詩織
時が止まる。
時計の秒針の音だけが聞こえる。
今なんて?
「誰って、詩織だってば」
母に認知症の兆候なんて感じたことはない。
私が帰ってなかった間に発現した? いや、それなら父から連絡があるはず。
でも、自分の子どもを忘れるなんてことあるだろうか?
「だから詩織って誰なのよ。学生時代のお友達?」
「ちょっとふざけないでよ。詩織は私の……」
言葉が詰まる。
詩織は私の……私のなんだ?
私の中でガラスが割れるような大きな音ともになにかが崩れていく。
考えてみればおかしなことだらけだ。この家に詩織の部屋はない。そもそも、この家で育った私の記憶の中に詩織が存在しない。
ついさっきまで詩織のことを双子の妹だと思っていた。でも、私は一人っ子だ。
「ちょっと、どうしたの? 顔色が悪いわよ?」
母が声をかけてくる。
「大丈夫……」
いや、なにも大丈夫じゃない。
体が小刻みに震え始める。
私の家にいる詩織は誰?
私とそっくりな顔をしたあの女。双子なら説明がつくけど双子じゃないなら一体なに?
スマホのフリマアプリを起動する。私は使わないけど詩織に言われてダウンロードしたんだ。販売履歴を確認する。そこには大量のぬいぐるみと服の販売履歴があった。
ぬいぐるみも、服もどちらも見覚えがあるものばかり。どうして私のスマホにこの履歴が? 意味がわからなくて目眩がする。
「仕事でなにかあった? それとも困ったことでもあるの?」
返事がしたい。でも、言葉が出ない。
言いたいことはあるのに、なにを言えばいいかがわからない。
「ぬいぐるみを手放すって聞いた時、おかしいと思ったのよ。やっぱりなにかあるのね?」
心配そうな母。
違うの。
なにかあったからぬいぐるみを手放したんじゃない。なにかが今起きていて、そのなにかがぬいぐるみを売ったんだ。しかも私のスマホで。
「……お母さん、私、ぬいぐるみを売りに来てた?」
「え? そうよ。何度も言ってるでしょう。二週間ぐらい前、急に帰ってきたと思ったらぬいぐるみを売るって言うから驚いたんだって」
「その時の私はなにか言ってなかった? 売る理由とか」
「理由? そうね、たしか『もうこの子たちの役目は終わった』って言ってたわ」
「そっか……ありがとう」
体の震えが止まる。
家族の役目が終わる? なにを勝手に決めているんだろう。猛烈な怒りが恐怖心を飲み込んだ。
握りしめた手に爪がぎゅっと食い込む。でも、痛みは感じない。
「……紗織。ねえ、紗織ってば!」
母の声でハッとする。
「ちょっと、本当に大丈夫? すごく心配なんだけど……」
「うん、大丈夫。ごめんなさい、変なこと言って」
「今日は泊まって帰ったらどう? 疲れてるんじゃないの」
「ありがとう。でも、大丈夫。やらなきゃいけないことがあるから」
詩織が何者かはわからない。でも、そんなことどうでもいい。私の大切な家族を奪った。これは決して許せないことだ。
「また来るね」
私は母に笑顔で言った。その笑顔に偽りはない。だって怒りと共に喜びもあったから。
ひどいことをしたんだから、その報いを受けても仕方がないよね? 鬱々と溜め込み続けていた破壊衝動がぶつけられる。そう思うだけで口角が勝手に上がる。
私を見て顔を引き攣らせる母をよそに、私は家へと急いだ。




