第18話 泥と水路と大豆の共存
補助排水路へ最初の水を通してから、四日が過ぎた。
私たちの生活は、すっかり開拓農民のものになっていた。
朝起きたら、まず水位を確認する。
次に、枝豆の根で補強した石組みを調べる。
流れが強すぎる場所には木栓を打ち、泥が詰まった場所は鍬でさらう。
溜め池の縁が崩れていれば、石を積み直す。
「冒険者って、こんな仕事だったか?」
泥まみれになったガルドが、鍬を地面へ突き立てた。
「白米を探す冒険者なら、こうなるんじゃない?」
「普通の冒険者は、白米を探さない」
「じゃあ、私たちが最初ね」
ガルドは反論を諦め、再び泥を掘り始めた。
補助排水路は、まだ完全には復旧していない。
腐った弁へ開けた小さな穴から、少しずつ水を流しているだけだ。
それでも四日間かけて土砂を取り除き、石組みを補強したことで、最初より多くの水を通せるようになっていた。
枝豆の根は、予想以上に役立った。
石の隙間へ入り込み、土を抱える。
蔓を編んで水路へ沈めれば、流れてくる枝や枯れ草を受け止める。
細かな泥も絡め取り、水だけを先へ通してくれる。
「これ、もはや食料じゃなくて工事資材だな」
セインが、水路へ張った蔓の網から枯れ草を取り除く。
「私も、枝豆にこんな用途があるとは思わなかったわ」
「自分の能力なのに?」
「説明書がないのよ」
頭に枝豆が生えている理由も。
どこまで大豆を加工できるのかも。
《促成栽培》で何が作れるのかも。
すべて、実際に試しながら覚えるしかない。
その結果、私は枝豆で畑を作り、防壁を作り、軍隊を救い、ついには水路まで直している。
「私、本当に白米を探していただけよね?」
「旅の目的はな」
セインが旧水門の方角を見た。
「だが、あれを見つけた以上、無視はできない」
旧水門の周囲では、泥が広く露出していた。
補助排水路へ少しずつ水を流したことで、水位は確実に下がっている。
最初は最大個体の腹の下へ集まっていた幼体も、今ではほとんどが新しい溜め池へ移動していた。
味噌を染み込ませた大豆ミートを、補助排水路の流れに沿って少しずつ置く。
幼体や小型個体は、その匂いを追って移動した。
溜め池の中では、十数匹の泥蟹が浅い水を歩き回っている。
「思ったより、住み着いてるわね」
私は溜め池を覗き込んだ。
小さな泥蟹が、味噌袋を鋏でつついている。
人の手ほどの個体。
拳ほどの個体。
中には、指先ほどの幼体までいた。
「餌を与えすぎたんじゃないか?」
ガルドが言う。
「移動させるためには必要だったの」
「このままだと、大豆村ならぬ泥蟹村になるぞ」
「村長は母蟹ね」
問題は、その母蟹だった。
旧水門の前には、今も巨大な赤黒い個体が残っている。
幼体が移動するたび、身体の向きを変える。
溜め池の方角を見ている。
だが、自分から水門を離れようとはしなかった。
「水門を守っているだけじゃないな」
セインが水路図を見ながら言う。
「あの場所そのものが、母蟹の巣になっている」
水門の下には、深い空洞があるらしい。
最大個体の後脚が、その穴の中へ半分ほど隠れている。
身体が大きすぎて、簡単には引き抜けないのかもしれない。
あるいは、巣の奥にまだ卵や幼体が残っている可能性もある。
「無理に動かしたら、水門ごと壊れるわね」
私は巨大な鋏を見た。
一振りで、腐った水門を粉々にできる。
私たちが必要としているのは、泥蟹の討伐ではない。
水門と水田だ。
「溜め池をもっと広げましょう」
私は地図の北側を指さした。
「今の大きさでは、母蟹が入れない。あの個体が水門を離れても、移動先がないわ」
「また土木工事か」
ガルドが遠い目をした。
「白米を食べるためよ」
「その言葉で何でも許されると思うなよ」
そう言いながらも、ガルドは鍬を担いだ。
私たちは溜め池の北側を掘り広げた。
石積みの外側へ新しい穴を掘る。
二つの池の間には、まだ土の壁を残しておく。
先に新しい池の縁を補強し、水を受け止められる状態へする必要があるからだ。
ガルドが泥を掘り出す。
セインが石を運ぶ。
私は乾いた縁へ種豆を埋め、《促成栽培》で根を伸ばす。
根は石積みを抱え込むように広がり、蔓は籠のように編み込んだ。
その上から泥を塗り、さらに小石を詰める。
「枝豆の根が、池の壁になってる……」
自分で作りながら、少し引いた。
「大豆村の建物にも使えるんじゃないか?」
ガルドが言う。
「食料用の畑を建材にしないで」
「もう十分、建材として使ってるだろ」
否定できなかった。
昼を過ぎ、新しい池の形ができた。
古い溜め池の倍近い大きさがある。
最大個体が入っても、身体が収まりそうだ。
最後に、二つの池を隔てる土壁へ細い溝を掘る。
最初は少量の水だけを通す。
石積みが崩れないことを確認し、少しずつ溝を広げる。
旧溜め池から、新しい池へ水が流れ込んだ。
小型の泥蟹たちが、流れに気づく。
一匹が新しい池へ移動した。
続いて、もう一匹。
味噌の匂い袋を新しい池の奥へ置くと、幼体たちも次々に追いかけていく。
夕方までには、大半の泥蟹が広い池へ移っていた。
「これで、母蟹の居場所もできた」
あとは、水門から移動してもらうだけだ。
だが、最大個体は動かない。
幼体が溜め池へ移ったことは、確実に分かっているはずだ。
巨大な鋏を鳴らし、何度も水面を叩いている。
それでも、水門の空洞から脚を抜こうとしない。
「巣の中に何か残ってる」
セインが言った。
「卵か?」
「分からない。近づいて確認するしかない」
ガルドが大剣へ手を伸ばす。
私は首を横へ振った。
「今、武器を持って近づけば襲われる」
「じゃあ、どうする?」
「水門の反対側から巣穴を開ける」
水路図を見る。
最大個体のいる空洞は、水門の下流側へもつながっている可能性がある。
補助排水路をさらに掘り進めれば、旧水門へ近づかずに巣の裏側へ回れる。
ただし、工事にはもう一日以上かかる。
その前に試したいことがあった。
私は味噌を染み込ませた大豆ミートを用意した。
だが、いつものように水門から遠ざける方向へは置かない。
巣穴の横。
母蟹から見えるが、鋏の届かない位置へ置く。
「味噌には反応しないんじゃなかったか?」
ガルドが尋ねる。
「自分の食事としてはね」
次に、小さな味噌袋を補助排水路へ流す。
水の流れに乗り、溜め池へ向かっていく。
幼体たちが袋へ集まった。
その動きが、水門からも見える。
母蟹の触角が大きく揺れた。
「子供がいる方向を、匂いでも分からせるの」
最大個体の身体が、ゆっくり動いた。
巣穴へ残っていた後脚が一本、泥の外へ出る。
だが、まだ完全には離れない。
水門の下から、小さな泥蟹が一匹現れた。
最後の幼体だ。
母蟹は巨大な鋏を低く下ろし、幼体をその間へ挟むように守った。
そして、ゆっくりと水門から離れ始めた。
「動いた……」
誰も武器へ手を伸ばさない。
刺激しない。
音を立てない。
味噌袋を少しずつ溜め池へ近づける。
幼体が匂いを追う。
母蟹が、その後ろをついていく。
ずしん。
一歩進むたび、泥が大きく沈む。
巨大な鋏が、何度も地面へ触れる。
途中で立ち止まる。
水門を振り返る。
だが、そこにはもう守るべき幼体はいない。
溜め池の方角から、ほかの泥蟹が水を動かす音が聞こえる。
母蟹は再び歩き始めた。
補助排水路を越え、古い畦の横を通る。
私たちは十分な距離を取りながら、並行して移動した。
味噌袋を引くセイン。
周囲を警戒するガルド。
私は溜め池の入り口で、枝豆の根が崩れていないか確認する。
最大個体が池へ入る瞬間、大きな波が起きた。
石積みが軋む。
根が引っ張られる。
「持って……!」
私は地面へ両手をつき、《促成栽培》で根をさらに伸ばした。
枝豆の根が、石と土へ深く食い込む。
崩れかけた縁を内側から支える。
母蟹の巨体が、ゆっくりと新しい池へ沈んだ。
幼体たちが周囲へ集まる。
最大個体は鋏を高く上げた。
攻撃されると思い、身体が固まる。
だが、鋏は振り下ろされなかった。
水面を一度だけ叩く。
小さな泥蟹たちが、母蟹の腹の下へ集まった。
「入った……」
ガルドが大きく息を吐いた。
「本当に、戦わずに動かしたな」
「水と餌と、引っ越し先があればね」
「魔物の住居まで用意する農業スキルか」
「水田を壊されないなら、そのほうがいいでしょう」
母蟹は新しい池の中で、巣を掘り始めていた。
私たちの作った石積みを壊さないよう、池の中央に土を多めに残してある。
そこへ身体を沈め、巨大な鋏で泥を寄せる。
どうやら新しい環境を受け入れたらしい。
ただし、安全とは限らない。
池と人の作業区域の間には、境界が必要だ。
私は池の周囲へ種豆を植えた。
《促成栽培》で太い茎を伸ばし、泥蟹側へ根を張らせないよう調整する。
蔓を編み、人の腰ほどの高さの垣根を作った。
完全な防壁にはならない。
だが、人間が不用意に近づかず、泥蟹も水田へ直接移動しにくくなる。
入り口には、木の看板を立てた。
ガルドが炭で文字を書く。
泥蟹池。立入禁止。味噌を投げるな。
「最後の一文、必要?」
「お前が勝手に餌をやるからだ」
「誘導のためよ」
「今後は誘導するな」
新しい池の水面で、幼体が小さな鋏を動かしていた。
水田を壊した魔物。
白米へ至る道を塞いだ敵。
だが、彼らもただ破壊していたわけではない。
水門の周囲を、幼体の育つ環境として使っていた。
人間が作った水田を、泥蟹が巣へ変えた。
今度は私たちが別の水場を作り、互いの場所を分けた。
戦わずに済むなら、そのほうがいい。
水門へ戻る。
最大個体がいなくなったことで、ようやく近づけるようになった。
水門の木材は腐り、鋏で削られている。
鉄の鎖も錆びている。
だが、原形は残っていた。
完全に作り直す必要はある。
それでも、水門そのものを失わずに取り戻せた。
私は木材へ手を触れた。
「これで、水田へ水を入れられる」
セインが地図へ、泥蟹の移転先を書き込む。
「補給局への報告もできるな」
ガルドは鍬を肩へ担いだ。
「次は水門の修理か?」
「その前に、稲を収穫します」
目の前には、黄金色の穂が広がっている。
泥蟹を避ける必要はない。
水田跡へ足を踏み入れ、籾をまとまった量だけ採取できる。
私は最初の穂へ手を伸ばした。
十七年間、誰にも食べられず、野生化して残っていた稲。
白米そのものではない。
ここから脱穀し、籾すりし、精米し、炊かなければならない。
それでも、最大の障害だった水田へ、ようやく入れるようになった。
「まずは一食分」
私は稲穂を刈り取った。
「この世界で初めてのご飯を炊くわよ」
水を動かした。
泥蟹を動かした。
枝豆の根で、新しい住処まで作った。
白米へ続く道は、力で敵を倒すのではなく、互いの居場所を分けることで開かれた。




