第17話 泥中の水路工事
朝霧が湿地を覆っているうちに、私たちは作業小屋を出た。
今日の目的は、泥蟹を倒すことではない。
旧水門の北側に埋まっている、補助排水路の復旧だ。
「魔物退治より、土木工事のほうが先になるとはな」
ガルドが肩へ鍬を担ぐ。
大剣は腰の届く位置に下げたままだ。
完全に戦闘を捨てたわけではない。
セインは先頭に立ち、昨夜確認した泥蟹の移動経路を避けながら進んでいる。
私は長い棒で足場を確かめ、その後ろを歩いた。
背負った袋には、乾燥味噌玉と大豆ミート。
戦闘用ではない。
泥蟹を作業場所から引き離すための餌だ。
「水門の水を抜いたら、親蟹が怒るでしょうね」
「怒るだけならいい」
セインが周囲を見渡す。
「幼体を守ろうとして、こちらへ向かってくる可能性が高い」
昨夜、最大個体の腹の下には、小さな泥蟹が何十匹も集まっていた。
いきなり水を抜けば、幼体が泥の上へ取り残される。
そうなれば、最大個体は水門を守るどころではなくなる。
暴れながら幼体を回収し、進路にあるものを全て破壊するだろう。
水門を取り戻す前に、水門そのものが消えるかもしれない。
「だから、先に避難場所を作ります」
私が指さしたのは、補助排水路のさらに北側。
昔の地図では、農具を洗うための小さな溜め池だった場所だ。
今は浅い泥地になっているが、周囲には石積みが残っている。
補助排水路から少し水を引けば、一時的な水場にできるはずだ。
「泥蟹の引っ越し先か」
ガルドが言う。
「追い出すだけだと、別の水田に巣を作るでしょう。住める場所を用意して、そっちへ移ってもらうの」
「魔物相手に、ずいぶん丁寧だな」
「全部倒すより楽でしょう?」
巨大な親蟹と正面から戦うより、水と餌を使って動かす。
それが成功すれば、水田も水門も壊さずに済む。
まずは、古い溜め池の泥をさらうことになった。
ガルドが鍬で堆積した泥を外へ出す。
私は石組みの隙間へ詰まった根や枯れ草を取り除いた。
セインは周囲の見張りをしながら、泥蟹が近づけば合図する。
「石が崩れてるぞ」
ガルドが池の縁を指した。
一部の石積みが外れ、水を入れてもすぐ漏れそうになっている。
私は乾いた土が残る場所へ種豆を埋めた。
「《促成栽培》」
緑色の芽が伸びる。
ただし、今回は泥蟹を縛るためではない。
根を石の間へ走らせ、崩れた部分を内側から押さえる。
茎と蔓は束ね、泥が流出しそうな場所へ編み込んだ。
その上へ小枝と枯れ草を重ね、さらに泥を塗り込む。
「枝豆で堤防を作るのか」
「仮補修です。根が土を抱えてくれれば、すぐには崩れません」
大豆村では、防壁。
軍の野営地では、畑。
ここでは、水路の補強材。
頭から生えている食べ物が、少しずつ建築資材に近づいている。
「枝豆って何なの?」
自分で育てながら、少し怖くなった。
溜め池の補修が終わる頃、セインが片手を上げた。
私たちは作業を止める。
補助排水路の入口近くで、泥がゆっくり盛り上がっている。
成体ではない。
だが、昼間に倒した小型個体よりは大きい。
水路の中へ巣穴を掘っていたらしい。
「倒すか?」
ガルドが大剣へ手を伸ばす。
「今日は戦いません」
私は味噌を染み込ませた大豆ミートを、葦の葉で包んだ。
細い縄を結び、水路とは反対方向へ投げる。
味噌の匂いが風に広がった。
泥蟹の触角が動く。
包みへ向きを変えた。
私は少しずつ縄を引く。
泥蟹が餌を追う。
「こっちよ。工事現場から離れて」
「言葉は通じてないぞ」
「雰囲気が大事なの」
餌を旧農場の外側へ移動させる。
泥蟹は何度か立ち止まったが、最後まで味噌の匂いを追った。
十分に距離を取ったところで、包みを切り離す。
泥蟹は餌を鋏で挟み、その場で食べ始めた。
「味噌で魔物を買収したな」
ガルドが言った。
「労働争議を平和的に解決したのよ」
「そいつは労働者じゃない」
邪魔者がいなくなったところで、補助排水路を掘り始める。
地図では細い一本の線だが、実物は完全に土砂へ埋もれていた。
表面を覆う泥を取り除く。
その下から、平らに並べられた石が現れる。
「底石だ」
セインがしゃがみ込む。
「水路の位置は合っている」
石の列をたどって、さらに掘る。
古い木材。
錆びた鉄具。
腐った藁。
十七年間、水と泥が運んできたものが何層にも重なっている。
鍬を入れるたび、泥が重くまとわりついた。
「魔物より強敵だな、これ」
ガルドが泥をすくい上げる。
「斬っても倒せないものね」
「大剣のほうが楽だった」
一刻ほど作業を続け、ようやく石組みの奥に木製の枠が見えた。
補助水門の弁だ。
だが、木は黒く変色し、半分ほど腐っている。
鉄の軸も錆びついていた。
「これ、動かしたら壊れません?」
私は棒で軽く触った。
木片がぽろりと落ちる。
「壊れるな」
セインが即答する。
「鍬で押したら?」
ガルドが尋ねる。
「水路ごと吹き飛ぶかもしれないわ」
長年せき止められていた水が、一気に流れればどうなるか。
腐った弁が外れる。
水圧で水路の壁が崩れる。
作業中の私たちまで流される。
補助排水路を直すどころか、新しい沼を作ることになる。
「少しずつ穴を開けましょう」
私は腐った弁の下部を指した。
「細い穴から水を通して、流れを確認する。水路が持ちそうなら、少しずつ広げます」
ガルドが細い鉄棒を木材へ当てる。
一度目は入らない。
二度、三度と慎重に叩くと、腐った木に小さな穴が開いた。
最初に出てきたのは、黒い泥だった。
そのあとから、水が細く流れ始める。
ちょろちょろ。
ほんのわずかな流れだ。
私たちは補助排水路に沿って移動し、水がどこまで進むか確認する。
途中で詰まる。
泥を取り除く。
また流れる。
石組みが崩れそうな部分には、枝豆の根と蔓を編み込んだ束を詰める。
完全な修復ではない。
だが、水が通れる最低限の道はできていく。
「枝豆の束が泥を止めてる」
ガルドが流れを眺める。
細かな泥は蔓と根へ引っかかり、水だけが先へ抜けていた。
「泥こしにもなるのね」
「食べ物で水路まで直すなよ」
「私に言われても」
小さな穴を二つ。
三つ。
弁を壊さないよう、間隔を空けて開ける。
水量が少しずつ増える。
補助排水路を通った水は、先ほど整えた溜め池へ流れ込んだ。
泥水だが、確実に水位が上がっている。
「避難場所は使えそうね」
次は、最大個体のいる水門側だ。
私たちは古い畦の陰から様子を観察した。
補助排水路へ水が流れ始めたことで、旧水門周辺の水位がわずかに下がっている。
目に見えて干上がるほどではない。
だが、浅い場所では泥が露出し始めた。
幼体たちが動いている。
最大個体も変化に気づいた。
巨大な鋏を持ち上げ、水面を叩く。
ずしん。
湿地全体が揺れた。
「気づいたな」
ガルドが低く言う。
最大個体は水門を離れない。
だが、腹の下にいた幼体を、深い側へ移動させ始めた。
「まだ水が足りない」
セインが溜め池と水門を見比べる。
「一気に抜くな。親が避難先を認識してからだ」
私は味噌餌を一つ取り出した。
溜め池の端へ置く。
匂いが風へ流れる。
最初に反応したのは、小型の泥蟹だった。
水門の近くから一匹が離れ、補助排水路の流れに沿ってこちらへ移動してくる。
最大個体は追わない。
その代わり、鋏を高く上げ、こちらを威嚇している。
小型個体は味噌餌を追い、新しく水を張った溜め池へ入った。
続いて、もう一匹。
幼体まで動き始める。
「避難場所として使ってる」
私の声が弾んだ。
水位を下げる。
流れを作る。
その先に、水と餌を用意する。
幼体が移動すれば、最大個体もいつか動かざるを得ない。
だが、そのときだった。
補助排水路の奥から、嫌な音が響いた。
みしっ。
枝豆の根で補強した石組みが、わずかに傾く。
水量が増えたせいで、壁へ予想以上の圧力がかかっている。
「止める!」
私たちは急いで弁の穴へ木栓を打ち込んだ。
水の流れが細くなる。
完全には止まらない。
それでも、石組みの崩壊は収まった。
「危なかった……」
私は泥の上へ座り込みそうになり、棒へもたれた。
水路は開いた。
だが、まだ全開にはできない。
補強が足りない。
流す水の量も、溜め池の深さも足りない。
一度で水門を取り戻すことはできなかった。
それでも、水は動いた。
幼体も動いた。
最大個体が守る場所を、別の場所へ移せる可能性が見えた。
ガルドが補助排水路を見下ろす。
「明日は、もっと水路を補強するのか?」
「それと、溜め池を広げる」
「戦いは?」
「最大個体が自分から動くまで、しません」
巨大な鋏へ力で挑む必要はない。
水を動かす。
餌を動かす。
幼体を動かす。
そうすれば、親も動く。
旧水門の前で、最大個体が再び鋏を鳴らした。
怒っている。
だが、こちらへ突進してくることはなかった。
その腹の下から、一匹の小さな泥蟹が離れ、補助排水路へ向かって歩き始める。
計画は、少しずつ効いている。
白米へ続く最初の水路に、十七年ぶりの水が流れ始めていた。




