第16話 巨大鋏と味噌の夜鍋
倒した泥蟹を作業小屋まで運ぶだけで、かなりの時間がかかった。
甲羅を含めた巨体は重く、泥の上では引きずることさえ難しい。
ガルドが太い縄を脚へ結び、セインと二人で乾いた農具置き場まで引っ張る。
私は後ろから押した。
正確には、押しているふりをした。
「エダ、ほとんど力を入れてないだろ」
「気持ちは押しています」
「気持ちで蟹は動かん」
「頭に枝豆を載せた少女へ、成体の泥蟹を運ばせないでください」
「戦うときだけ都合よく少女になるな」
そんなやり取りをしながら、どうにか作業小屋の裏まで運び終える。
改めて見ると、大きい。
胴体だけで、私が丸くなれば中へ入れそうなほどある。
片方の鋏はガルドの大剣より太く、先端には木材を断ち切れそうな刃がついていた。
「これ、本当に食べられるの?」
私は泥蟹の甲羅を棒でつついた。
「食うと言い出したのはお前だろ」
「泥蟹という名前だから、蟹の仲間だと思っただけよ」
前世の蟹に似てはいる。
だが、ここは異世界だ。
見た目が蟹だからといって、毒がない保証はない。
セインが短剣で脚の付け根を切り開き、白い身を少量取り出した。
嫌な臭いはしない。
むしろ、ほのかに甘い香りがする。
「まず、少しだけ火を通しましょう」
鉄鍋へ水を入れ、泥蟹の身を一片だけ落とす。
十分に煮たあと、色と匂いを確認する。
透明がかっていた身は白くなり、赤い筋が浮かんでいた。
完全に蟹である。
「誰が最初に食べる?」
ガルドが尋ねた。
三人の視線が私へ集まる。
「どうして私を見るの?」
「食うと言い出した」
「料理した」
「大豆以外の食材を求めていた」
逃げ道がない。
私は煮えた身を小さく裂き、ほんの少しだけ口へ入れた。
弾力がある。
噛むと繊維がほどけ、淡い甘みが広がった。
前世で食べた海の蟹より、少し土っぽい。
それでも、間違いなく甲殻類らしい旨味がある。
「……おいしい」
「毒は?」
「今のところは」
「少し待て」
セインに止められ、私たちは四半刻ほど様子を見ることになった。
その間に、ガルドとセインが残りの解体を進める。
甲羅の隙間へ刃を入れ、脚と鋏を外す。
硬い殻を割るため、ガルドが大剣の柄で何度も叩いた。
ようやく割れた鋏の中には、腕ほどもある白い身が詰まっていた。
「この鋏一本で、何人分あるんだ」
「大豆ミートを入れる必要、なかったかもしれないわね」
「入れる気だったのか?」
「料理には統一感が必要でしょう」
「蟹と味噌だけで、十分に統一されていると思うが」
身体に異常が出なかったため、泥蟹は食用可能と判断した。
厳密な安全確認とは言い難いが、空腹と好奇心には勝てない。
私たちは石炉へ小さな火を起こした。
鍋へ水を張り、泥蟹の脚と鋏を入れる。
しばらく煮ると、湯の表面へ細かな泡と脂が浮かんだ。
そこへ乾燥味噌玉を溶かす。
味噌の香ばしさに、泥蟹の甘い匂いが加わる。
最後に大豆ミートと乾燥野菜も投入した。
「やっぱり入れるのか」
「大豆ミートは汁を吸うから、絶対においしいのよ」
ぐつぐつと煮える鍋を、三人で囲む。
完成した汁を器へよそう。
白い泥蟹の身。
味噌色に染まった大豆ミート。
細かな野菜。
見た目は、異世界へ来てから作った料理の中でもかなり豪華だった。
「泥蟹の味噌鍋、完成!」
ガルドが最初に汁を飲んだ。
直後、目を見開く。
「……旨い」
セインも慎重に口をつける。
「泥臭さがほとんど消えている。味噌と合うな」
「でしょう?」
私も泥蟹の身を一口食べた。
ほろりと崩れる。
噛むたびに甘みが出て、濃い味噌の塩気がそれを引き立てる。
大豆ミートも蟹のだしを吸い、いつもよりずっと深い味になっていた。
「これ、白米があったら完璧なのに……」
思わず声が漏れた。
「結局そこへ戻るのか」
ガルドが呆れる。
「この汁を白米へかけたら、絶対においしいでしょう!」
「まだ炊けるかどうかも分からない穀物だろ」
「だから、水田を取り戻すのよ」
食事を終えたあと、私たちは泥蟹の残骸を調べた。
食べられる身は保存用に分ける。
甲羅は捨てずに積んでおく。
細かく砕けば、畑の土へ混ぜられるかもしれない。
問題は巨大な鋏だった。
殻が厚すぎて、解体するだけでも苦労した。
その片側へ、黒く変色した傷が何本もついている。
セインが傷の間から、細い木片を抜き取った。
「これは自然の木じゃない」
木片の表面には、加工された跡がある。
さらに、錆びた鉄の欠片まで刺さっていた。
ガルドが鋏を持ち上げる。
「水門を壊したときについた傷か?」
私は補給局から借りた水路図を広げた。
旧水門には、木製の扉と、それを動かす鉄の鎖が使われていた。
鋏についている木片と鉄片は、その部材と考えれば説明がつく。
「この個体も、水門を何度も挟んでいたのね」
「水路を壊す習性があるからな」
「でも、どうして?」
食事をしていた泥蟹とは違い、水門の最大個体は味噌へ反応しなかった。
餌よりも、水門の周囲へ執着している。
そこには何か理由があるはずだった。
ずしん。
小屋の床が、わずかに揺れた。
三人が同時に動きを止める。
もう一度。
ずしん。
水門の方角から、重い衝撃音が響いている。
「最大個体か」
ガルドが大剣へ手を伸ばした。
私たちは火を消し、壁の隙間から外を確認した。
月明かりの下、旧水門の周囲で水面が大きく波打っている。
巨大な赤黒い甲羅。
先ほど倒した成体とは比べ物にならない。
鋏の先だけで、私の背丈ほどある。
最大個体は水門の木材を鋏で挟み、何度も揺さぶっていた。
ずしん。
壊そうとしているようにも見える。
だが、水門の扉が少し動くたび、周囲の水が旧排水路へ流れ込んだ。
すると、大型個体の腹の下から、小さな影が次々に現れた。
手のひらほどの泥蟹。
拳ほどの泥蟹。
昼間に倒した小型個体より、さらに幼い個体が何十匹も、水の流れへ集まっている。
「子供……?」
私は声を潜めた。
セインがじっと観察する。
「水門の内側を、生育場所にしているらしい」
水門の周囲は水深があり、流れも緩い。
敵から身を隠しやすく、餌も集まる。
最大個体は単に縄張りを守っているのではない。
幼体のいる水場を守り、水門を動かして水を入れ替えている。
「だから、味噌に反応しなかったのね」
餌を追うより、巣を守ることを優先した。
「群れの王じゃなくて、親か」
ガルドが呟く。
「おそらく雌だろう」
セインが水路図へ目を落とす。
「だが、これで厄介になった」
最大個体だけを誘い出すことは難しい。
水門へ近づけば、幼体も一斉に動く。
無理に戦えば、水門そのものを破壊する可能性もある。
私は地図を見つめた。
旧水門から北へ伸びる主水路。
南へ延びる排水路。
そして、その脇に細く描かれた別の線。
「この細い水路は?」
「維持用の迂回路だ」
セインが記録の注記を読む。
「主水門を閉じたまま、水量を調整するための補助排水路らしい」
「今は?」
「入口が土砂で埋まっている」
最大個体は水門を守っている。
ならば、水門へ直接近づく必要はない。
補助排水路を復旧し、別の方向から水を抜く。
水位が下がれば、幼体を守るため、最大個体も移動せざるを得ない。
そこへ味噌の餌を使い、安全な水場へ誘導する。
あるいは、乾いた足場へ追い込む。
「味噌だけでは動かなかった」
私は地図の補助排水路を指でなぞった。
「でも、水まで動かせば話は別よ」
ガルドが笑う。
「水田を作る前に、水路工事か」
「稲作は水が命なんでしょう?」
泥蟹を倒すことだけが目的ではない。
水田を取り戻すには、壊れた水路を直さなければならない。
その最初の作業が、そのまま最大個体への攻略になる。
私たちは夜が明けるまでに、補助排水路へ向かう経路を決めた。
水門の最大個体から見えない、作業小屋の北側。
比較的乾いた古い畦を通り、埋まった排水口へ近づく。
土砂を取り除く。
水が流れ始めたら、味噌を染み込ませた餌で泥蟹を別の水場へ誘導する。
「明日は戦闘じゃない」
私は空になった鍋を片づけた。
「水路工事よ」
「大剣で土を掘れと言うなよ」
「ガルドさんは力がありますから」
「やっぱり掘らせるつもりじゃないか」
巨大な泥蟹を倒すための答えは、さらに大きな力ではなかった。
味噌で食欲を動かす。
水路で居場所を動かす。
相手が守るものごと、戦う場所から移動させる。
泥蟹の味噌鍋を囲んだ夜。
私たちはようやく、旧水門を取り戻すための道筋を見つけた。




