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第二幕 不条理のためのノクターン


第三帝都の造船廠は、その朝、奇妙な霧に包まれていた。


紫と桃色が溶け合ったような、この世のものとは思えない色のもや・・だ。

炉心リアクターの試験稼働を繰り返してきた十年の間に、ドック周辺の大気には微細な魔素が染み込んでいた。それが夜明けの冷気と海の湿気に触れるたび、そして接近した旋星の光を乱反射するたびに、こうして幻想的な色彩となって港を満たしたというのが、学者陣の通説となっている。


しかし岸壁に詰めかけた民衆にとってそんな理屈はどうでもよかった。ただその美しさが、今日という日を夢の中の出来事のように感じさせ、胸の奥をじんわりと熱くさせた。それで十分だった。


霧の中から現れた軍職階級の者たちは礼装を纏い、固く深く制帽を被る。市民たちは岸壁の隙間という隙間に身を押し込んで、今か今かとその瞬間を待ちわびていた。帝国旗が風にはためき、軍楽隊の演奏が塩辛い海風に乗って遠く沖まで響き渡る。


ドックの鉄扉が、ゆっくりと、まるで時代そのものが扉を開くかのように左右に割れた。


——そして、艦は現れた。

全長三百八メートル。排水量、九万二千トン。艦首から艦尾まで、鋼鉄と魔導結晶の複合装甲が青黒く輝き、まるで神話時代の海竜が海面に浮かび上がったかのような威容だった。艦名は「アイアン・グレイス号」。帝国海軍が威信を賭けて、十一年の歳月と四万人の職人の手を費やして生み出したこの世で最も巨大な戦艦である。


三連装の主砲塔が四基。砲身の一本一本が、並の城門よりも太い。しかしこの艦を真に「新型」たらしめているのは、その砲塔の中枢に埋め込まれた炉心——帝国魔導院と艦政本部別室がタッグを組み、長年に渡る研究の末に結晶化させた「永久励起式魔素圧縮炉」であった。通常の火薬砲とは根本的に異なる原理で砲弾を加速させ、放たれた一撃は百キロ先の要塞をも消滅させると言われていた。これは後に、軍部主導の大袈裟なポジティブ・キャンペーンによる言説だったと判明している。


進水台の木材が、少しずつ軋み始めた。

元宰相ルドーヴィク・ルートヴィチ・グルドン侯爵が演壇に立つ。齢七十を超えた老人の声は、しかし海をも震わせるほどに力強かった。


「今この瞬間、帝国は歴史の新たな頁をめくる。いかなる嵐も、いかなる敵艦隊も、この艦の前には塵に等しい。アイアン・グレイス号よ、永遠にこの海の盾となれ——」


スピーチが終わった。

その最後の言葉が霧の中に溶けきるより早く、軍楽隊が一斉に咆哮した。

金管の和音が港全体を揺さぶり、鼓膜を震わせ、胸の奥まで突き抜ける。ファンファーレだ。勝利と栄光のために書かれた、帝国で最も古く最も誇り高いあの曲が、今この瞬間のために全力で鳴り響いた。

それと同時に、造船廠の塔という塔、桟橋の端という端から、無数の花びらが一斉に解き放たれたのだ。

紅、白、金、紫。色とりどりの花吹雪が霧の中に舞い上がり、風に乗って渦を巻き、港全体をひとつの祝祭の渦に変えていく。花びらが頭に降り、頬に触れ、波間に落ちて揺れた。子どもたちが両手を広げてそれを受け止め、老将軍たちは大きな肩に積もる花びらを払おうともせずに前を見ていた。


眠っていた艦の魔導炉心が目を覚ます。

艦橋の奥で計器がひとつひとつ青く点灯し、魔素排出口から光の尾が空へと立ち昇った。

低く、腹の底に響く轟音が港を震わせる。まるで巨人が夢から目覚めたような音だった。

そして「アイアン・グレイス号」は動き始めた。

支持台の楔が次々と外れ、九万トンの鋼鉄の城が確実に海へと滑り出していく。群衆は息を呑んだ。


艦首が海面に触れた刹那、巨大な白波が左右に炸裂した。塩水の飛沫が観覧席の最前列まで届き、霧と混ざり合って、桃色の雨となって降り注いだ。


艦体が完全に水を受け浮力に包まれると、楽団は最大音量で帝国行進曲を演奏し始めた。

旗が、波が、人の声が、色とりどりの霧が、すべてが渾然一体となって、この瞬間を世界の記憶に刻みつけようとしているかのようだった。


観覧席に居た主任技師モルドーナ卿もまた、桃色に染まるアイアン・グレイス号の舷側を感慨深げに眺めてこう残した。


「船を造るとは、鉄に魂を入れることだ」


_____________________


「帝国海軍史第七巻 魔導艦大時代の夜明け」より



仕立ての良いヘビーウール製マキシ丈オーバーコートをマントのように肩に羽織り、内側には、使い込まれて鈍い光を放つブラウンのレザー・スーツを着用していた。身体のラインに完璧に沿ったジャケットと、同素材のタイトなパンツ。ベルトできつく締め上げられたウエストは、機能美と女性らしい鋭さを同時に体現している。


その姿は、華やかな式典用というよりは、いつでも炉心の熱風の中に飛び込める実戦仕様の凄みがあった。


「……これこそが、北方海洋の冬を終わらせる『鉄の盾』となるのでしょう」


キャスケット帽の下から覗くのは、眼前の超弩級戦艦とそれに群がる人々の光景に、法悦の表情を浮かべるセラフィーヌ。


「兄上、待望の魔導戦艦の完成、心よりお慶び申し上げます。一族の悲願が、今ようやく形を成したのですね」

その言葉には一切の虚飾もない。

それを受けた兄——かつて士官学校を首席で卒業し、今は軍の中枢を担う超実戦主義者の男は、満足げに口角を上げる。


「誇らしいな。我らチェニホフスキが北の海を統べる、その一翼を担うのだから。おや、面白いものが見えるぞ。ほら向こうの波止場でクレネースが漢泣きしている」


「あの叔父上が……ええ、それはまた、大変珍しい……」


高台に設けられた観覧席のバラストレードに僅かに体重をかけた兄・ヨーゼフが指差した遠くに視線を向けたセラフィーヌは口籠る。兄の不遜を指摘するべきか、叔父の涙に感情移入するべきか、そのどちらも出来ずに。


「……ところで、セラフィーヌ。例の試験の結果はどうだった? お前のことだ、また私の記録を塗り替えたんだろう」


視線が、冗談を言っていた先ほどとは打って変わり品評するような鋭さを帯びたのが分かった。喧騒が一瞬だけ遠のく。

セラフィーヌは表情を動かさなかったが、沈黙を置いて答えた。


「……二番でした。最先任大佐卿の次男に、首位を奪われてしまい」


寒空に放たれたその言葉は、彼女自身のプライドを再び凍りつかせるには十分だった。首席でなければ、それはチェニホフスキにとっては敗北と同義。

ヨーゼフの口角から、先ほどまでの快活な笑みが消えた。


「二番か。チェニホフスキの血を引いて、早くも敗北の味を覚えるとはな」

「……己の器量をこれほどまでに恨んだことはございません」


セラフィーヌの声は、民衆たちの沸騰にかき消されそうなほど低かった。兄の落胆こそが、彼女にとっては何よりも鋭い鞭となり、背筋は折れるどころか、さらに鋼のように硬く強張る。


その重苦しい沈黙を、背後から忍び寄る場違いなほど軽やかな声が切り裂いた。


「ああ、なるほどね。ようやく合点がいったよ。だから先日の舞踏会の夜、君はあんなに不機嫌だったんだ。まるでお墓の中にいるような顔で私を睨みつけていたのはそういう訳だったのかい」


置物のようにセラフィーヌの側で控えていたはずのイヴァンが、くつくつと喉を鳴らしながら、彼女の肩越しに顔を覗かせる。

彼と目が合ったヨーゼフは、これ見よがしに鼻を鳴らした。それも忌々しげに。


「相変わらずの軽口だな、義弟君おとうとぎみよ。……まあいい。セラフィーヌ、敗北を糧にするのも一族の資質だ。しかし次は二番などという数字を、父上に聞かせてやるなよ」

「はい、必ず」


セラフィーヌは一切表情を変えず、視線すら兄に固定したまま、エンジニア・ブーツの頑丈な踵に全身の体重を乗せた。そして、真後ろに立つイヴァンの足の甲を、容赦なく踏み抜いた。

ゴリリ、と骨が軋む鈍い感触が伝わる。


「失礼、オーバーコートの重みで少し足元がふらついてしまいました。平気かしらイヴァン」


「……もちろんだよ。君の『重み』なら、いつでも歓迎するとも」


イヴァンは、脂汗滲むほどの痛みを笑声に変えた。表情一つ変えずに足を引き抜くと、何事もなかったかのようにバラストレードに肘をつく。


「ただ、あまり背負い込みすぎないことだね。そのコートも家の名誉も。あまりに重すぎると肝心の計算を間違えてしまうよ?」

「どうも。無用なお節介ね」


セラフィーヌは吐き捨てるように言い、キャスケット帽の鍔をぐっと深く引き直した。


兄はそんな二人の剣呑な空気を「婚約者同士の痴話喧嘩」程度に聞き流し、眼下の進水台を見下ろしている。


「お前たち、まもなく始まるぞ。見ろ、あの巨体が海を切り裂く瞬間を。たとえセラフィーヌが二番に甘んじたとしても、このふねが一番であればいい。それが我々の存在意義だ」

「……仰る通りです、兄上」


セラフィーヌは深く、静かに息を吸い込んだ。

ついに『鉄の盾』を繋ぎ止めていた最期の拘束が解き放たれようとしていた。

そして帝都の空を揺るがす金管楽器の雄叫び。


だがセラフィーヌの耳には、隣で退屈そうに汐風を浴びる婚約者の、手摺の縁に指を打ち付ける、規則的な震えが不気味に響き続けていた。



「エスプレッソ」


石造りの街並みから一歩足を踏み入れれば、そこは世紀末フィン・ド・シエクルの夢が凝縮された空間。高い天井は、ガラス張りに鉄枠が織りなす植物文様のカゴに覆われ、その向こうには、深く沈んだペパーミント・グリーンの闇が広がっている。まるで巨大な鳥籠の中に閉じ込められたかのような、奇妙な。


「私はコニャックかな」


壁一面に描かれるのは、アール・ヌーヴォー調の憂い顔の女神のタイル画だ。彼女たちは金の蔓が絡まるニッチの中から、静かにこちらを見下ろしている。

店の奥、女神の視線が最も濃く注がれる特等席。そこだけは他よりも一段と明るい、アンバー色のガス灯に照らされていた。


セラフィーヌは深く、斜めに椅子へ身体を預け、肘掛けに頬杖をつきながら、傲慢なまでに堂々とレザーに包まれた足を組んでいる。


「どうだい? 感じの良いラウンジだろう」

銀の盆に乗るぶどうをひと粒口に運んで、イヴァンは汐風に崩れた髪をかきあげた。


セラフィーヌが隣の席を見やる。夜の闇に紛れるような黒いコートを纏った男たち。彼らの間に広がるのは、白布の上に広げられた深い緑のフェルトと、そして、無造作に積み上げられた銀の縁取りがされた陶製のチップと、古びた、しかし手になじんだポーカーカード。

「……チェック」

一人の若い男が、細い指先で顎をなぞりながら、絞り出すような声で言った。


どうも、成金ブルジョワどもの賭場になっている場所らしい。


享楽的デカダントな連中の社交カフェってところかしら。貴方にお似合いよ」


キャスケット帽を脱いでテーブルに放り出した。乱れた髪の数房が頬にかかる。

彼女の瞳は、目の前の甘美な空間を享受することなど拒絶するような色が宿っていた。


「せっかく鉄の盾の胎内から、この暖かな鳥籠の中へ逃がしてあげたっていうのに。そんな風に不機嫌に足を組んでいたら、せっかくのコートが皺になってしまうよ」

「逃がした……? 噴飯ものね。私はあそこに残るべきだった。男たちが無骨にカップを重ねる横で、私も炉心の脈動を指先で数えていたかった」

「けれども君はレディだから」


運ばれてきたバルーングラスは、緻密な花柄の飾り彫りのエッジが琥珀色の液体越しにキラキラと煌めく。イヴァンがグラスを揺らすと、粘性のあるコニャックが彫刻の隙間をなぞるようにゆっくりとグラスの壁を泳いだ。

そのブランデーによく似た色の、はちみつの瞳を冷たく見つめ返すセラフィーヌ。


「ええ。女だから、男たちの血の契りには指一本触れさせてもらえない」


テーブルに置かれたコーヒーカップには見向きもせず、眉間に皺を寄せる。


「それを『救い出した』だなんて。わざと言ってるんじゃないなら、貴方少々、おつむの巡りが穏やかすぎるわよ」

「救ったなんて私は一言も言っていないよ、セラフィーヌ。ただ君が女でよかったと心底思っているだけさ。あのチェニホフスキの冷徹な男衆に囲まれたら、二番という烙印を突きつけられながら君が泣き出してしまっただろうから」


グラスの縁をなぞりながら、慈しむような、それでいて猛烈に神経を逆撫でするような笑みを深めた。


進水したばかりの戦艦の士官室、あるいは主砲塔の直下で行われる、一族と軍高官のみの儀式「血の祝杯トースト」。そこでは錫のカップに注がれた毒に近い酒を、一族の「構成員」として一息に飲み干す。

いずれ他家の嫁となる女は、その構成員にはなれないのだ。


「悲しいね、セラフィーヌ。君はチェニホフスキに見合おうと、血の滲む努力を重ねているのに」

「お黙り。貴方の言葉全てが不愉快だわ」


イヴァンは身を乗り出すようにして、今にも凍りつきそうな青い瞳を覗き込む。


「だから感謝してほしいんだ。君を一族しがらみから連れ出して、この薄暗い鳥籠の中に匿ってあげた私の気遣いに。控え室で独りぼっちはきっと寂しいだろう。だがここでは、誰も君のことを品評しやしない。……ただのプライドの高い女の子として、ゆっくりと酒を煽ればいいんだ」


セラフィーヌは、その言葉を最高の侮辱として受け取り、歪んだ薄笑いを口端に浮かべた。


「結構よ。我が家の高潔なる血を安酒で薄めるなんて、死んでも御免だから」

「そう? まあ、構いやしないけどね……」


セラフィーヌは眉を顰めたまま目を伏せて、コーヒーを呷る。


「……お前のターンだアシュトン」


隣のテーブル。

老紳士が、隣に座る物憂げな目をした男を促す。アシュトンと呼ばれた男は、配られたカードを一枚ずつめくっていく。

彼は自分のチップを数えることなく、一掴み手に取ると、静かにテーブルへ置いた。


「——コール。そして、オールインだ」


ふと耳に入った会話に、伏せていた目蓋を開けて視線を流すセラフィーヌ。

どうにもその男が、持ち手のチップ全てを賭けたところだった。


「見ていられないわ。……あまりに稚拙なブラフ。あんなもの、確率の揺らぎですらなくただの自滅よ」


影になった男の表情の微動を読み取ったセラフィーヌが吐き捨てるように呟き、席を立とうとしたその時。気だるげにぶどうを食んでいたイヴァンが、ふっと音もなく腰を上げた。


「……おやおや。そんなに急がなくてもいいじゃないか。せっかくの『全賭け(オールイン)』なんだ。観客が一人もいないんじゃ、あの彼も浮かばれないよ」

「ちょっと、イヴァン?」


彼はセラフィーヌの制止も聞かず、ゆらりと隣のテーブルへ歩み寄った。その足取りは先ほど踏み抜かれた痛みなど微塵も感じさせないほどに滑らかだ。思わずセラフィーヌが彼のジャケットの裾を掴むも、止められない。

彼は先ほどの男——アシュトンと呼ばれていた——の隣に、さも当然のように腰を下ろした。


「失礼。端で見ているだけでは少し退屈でね。……私も混ぜてもらってもいいかな? 軍資金なら、この『チェニホフスキの至宝』に負けないくらいには持っているつもりだ」


イヴァンの、うぬぼれとも言える言葉に、テーブルを囲む大人の男たちの瞳が一斉に彼、同時にセラフィーヌを射抜く。

だが彼は瞳を細め、懐から無造作に、見たこともない額面の金証クレジットの束を放り出した。


「ここのラウンジは居心地いいだろう? 私も常連で、パトロンの一人なんだ」


「……冗談でしょう」

セラフィーヌは、イヴァンの腕を掴みかけた姿勢のまま凍りついた。

「パトロン? 貴方、そんな資金をどこから」

彼女の問いは、場の雰囲気にかき消された。


「アシュトン君が勝つ方に、この金証すべてを賭けよう。……さて御三方、受けてくれるかな」

イヴァンは、アシュトンと卓を囲んでいた2人の成金たちに言った。

「ねえ狂ったの? 法外な額だわ」

「心外だな。私はいつだって、投資に関しては誰よりも理性的だよ」


イヴァンは、取り乱すセラフィーヌの視線をひらりと躱し、奥で音もなく控えていた男に視線を送った。


「もしアシュトン君が負ければ、この金証は君たち3人で山分けにすればいい。……だが、もし彼が勝てば。その金はそのまま、私の元へ戻ってくる。それだけのことだ」

「ああ、本当に馬鹿なのね! イヴァン、己の言っている意味を分かっているの?」


成金たちはテーブルに積まれた見たこともない額面と、イヴァンの笑みを交互に見つめた。彼らにとって、この分が良すぎる賭けはリスクなしに巨万の富を得るチャンスに思えた。


「ああ、受けようじゃないか」

成金の一人が欲に駆られた声で言う。

軽やかな提案に、彼らは「カモが来た」とばかりに色めき立ち、即座にサイドベットが成立した。すでにアシュトンはオールインしており、逃げ場はない。


セラフィーヌは、客たちの捨て札や、給仕が片付けた前のゲームの残骸、テーブルのカード配分を脳内で瞬時に再現していた。

アシュトンが勝つには、最後の場札でスペードのAを引くしかない。それ以外は、何が出ても相手の勝ち。アシュトンの勝利は確率にして……0.005%以下。

カードゲームに詳しくないセラフィーヌでも、なんとなくの勝率はわかる。


「ロジックはもういいんだセラフィーヌ。今、この場で一番美しいのは、あの手元にだけ眠っている、たった一つの可能性さ」

イヴァンの瞳は、勝ちを確信した強者のそれではなく、未知の深淵を覗き込むような、純粋で狂気じみた光を湛えていた。


「リバー(最後の一枚)を開きます」

コンシェルジュが静寂の中でカードを捲る。

セラフィーヌは思わず息を止めた。ロジックがこの無謀な男を嘲笑う瞬間が来るのだと確信しながら。


だが、卓上に叩きつけられたのは——「スペードのA」。


セラフィーヌは、そのカードを凝視したまま絶句した。

ありえない。あってはならない。彼女が信奉する「精度」と「確率」の世界において、これほどまでの例外はエラーでしかないはずだった。


静寂が支配するラウンジで、イヴァンだけが楽しげに声を上げた。

「あはは! 見たかい、セラフィーヌ。計算通りにいかない世界は、こんなにも瑞々しい」


イヴァンは心地よい疲労感に身を委ねるように深く椅子にもたれかかり、勝利の余韻を味わうように目を閉じた。そして、戻ってきた山のような金証を、呆然とするセラフィーヌのコートのポケットに、乱暴に押し込んだ。


「……ねえ、これ、イカサマなの?」

「まさか。私はただ、彼がカードの女神たちに愛されるように、少しだけ贅沢な祈りを捧げただけだよ」


理屈では説明できない。だが、目の前の男の瞳は、どんな正解よりも強く、彼女を射抜いていた。


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