第13話 泥蟹の潜む水田跡
東方都市を出発して、一日半。
私たちは、補給局から借りた地図を頼りに、東の湿地帯を進んでいた。
都市から延びていた石畳の道は、半日ほどで途切れた。
その先にあるのは、踏み固められただけの細い土道。
さらに進むと、その道さえ浅い泥水の中へ沈んでいった。
「……歩きにくい」
私は長い棒を前方へ突き刺し、泥の深さを確かめた。
浅い場所なら、足首ほど。
深い場所では、棒が半分以上沈む。
うっかり踏み込めば、膝まで泥へ埋まりそうだった。
一歩進むたび、湿地用の長靴が重くなる。
足を引き抜くと、泥が名残惜しそうに吸いついてきた。
「荷車を街へ置いてきたのは正解だったな」
前を進むガルドが言う。
背中には大剣。
腰には縄と携帯食。
泥の中でも歩調はほとんど乱れていない。
「持ってきていたら、最初の十分で車輪が埋まっていましたね」
私は背負った荷物を直した。
鉄鍋。
乾燥味噌玉。
大豆ミート。
火打ち石。
採取した籾を入れるための袋。
荷物は必要最低限に絞ったはずなのに、それでも重い。
セインは私たちより少し前を歩いている。
片手に弓。
もう片方に、足場を確認する棒。
ときどき立ち止まり、泥や折れた葦を観察していた。
「何かいました?」
私が尋ねる。
「小動物と鳥の跡はある。人間が通った形跡も、数日前のものが少し」
「泥蟹は?」
「まだ分からない」
セインは水面へ突き出した葦の根元を指した。
「ただ、あれは自然に崩れた跡じゃない」
泥の斜面に、大きな穴が開いている。
直径は私の身体が入りそうなほど。
穴の周囲には、何か硬いものを引きずったような溝が残っていた。
「巣穴?」
「たぶんな」
ガルドが大剣の柄へ手を置く。
「ここから先は、音を立てすぎるな」
私は頷いた。
だが、自分の足を泥から抜くたび、
ずぽっ。
べちゃっ。
と、かなり大きな音がする。
「無理じゃない?」
「努力はしろ」
湿地での隠密行動は、私には向いていなかった。
さらに一刻ほど進むと、葦の壁が途切れた。
視界が開ける。
地図に描かれていた、旧東方開拓試作農場。
十七年前に放棄された水田跡が、目の前に広がっていた。
「……ここが」
私は息を止めた。
かつては四角く区切られていたはずの土地は、今では泥と雑草に覆われている。
畦はあちこちで崩れ、水路と水田の境目も分からなくなっていた。
木製の水門は半分ほど泥へ沈み、太い柱だけが残っている。
作業小屋らしい建物も見えた。
屋根は崩れ、壁には蔓草が絡みついている。
だが、その荒れた景色の中に、明らかに周囲とは違う植物が群生していた。
細長い葉。
まっすぐ伸びた茎。
先端から垂れ下がる、黄金色の穂。
「稲……」
前世で、水田の近くを通ったときに見た景色。
稲刈り前の、重そうに頭を垂れる穂。
まったく同じ品種ではないかもしれない。
だが、少なくとも形はよく似ていた。
「本当にあった……!」
私は棒を放り出しそうになりながら、一歩踏み出した。
「待て」
セインの声が飛ぶ。
足を止める。
彼は弓へ矢をつがえ、水田跡の一角を見ていた。
何もない。
濁った水面と、倒れた稲が見えるだけだ。
「どこですか?」
「水が動いている」
風は吹いていない。
それなのに、稲の間に広がる水面だけが、ゆっくりと波打っている。
ぶくり。
泥の中から、大きな泡が一つ浮かんだ。
次の瞬間、水面が弾けた。
「下がれ!」
泥水をまき散らしながら、赤黒い物体が飛び出した。
何本もの脚。
硬い甲殻。
左右に突き出した巨大な鋏。
泥蟹だ。
以前、都市へ戻ってきた荷車についていた甲殻片と同じ色をしている。
ただし、記録にあった成体ほど大きくはない。
胴体は大型犬ほど。
それでも鋏は、私の腕より太かった。
「小型個体か」
ガルドが大剣を抜く。
「これで小型なの?」
「成体なら、鋏だけで人間の胴ほどあるらしい」
十分に大きい。
泥蟹は鋏を高く掲げ、硬い甲殻を鳴らした。
かちん。
その音と同時に、別の場所でも泥が揺れる。
一匹ではない。
「早く片づけるぞ」
ガルドが前へ出た。
泥蟹の鋏が横薙ぎに振るわれる。
ガルドは大剣の腹で受けた。
硬い音が湿地へ響く。
泥蟹の身体が少し傾く。
だが、刃は甲殻の表面を滑っただけだった。
「硬いな!」
「関節か目を狙う!」
セインが矢を放つ。
矢は泥蟹の頭部へ飛んだが、相手が鋏を上げたため、先端が甲殻へ当たって弾かれた。
泥蟹が横向きに走る。
泥の上とは思えないほど速い。
狙いは私だった。
「《促成栽培》!」
私は頭からもぎ取った莢を、足元の泥へ投げた。
豆が沈む。
緑色の光を流し込む。
だが――芽が出ない。
「えっ?」
泥の中で種豆が腐るような、不快な感覚が返ってきた。
水が多すぎる。
空気が足りない。
根を張れる硬い土もない。
枝豆は、水田で育つ植物ではない。
「こんなときに相性問題!?」
泥蟹が迫る。
ガルドが横から大剣を叩きつけ、進路をそらした。
泥蟹は滑るように方向を変え、鋏で畦の残骸を挟んだ。
ばきり。
土と木材で固められていた畦が、簡単に崩れる。
水が別の区画へ流れ込んだ。
「記録どおりだな」
セインが次の矢を構える。
「こいつらは戦うだけで水路を壊す」
私は周囲を見た。
水の中では、枝豆を育てられない。
だが、泥蟹が壊した畦の上には、まだ乾いた土が残っている。
私はそこへ走った。
長靴が泥へ沈む。
足を取られ、転びそうになる。
ガルドが泥蟹の正面で鋏を引きつけている。
長くは持たない。
私は畦へ種豆を押し込んだ。
「今度こそ――《促成栽培》!」
緑の光が乾いた土へ染み込む。
今度は、すぐに反応があった。
芽が出る。
茎が伸びる。
畦の上を這うように、枝豆の蔓が横へ広がっていく。
ただし、大豆村で作った防壁ほど太くない。
畦の土は痩せ、何年も放置されている。
水分も多すぎる。
育てられる量には限界があった。
「セイン! 脚へ追い込みます!」
「分かった!」
私は蔓を泥蟹の進行方向へ伸ばした。
直接、巨体を縛るのではない。
足元へ何本も蔓を張り、動ける方向を狭める。
泥蟹が脚で一本を踏み切る。
二本目も切れる。
だが、三本目が関節へ絡んだ。
横歩きの速度が落ちる。
「ガルド、左へ!」
ガルドが泥蟹の右側から大剣を振る。
甲殻を切るのではなく、鋏の根元を叩いた。
泥蟹が反射的に左へ逃げる。
そこには、私が伸ばした蔓が集中している。
複数の脚が絡まり、身体が傾いた。
腹側がわずかに持ち上がる。
「今だ!」
セインの矢が飛んだ。
狙ったのは目ではない。
脚の付け根。
甲殻同士の隙間へ矢尻が突き刺さった。
泥蟹が激しく暴れる。
脚を振り回し、蔓を引きちぎる。
完全には止まらない。
ガルドが大剣を逆手に持ち替えた。
露出した腹側へ、刃先を突き込む。
甲殻が割れる、鈍い音がした。
泥蟹の動きが止まった。
鋏が一度だけ大きく閉じる。
そのまま巨体が泥へ沈んだ。
しばらく、誰も動かなかった。
別の個体が出てこないか、周囲を確認する。
水面は静かだ。
だが、先ほどとは違う。
どこに何が潜んでいるか分からないことを、私たちはもう知っている。
「一匹……倒した?」
私は畦へ座り込みそうになった。
「座るな」
セインが止める。
「泥の下に、まだいるかもしれない」
「休憩させて……」
「安全な場所を見つけてからだ」
厳しい。
だが正しい。
私は倒れた泥蟹を見た。
小型個体ですら、三人で連携しなければ倒せなかった。
しかも私の《促成栽培》は、湿地の中ではほとんど使えない。
戦う場所を選ばれたら不利になる。
「成体が出たら、どうするの?」
ガルドが泥蟹の鋏を持ち上げ、重さを確かめる。
「正面から戦わない」
「ですよね」
「巣穴と移動経路を調べる。戦うなら、乾いた場所へ誘い出す」
セインも頷いた。
「水田跡へ無闇に入るのは危険だ。今日は農場の外周だけ確認する」
稲はすぐそこにある。
手を伸ばせば、穂を取れそうな距離だ。
だが、欲を出して泥へ入れば、次の泥蟹に襲われるかもしれない。
私は長い棒を拾い直した。
棒の先端を使い、畦の近くに生えていた稲の穂を一本だけ引き寄せる。
慎重に刈り取った。
穂には、黄褐色の籾がぎっしりとついている。
宿で手に入れたものより、粒が大きい。
一粒を外し、爪で殻を割る。
中には、細長い穀粒が入っていた。
「同じです」
「米なのか?」
ガルドが尋ねる。
「稲の仲間なのは、ほぼ間違いないと思う。でも、食べられるかは炊いてみないと分からない」
「煮るだけじゃ駄目なんだったな」
「籾すりが必要です」
まだ喜ぶには早い。
この稲が十分な収穫量を持つのか。
毒や強い苦味がないか。
栽培し直せる種なのか。
調べることはいくつもある。
それでも、ようやく現物へたどり着いた。
私は籾を布袋へ入れた。
そのとき、少し離れた泥の中から、泡が浮かんだ。
一つ。
二つ。
三つ。
農場のあちこちで、水面が小さく揺れている。
セインが矢をつがえた。
ガルドも大剣を構える。
だが、泥蟹は姿を現さなかった。
ただ、泥の下を何かが移動する気配だけが続いている。
「一匹じゃない」
私は呟いた。
水田跡を見渡す。
崩れた畦には、大小いくつもの穴が開いている。
水路の側面にも。
作業小屋の近くにも。
泥蟹は、この農場へたまたま現れたのではない。
ここを巣にしている。
稲の群生地全体が、泥蟹の縄張りなのだ。
「稲は見つけた」
ガルドが低い声で言う。
「だが、近づけないな」
私は手にした穂を見つめた。
白米へ続く道は、確かにここにある。
ただし、その道の上には、巨大な鋏を持つ魔物が住み着いている。
一匹倒せば終わる話ではない。
水田を再生するなら、泥蟹の巣穴を調べ、水路を守り、この土地から追い出さなければならない。
「まずは拠点を作りましょう」
私は崩れた作業小屋を指さした。
「乾いた場所を確保して、周辺を調べる。それから泥蟹対策を考えます」
「帰らないのか?」
「稲を目の前にして帰れるわけないでしょう」
「そう言うと思った」
旧農場の中心には、黄金色の稲穂が揺れている。
その下の泥では、無数の何かが息を潜めている。
白米探索は、発見して終わりではなかった。
ここから先は、稲を収穫できる場所を取り戻すための戦いだった。




