなかった。
少し力を加える。
籾殻が一つ、割れた。
もう一度。
別の粒も割れる。
「いける!」
三人で交替しながら、少量ずつ籾を擦った。
力を入れすぎれば、玄米が割れる。
弱すぎれば、殻が残る。
一定の力を保つ必要があった。
一刻ほどかけて、どうにか木の器の底へ玄米が集まった。
量は、両手で包める程度。
白米には程遠い。
一食分にも足りない。
砕けた粒。
殻の残った粒。
籾殻も混じっている。
それでも、黄褐色の硬い籾は、確かに食べられる穀粒へ変わっていた。
私は器を両手で持ち上げた。
「玄米……」
ここまで長かった。
森で目を覚まし。
枝豆を茹で。
味噌を作り。
村を作り。
軍隊へ大豆を配り。
湿地まで旅をし。
泥蟹の親子を移住させ。
水路を掘り。
ようやく手にしたものが、両手にも満たない玄米だった。
「白くないぞ」
ガルドが言った。
「分かってるわよ」
「そのまま食えないのか?」
「食べられると思う。でも、まだ殻や異物を取り除かなきゃいけないし、吸水と炊き方も分からない」
「また工程が増えたな」
「白米にするなら、表面も削る必要があるわ」
一粒の米を食卓へ載せるために、どれほど多くの作業が必要なのか。
前世では考えたこともなかった。
袋を開ける。
水で研ぐ。
炊飯器のボタンを押す。
それだけで、白いご飯が炊き上がった。
だが今は、そのボタンのはるか手前にいる。
私は玄米を一粒つまんだ。
茶色い表面。
細長い形。
欠けていない、最初の成功粒。
「これが、白米への最初の一粒ね」
今夜は、まだ炊かない。
量が少なすぎる。
籾すりの道具を改良し、もっと玄米を取り出す必要がある。
精米も試さなければならない。
だが、稲が本当に食べられる穀物である可能性は、もう想像だけではなかった。
私の手の中に、確かな形として存在している。
作業小屋の外では、黄金色の稲穂が風に揺れていた。
泥蟹池から、小さな鋏の鳴る音が聞こえる。
白米まで、あと二工程。
たぶん。
私は器に残った玄米を見つめながら、今度こそ慎重にそう考えた。




