第二幕 そして噴水は水を吐き続ける
表面には溶けたバターの黄金色の筋が走り、その上に砕いた香ばしいクルミと、甘さを抑えたカカオニブやドライイチジクが散らされた粥へ、別添えの蜂蜜を少量回しかけながら、セラフィーヌは思考の淵に沈んでいた。
水ではなく、脂肪分の高い濃厚なミルクと少しの塩で炊き込まれたオートミールは粒がしっかり残り、噛み応えがある。臼歯でゆっくりオーツをすり潰し、銀のスプーンでオーツを口へ運び、また臼歯ですり潰し……。
朝日が差し込む女子寮の食堂は、教会の聖堂にも似た厳粛な静寂に包まれていた。
高い天井に反響するのは、磨き上げられた銀食器が陶器皿と触れ合う硬質で控えめな音だけだ。給仕に立つ従兵たちは影のように音もなく絨毯の上を滑り、候補生たちの肩越しに温かいアールグレイティーを注いで回る。
その場にいる全員が、一筋の乱れもない軍服の立ち襟を正し、背筋を真っ直ぐに伸ばしていた。
先日、新型戦艦進水式の日。
なぜあの男は——イヴァンは、あの額の金証を持っていたのか。
イヴァンの父、現アルドルド子爵の病状が芳しくないのは社交界も周知の事実だ。だが爵位も財産もまだ彼のものではないはず。相続の手続きすら始まっていない男が、なぜ、あの一帯のブルジョワ共を向こう十年は黙らせかねない額の金証を、あんなにも無造作に放り出せたのか。
(情婦にでも貢がせた?……まさか)
その邪推は、自嘲を孕んだ微かな失笑とともに、喉の奥へと嚥下された。
確かに、イヴァンのあの端正な、しかしどこか退廃的な翳りのある美貌をもってすれば、財を持て余した年上の有閑夫人や、退屈を極めたパトロンの数人を跪かせることなど造作もないだろう。
とはいえ彼は仮にもチェニホフスキ家の血脈を迎え入れる身。チェニホフスキ筆頭本家の長女、セラフィーヌに真っ向から泥を投げつけるような蛮勇を振るう女など、この国の社交界にいようものか。
ゆえに彼の毒牙にかかるのは、決まって法も理も解さぬ市井の有象無象か、さもなくば世を知って間もない温室の令嬢と相場が決まっていた。
ナプキンで口を優雅に拭ったセラフィーヌは、皿の縁にわずかに残った蜂蜜の雫を見下ろした。あのイヴァンの瞳を嫌でも思い出させる、この色。
(……この私に、何かを隠していると?)
セラフィーヌは彼女のカップに二杯目のアールグレイを注ごうとする従兵に片手を挙げて、凛とした所作で立ち上がり、食堂を抜けた。
宿舎と教室棟を繋ぐのは、長い石造りの回廊だ。連続する尖頭アーチの隙間から、斜めに入り込む朝陽が床に規則正しい梯子のような影を落としている。回廊に囲まれた中庭からは、手入れの行き届いた芝生に憩う、小鳥のさえずりが響いた。
向かうのは機関工学論の大講義室。
大きな扉を押し開けると、そこにはドーム状の天井に蒸気機関のピストン音が微かに反響する、熱気を含んだ空間が広がっていた。講義室の正面、巨大な黒板には新型巡洋艦のボイラー配置図が精緻に書き込まれている。
セラフィーヌは最後列の、家系ごとの「指定席」へと迷いなく歩を進めた。人はまだまだまばらだが、すでに着席していた候補生たちが一斉にセラフィーヌを見やる。
彼女はその視線を当然の権利として受け流した。
「セラフィー、おはよう」
後から入ってきたノーエルディモーネが、ひらりと手を振った。
「……ご機嫌よう、ノーエルディモーネ。朝の整列点検に間に合わなかったようね、襟が歪んでいる」
「おや」
ノーエルディモーネ——名門侯爵家の次男であり、士官学校入学以来のセラフィーヌの校友でもあるその青年は、弾かれたように己の首元に手をやった。慌てて立ち襟を正そうとする指先が、どこか落ち着きない。
「そんなに酷いか? 同室の連中が騒がしくて鏡を見る時間が少し足りなかったんだ」
「言い訳は一時間後に巡回してくるバルカザールー教官に直接どうぞ。もっとも、あの方の聴覚に不注意な弁明が届くとは思えないけれど」
「相変わらず意地悪だね、君って奴はさ」
セラフィーヌの隣に腰を下ろした彼は、周囲に波紋を立てぬよう、それでいてセラフィーヌの鼓膜にだけは鮮明に届く密やかな声で、突然こう語りかけた。
「しかし何だい。今まで僕は、君たちカップルは飲み残されて膜の張った冷たいコーヒーよりも救いようのない関係だとばかり思っていたんだけれど……案外、そのカップの底には甘い澱でも沈んでいたの?」
すかさずお調子者らしく、これ以上ないほどの軽薄なウインクをしてみせるノーエル。
「はあ? ノーエル、皮肉にしても意味不明なんだけれど」
思わず飛び出た品のない感嘆詞は、彼女の不快感をありありと告げていた。
「第一、私とあの馬の骨との関係を、その吟遊詩人のようなくだらぬ比喩で例えるのをやめてくれない。空気が濁ったわね」
そう言い放ち、半眼でノーエルを睥睨する。
「や、やあ、すまない、今の言葉は取り消すよ。少し冗談が過ぎた……だが、お前とイヴァンの関係に修復の兆しが見えたというニュースは本当だろ」
「……第二に、その出鱈目なニュースは何よ?」
「どうも君たち二人が、例の進水式の後に城下の賭場で腕を組んでたって、そんな話だよ」
「何ですって?……ノーエルディモーネ。その出鱈目を流布しているのが誰か教えなさい」
セラフィーヌは極めて静かに、しかし有無を言わせぬ威圧感を持って告げた。
実際、あの日、彼女はイヴァンが不遜な賭けをしていた現場に居合わせた。だがそれは「腕を組む」といった睦まじいものとは程遠い。
誰かが面白おかしく、この辺境伯令嬢を「ゴシップ」にしてやろうと不潔な舌舐めずりをして作った嘘八百。万死に値する不敬。
と同時に、セラフィーヌは制服の下の背中に冷や汗が伝うのを感じていた。
いくら上流階級のラウンジだったと言えども、賭けに興じていたという噂が父に漏れ伝わったら———
「どこまで広まっている話なの」
問いは短かった。
ノーエルは一瞬、喉仏を上下させた。彼はセラフィーヌを長年知る男だ。今この瞬間、目の前の女の怒り、否、焦りを、その皮膚感覚で察している。
「今のところは士官学校の中、それも限られた一部じゃないか? 昨夜の夕食の席で、第三中隊の男が君たちを見たんだと、そういう軽口を叩いていたのを小耳に挟んだ程度だよ」
「誰?」
「名前までは知らないさ。奴は……同期ではないけれど、宿舎で何回か見たことあるぐらいの」
「……わかった、ノーエル。教えてくれたことには感謝するわ」
「ええ? そんなに急に礼儀正しい顔をされると逆に怖いよ」
「さあ、黙って机の上に教材を出しなさい。バルカザールー教官がいらっしゃるまで、せいぜいボイラー配置図の予習でもしていてよ」
それだけ言い置いて、セラフィーヌは視線を前方の黒板へと向けた。ペンを手に取り、ノートを開く。しかしその白紙の上を走る線は、今日に限って巡洋艦の設計図ではなく、思考の軌跡——紙にペン先を叩きつける、いつもの癖による無秩序なインク痕だった。
そのとき、背後の大扉が重々しく開いた。 鋭い靴音が大理石の床を踏む。一瞬にして教室の空気が引き締まり、候補生たちは姿勢を正す。
バルカザールー教官が巡廊を抜けて壇上へと上がった。老練な将校特有の、隙のない静けさを纏った人物だ。その鉄灰色の瞳が教室を一瞥しただけで私語はおろか、紙の擦れる音すら消えた。
「起立」
号令とともに全員が弾かれたように立ち上がる。 セラフィーヌも背筋を一分の狂いもなく伸ばしながら、胸の内でひとつ、呼吸を整えた。
今日の放課後。 第三中隊の情報源を洗い出す。それが、現時点でできる最善手か。
「着席」
ペンが白紙の上を走り始める。
帝国士官学校の午前が、まもなく動き出した。
◇
午後のわずかな自由時間。
中庭に面した回廊は、講義を終えた候補生たちのざわめきで緩やかに満たされていた。
石畳の上を軍靴が行き交う。セラフィーヌはその流れに逆らうことなく歩きながら、しかし確実に、ある一点へと向かっていた。
回廊の端、長年そこに水をたたえる古びた石造りの噴水のヘリに腰掛けている男。柱に寄りかかって欠伸を噛み殺しているノーエルを、遠目に見つける。
「ノーエル」
「うわっ、きた」
反射的に背筋を伸ばしかけ、しかし途中で思い直したのか、わざとらしく怠惰な姿勢に戻してみせる。小さな抵抗だ。
「何だよセラフィー。……ああもしかして今朝の件」
「第三中隊の例の候補生。それが誰か今日中に割り出してほしいの」
あご先で切り揃えられた柔らかなブルネットが、その仕草に遅れてふわりと空気を孕んで揺れる。彼女はノーエルを覗き込むようにしていくらか首を右に傾けた。
ノーエルは天を仰ぐ。
「ねえ、一応確認なんだけど、僕の実家は侯爵家だよね。君のお父上の伯爵位より、うちの家格の方が上ってことだ」
「そうね」
「なのに何で僕、毎回こういう役回りになっているんだい」
「私があなたを適任だと感じたから」
「適任って言葉、便利だな」
セラフィーヌは答えなかった。ただほんの少し、視線に期待の色を乗せてノーエルを見た。それで十分だった。
「……はあ」と、ノーエルは長い息を吐く。
視界を遮るように伸びた前髪を、指を熊手のようにして乱暴にかき上げた。
手のひらで根元からぐいと押し上げられた髪が、重力に従ってゆっくりと額に落ちてくる。
「わかった、やる。でも条件がある」
「何?」
「ちゃんと教えてよ、何があったか。朝から顔色がいつもと違うだろ。気になって先の航法論は頭に入らなかった」
セラフィーヌは瞬きをする。
ノーエルはこういう男だ。不満を口にしながらも結局引き受ける。金でも名誉でもなく、己の好奇心で動ける人間。侯爵家の次男という権力の中枢からひとつ外れた立ち位置が、この男に妙な観察眼と、野次馬根性を与えていた。
「顔色はいつも通りだけど」
「そうだね。そう言うと思った」
「まあ……良いわ。どうせ貴方には話すつもりだったから」
噴水の水音だけがしばらく二人の間を満たした。
セラフィーヌは石造りの縁に腰を下ろすことなく、傍らに立ったまま中庭に目を向けた。
「あの場は……事実、貴方が想像しているであろう下町の汚れた賭場なんかではなかったわ。どこにでもあるようなラウンジよ。品のないブルジョワが見せ付けるようにポーカーをする」
「だろうね。俗世の塵に交わろうとしない君みたいな令嬢が下町へ足を運ぶとも思えないし」
セラフィーヌは息をついた。
「進水式後の祝杯の儀式を待つ間、彼に連れてかれたの」
「セラフィーが大人しくそれに付いて行ったっての? そっちのが驚きだ」
「……先日に色々あって、蔑ろにするのも憚られたのよ。大体、婚約者同士ならば至極普通のことじゃないかしら」
「『普通の』婚約者ならね。マ、良いよ。続きは?」
「虱の卵を拾うような男ね……。そこでイヴァンが、ブルジョワ相手にサイドベットを始めたの。私は止めたわ。あれは聞かなかったけれど」
セラフィーヌは、噴水から跳ねた冷たい水滴が頬をかすめるのを無視して続ける。
彼女の視線は、中庭の芝生を横切る後輩士官生の足並みを追っているようでいて、その実、何も見てはいなかった。
「彼が何を賭けたと思う? 私たちの『未来』よ。……いいえ、正確には彼の御家ね。あの一帯のブルジョワ共が半世紀を費やしても稼げない金証を、まるで不要な紙屑でも放り出すようにテーブルにぶち撒けて彼は笑った。まるで狂気ね」
ノーエルの瞳が静かに輝く。
「……セラフィー、それって」
「ええ。イヴァンが敗北を喫していたら、アルドルド家は霧散していたに違いないわ。彼らの商会がいくら端金を積もうとも、所詮は子爵の器。病臥にある彼のお父様の……あの広大な大草原を切り売りする他なかったでしょうね。あの家に、他に語るべき価値などあったかしら?」
セラフィーヌの声は平坦だった。
「勝敗はどうでもいいのよ。——何故彼はあの額の金証をもって賭けに出れたの?」
ノーエルは珍しくすぐに口を開かなかった。遠くの喧騒と近くの水音が二人の間をゆるやかに流れる。
「……アルドルド子爵の病状が悪いのは、僕も耳にしてる」
やがて彼は言った。
「爵位も財産も、まだイヴァン・セルゲーヴィチ・アルドルドのものじゃない。後見人もいるなんて聞いたことない。あいつの親族で今まともに動ける奴なんて……」
「いないわ。本家筋は跡継ぎ争いで手が塞がっているし、傍流は元よりあの父君に疎まれていた」
ノーエルの指先が、何の気なしに軍服の袖口を撫でる。
「つまり、その金証は、」
「調達できる者が限られるということよ」
ノーエルは顎に手をあてた。しばらくの間、地面を革靴の爪先でとんとんと叩いていた。
「……君は、それが『イヴァンの金ではない』と言いたいんだな」
セラフィーヌは答えなかった。 かわりに、中庭の一点を見ていた目がわずかに伏せられた。
ノーエルが肩をすくめて緩慢とした動きで立ち上がり、回廊へ向かって歩き出した。
その背中が柱の影に消えるまで、セラフィーヌはその場を動かなかった。
噴水が水を吐き続けている。
中庭の芝生に、午後の陽が斜めになってきていた。
答えは二つしかない。 イヴァンが何らかの形で、単独でその金を手にしたか。 あるいは誰かが、彼に持たせたか。
セラフィーヌはそれだけが、ずっと引っかかっていた。




