第二幕 琥珀の閉塞感;あるいは焦燥
「どうもこのところ夜の空気が私を離さないようだ。少々、夜更かしの過ぎる遊びに興じるかもしれないが、君の寛大さに甘えてもいいだろうか? 戻ったときには埋め合わせに素敵な宝石やドレスの話をしよう」
数えで十八になる日、つまり二人が夫婦になる成人の年の三年前に、婚約者のイヴァン・セルゲーヴィチ・アルドルド子爵令息はそう言った。
場所は帝都の城下にほど近い子爵家のタウンハウス。流行り物好きのイヴァンがあつらえた東洋趣味の温室にて。
重厚な紅木で組まれた窓枠から、ウィステリアの花の狂おしいまでの饗宴を、どこか冷めた目で眺めていたセラフィーヌは、不味いgreen teaなる茶を啜った。
「三年なんてすぐだ……そうすれば君という広大な海に私は永住することになる。それまでの短い休暇のようなものさ。どうかな、セラフィーヌ」
男としての骨格が完成し、精悍な香りが最も完璧に匂い立つ、奇跡のような季節に彼はいた。
彫刻にも似た輪郭、陽光を浴びて輝くベージュブロンド、どこかしら幼さの残るはちみつ色の瞳。唇の端には常に紙一枚ほどの厚さの笑みが張り付いている。
セラフィーヌとて、彼にとって不足な女性ではない。
見事なブルネットは、令嬢にしては珍しく肩辺りで整えられてはいるものの、羽ばたく蝶を思わせるまつ毛に、おさまりのよい顎先はモダンで洗練された印象を与える。
そして緻密な刺繍、ビーズ、スパンコールが施された美しいイヴニングドレスに誰もが悟るのだ。彼女の背後には、何世代にわたって積み上げられた揺るぎない金貨の山があることを。
彼女は口を開く。
「どうぞ存分に。羽を伸ばすほど、渡り鳥はより南へ飛べると。そう言うわ」
彼女の視線は、ウィステリアの花から、イヴァンの喉元へと移った。
「ただ、イヴァン。『私』は、宝石もドレスも必要ないわ。富の香りに飢えたいじらしい方々への慰みに、どうか代わりに差し上げて」
◇
神聖王国ヴェルフォヴィア。その国が半世紀前の革命で帝国へと変貌して以来、国内では技術革新と権力動乱の時が続いていた。
魔導蒸気機関の咆哮はかつての王国頌歌をかき消し、煤煙に汚れぬ青空はいまや南方の植民地か、選ばれた貴族の庭園にしか残されていない。
新興官僚、市民会議、そして伝統貴族。
三つの歯車が不協和音を立てながら回るこの国において、政略結婚とは単なる家門の結合ではない。
それはどの勢力が次なる世代の「鍵」を握るかを決める、血の流れない戦争であった。
今その戦いの最前線は皮肉にも、甘い花の香りが満ちた温室の、冷え切った緑茶のカップが二つ並ぶテーブルにあった。
「舞踏会を抜け出して来て、する話がそれなの? 好みの令嬢でもいたようね」
ティーカップを指先で弾くようにして、セラフィーヌは言葉を継いだ。
「貴方がどの庭の蜜を吸おうと構わないけれど……せめて、我が家の格を落とさない程度の相手を選んでくださる。あまりに品位のない名が父上の耳に届けば、その綺麗な顔の乗る首が飛ぶことになるでしょうね」
「それは恐ろしい。有り難い忠告、恐縮する。それで——君はなんの用があって、こちらへ訪れたのだろう」
彼女は無造作に懐から一通の書簡を取り出した。チェニホフスキ家の家紋である、波と薊を象った封蝋が青と金に光っている。
「今月の末。新型炉心を積んだ超弩級戦艦の進水式が行われるの。将来的には兄上の艦になるわ。——父上が婚約者の貴方も、是非呼べと」
「ふうん? 開発のスピードを鑑みると、発表が幾分早過ぎるようにも思えるけど」
「あら、イヴァン。貴方は何もわかっていないわ。大学で工学を聞き齧った程度で我が家の軍の技術を推し量ろうとしないことね」
彼女の言葉は、まるで精密な刃物のようにイヴァンの自尊心を(彼女の主観では)切り刻んでいく。それは何かの八つ当たりをしているようにも見えた。
「わざわざ君が訪問して来たと思えば——それも夜に——たかだか招待状なんて下働きに持たせれば済む話だろう」
邸内から漏れ出す喧騒を背に、実質的な主人であるイヴァンはソファに深く腰を下ろした。
胸ポケットのシルクを整えるその指先には、この邸宅のダンス・ホールで行われていた舞踏会を抜け出してきたばかりの微かな熱が宿っている。
「それに、ドレスだなんて珍しいじゃないか。ふん、Petale de Soie の仕立てと見た。あのメゾンの職人は、女性をより贅沢に、美しくするジュエリーの配置を熟知しているね」
彼は悠然と足を組み直した。その仕草一つをとっても今日のセラフィーヌには非常に鼻に付く。
「……下働きに持たせる? ええ、そうね。私もそうしたかったわ」
態とらしく鼻を鳴らしたセラフィーヌがつんと横を向く。
温室の熱気に誘われたのか翅の大ぶりな蝶が彼女の白い肩に不躾にとまったが、彼女はそれを鬱陶しげな手つきで無造作に追い払った。
「けれど最近の貴方のあまりの素行の悪さに、父上が『直接顔を見て、その弛んだ精神を叩き直してこい』と仰ったのよ。……正直、私の貴重な時間を、貴方の寝言を聞くために割くのは苦痛でしかないのだけれど。ええ、本当に!」
最後の一句はもはや自分に言い聞かせているようだった。
彼女の脳裏では、昼間の士官学校での光景が未だに火花を散らしている。
士官学校三年生に上級するための試験。
静止した空気の中、聞こえるのは数表を捲る紙音と、鉛筆が紙を削る乾いた音だけ。
六分儀で切り取った星の高度を、球面三角法の数式へと流し込み現在位置を割り出して、敵艦までの目に見えぬ弾道を導き出す。
演算を終えた者から順に、教授へ解答を差し出し、正当ならば無言で教室を去っていく。
背後で誰かが立ち上がるたび、残された者の肩には遅れという名の重圧がのしかかる。最後の一人になる恐怖と戦いながら、それでも計算の精度を一点も落とせない。そんな試験だ。
そんな静謐な戦場においてさえも、セラフィーヌはいつだって「一番」でなければならなかった。
それが帝国軍の中枢を担うチェニホフスキ家の義務であり、彼女の誇りだったからだ。
だが今日、彼女の完璧なリズムを狂わせたのは、隣の席に座るノーエルディモーネの不敵な鉛筆の音だった。
静止した空気の中で、セラフィーヌとノーエルディモーネは、まるで鏡合わせのように同時に席を立った。
二人の靴音が教室に響き、教官の机に二枚の答案が置かれる。
セラフィーヌは確信していた。自分の導き出した弾道こそが、最も美しく、最も合理的な唯一の正解であると。だが教官の言葉はこうだった。
「……正解だ。ノーエルディモーネ。去っていい」
その一言が、セラフィーヌの耳には銃声よりも大きく響いた。直後、悪戯っぽく大きな瞳で彼女を見上げた校友。
「失礼します、教官閣下。——お先に失敬、主席殿」
ノーエルは立ち去り際、誰にも聞こえぬ小声でそれだけを囁いて教室を去った。
その泥臭い屈辱の味が今もセラフィーヌの喉元にこびりついている。
その身を焼く苛立ちを抱えたまま、嫌々ながら婚約者の舞踏会に顔を出せばどうだ。目の前の品性下劣な屑は、汗一つかかぬ顔で「夜遊びの休暇」などと抜かしている。
セラフィーヌはソファから立ち上がった。
「ええ、休暇。休暇ですって? 本気で仰っているのなら、おめでたい頭ですこと。馬鹿じゃないの、貴方。いえ馬鹿よね。知っていたわ。腑抜けた軟弱の貴族子弟が大学で『学問』の真似事なんて。笑わせないで。貴方が講義中に、今日令嬢に送る招待状の枚数を数えていた以外に何をしていたか、想像に難くないわ!」
言い切った。
言い切ってからセラフィーヌは眉を顰めた。
八つ当たりだとは分かっていた。だが、目の前のこの男を不条理なほどに殴りつけたい衝動が抑えられない。
「いいこと、イヴァン。進水式を目前に控えたあの新型戦艦が、なぜ理屈を超えた速度で竣工に至ったか。 その裏にある我が家の軍事力、その規模すら類推できない。貴方はその片鱗すら読み解こうとしない。そんな、想像力も知略も欠いた男がなぜ私の隣に立てるのよ?」
喉の奥から絞り出された叫びは、もはや海軍の誇りを象る鋼の百合の姿などではなかった。
なぜこの男は、何の努力も、何の理解もなく、自分の横を歩く権利を当然のように握っているのか。
そしてなぜ、自分はこの男の妻となり、帝国の最前線から引き摺り下ろされなければいけないのか。
「……私の隣がどれほど重いか、貴方は考えたこともないのでしょうね。楽しそうな人。この国の未来を、鋼の咆哮を、その双肩に乗せる覚悟すらない、ただの、ただの『お遊び』の人生を生きてる!」
セラフィーヌは、自分の叫びが酷く惨めな八つ当たりでしかないことを自覚していた。それでも、止まらなかった。
対するイヴァンは激情を浴びながらも、まるでウィステリアの花びらが肩に落ちた程度にしか感じていないかのように、ただ困った顔で微笑んでいる。
その「はちみつ色」の瞳の奥に、今の彼女が最も恐れる、憐れみにも似た静寂を湛えたままで。
「どうぞ、お好きなだけ夜更かしして、そのまま夜の海に沈んでしまえばいいわ。邪魔で重たい宝石なんて死体には必要ないものね」
彼女は吐き捨てるように言い放つと、もう一度だけ、イヴァンの喉元を食い破るような視線で睨みつけ、今度こそ、嵐のような足音を立てて温室を飛び出していった。
◇
ガタついた石畳を、現代最高技術の結晶である重厚なサスペンションが軽やかにいなしていく。シルバー・スペクターはその優雅な曲線美とは裏腹に、内部には軍用艦と同等の魔導機関が隠されている。
神殿の柱を思わせる垂直のラジエーターグリルが、夜の街灯を冷たく反射した。
チェニホフスキ家の家紋が扉に刻まれた真っ青の大型車両は、まるで夜の闇を切り裂く海獣だった。
革の匂いと微かなオイルの香りが、昂ぶったセラフィーヌの神経を冷たく撫でる。
彼女は深く腰掛け、窓外を流れる帝都の煤けた夜景を眺めていた。
(……最低)
握りしめた拳が、ドレスを無惨に歪ませる。
胸の奥に澱んでいるのは、イヴァンを一方的に罵倒し、サンドバッグにしてしまったことへの罪悪感ではなかった。
そのような高潔な感情は、今の彼女には残っていない。
彼女を苛んでいたのは、あのような品性下劣な男を相手に、あろうことか心の安らぎを見出してしまった自分への、猛烈なまでの嫌悪感だった。
父も、兄も、弟も、そしてあの忌々しいノーエルディモーネも。
彼女の周囲にいるのは、常に一寸の狂いも許さない研ぎ澄まされた刃のような男たちばかりだ。彼らの前では、セラフィーヌは常に「完璧な士官」であり、「非の打ち所がない軍門の娘」でいなければならない。
けれどイヴァンは違う。
彼は最初から期待する価値もなく、ただそこに転がっているだけの石ころだ。だからこそ、彼を相手にしている時だけは、自分もまた完璧である必要がない。
今日のような惨めな八つ当たりも、淑女にあるまじき絶叫も、彼という無能な器ならすべてを受け流してしまう。そんな錯覚に襲われてしまっていた。
あの温室で、はちみつ色の瞳に映し出された自分の「醜悪な余裕のなさ」が、何よりも彼女を深く傷つけていた。
やがて車はチェニホフスキ邸の車寄せに滑り込み、一糸乱れぬ動きでフットマンがステップを降ろした。
玄関前に待機していた家令が、完璧な角度で頭を垂れる。セラフィーヌはその慇懃な挨拶に視線すら合わせない。
「伯爵様とヨーゼフ様は幹部会議に出席予定でして、邸を開けておられます。夫人は——」
「結構」
言葉を遮り、彼女は家令の横をすり抜けようとして、ふと思い出したように足を止めた。
「……イヴァンのところへ、秘書官から謝罪文を送らせておいて。内容は今夜の非礼に対する謝罪を三行ほど書いてくれればいいわ。あとは……そうね、無難な詫びの品でも付けておきなさい」
「イヴァン様へ、でございますか? 贈り物の選定はいかがいたしましょう」
セラフィーヌは手袋を脱ぎかける動きを止めた。
「……どこか流行のコンフィズリーの、カタログで一番高いセットを送っておいて」
「承知しました」
家令の返事を聞き届けるより早く、彼女は背を向けた。
大理石の階段を昇るヒールの音だけが、静まり返ったホールに鋭く、規則正しく響き渡る。
二階の回廊に差し掛かったところで、彼女はふと、自身のドレスに目を落とした。イヴァンが「センスがいい」と評したジュエリーが、燭台の炎を反射して鈍く光っている。
士官学校の制服を身に付けている時よりも遙かに軽い布を纏っている。
彼女はわずかに顎先を上げ、誰に聞かせるでもなく、静かに独りごちた。
「三行ですら、書きすぎだったかもしれないわね」




