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第一幕 プロローグⅢ


士官たちの野太い校歌が最高潮に達しようとしたその時、フロアの端からまるで荒波を切り裂く砕氷船のような足音が響いた。


「貴様ら、そこまでにせんかッ」


現れたのは、士官たちが最も恐れる教導主任、バルカザール一大佐だった。

厳格な歩みに合わせ、胸元に並ぶいくつもの勲章が揺れる。その鋭い眼光だけで狂乱に近い合唱をピシャリと凍りつかせた。


バルカザールは背筋を凍らせるような沈黙を伴って、セラフィーヌと、その腕の中で宙に浮いているイヴァンの元へ歩み寄った。

彼はまず直立不動(の姿勢でイヴァンを抱えたまま)のセラフィーヌを厳しい目で見据える。


「セラフィーヌ主席。卒業の夜とはいえ、羽目を外しすぎだ。貴官のその強靭な腕は帝国の敵を屠るためのものであり、婚約者を弄ぶためのものではない」

「……その通りでございます。失礼いたしました、教官閣下」

セラフィーヌが短く答えるのと同時に、バルカザールの視線が吊り下げられた荷物状態のイヴァンへと移る。

バルカザールは深くため息をつくと、まるで見苦しいものを見るかのように頭に手を当てた。

「それから、イヴァン殿。我が校の卒業生が随分と野蛮な振る舞いをしてすまない」


イヴァンはセラフィーヌの強靭な腕に支えられたまま、あえて抵抗を一切やめたようだった。

むしろ、されるがままにうなじを預け、陶酔したような声を会場に響かせる。


「……ああ、そうだね。降参だよ、セラフィーヌとその友人諸君ら」


バルカザールが向けた軽蔑と同情の視線を彼は正面から受け止めた。

驚くべきことにその瞳には一滴の羞恥も、怒りも混じっていない。ただ、極上のワインを味わったあとのような、蕩けるような愉悦だけが揺れている。


「バルカザール閣下……お気遣い痛み入ります。ですが、謝罪など必要ありませんよ。この『帝国の牙』に喉元を噛み締められる快感は、学問しかしてこなかった私には少々刺激が強すぎたようだ」


彼はセラフィーヌの首元に回していた腕の力を、わざとらしく、しかし名残惜しそうに抜いていく。セラフィーヌが訝しげに彼を床へと着地させた瞬間、イヴァンは僅かに膝を折ってよろめいて見せた。


「……おっと。足が地につかないというのは、こういう気分を言うのだね。あまりに高い場所に連れて行かれたものだから」

彼は乱れた燕尾服の襟を、指先でなぞりながら整える。周囲の男どもによる失笑はまだ止まない。

だが、イヴァンがゆっくりと背筋を伸ばし、セラフィーヌとそしてバルカザールに向き合ったとき、その場の空気が変質した。


「教官殿、一点だけ訂正を。私はむしろ、これほどまでに熱烈な歓迎を受けたことに、感動すら覚えている」

イヴァンはセラフィーヌの頭頂を見下ろす。

「主席殿……。君の同輩たちが教えてくれたよ。君がどれほど誇り高く、どれほど愛されているか。そして……君のその愛おしい腕が、どれほど私の体に馴染むか。今夜のことは一生忘れない。文字通り、骨に刻まれたと表現しよう」


彼は懐から一点の汚れもないシルクのハンカチを取り出すと、先ほどセラフィーヌが触れた自分のまなじりを、執拗なまでに丁寧に拭った。


そのハンカチを彼が再び懐へ収めたその時、会場の奥——貴賓席の影から、ゆっくりとその人は姿を現した。


「——実に、帝国らしい光景だ」


その声は低いが、驚くほど会場を突き抜ける。


「皇帝陛下に、敬礼っ!!!!」

瞬間、バルカザール教官の叫びとともに、フロアにいた数百人の士官たちが一斉に拳を胸に叩きつける。先ほどまでイヴァンを嘲笑っていたノーエルたちの顔からも血の気が引き、会場は墓地のような静けさに包まれた。


夜会を支配したのは、軍靴が床を叩く乾いた音ではなく、ただそこに存在するだけで空気を重く沈める、絶対的な王者の気配だった。

貴賓席から歩み出たのは、帝国の頂点に君臨する若き皇帝——アレクセイ三世。

皇帝の視線は、直立不動の姿勢で固まるセラフィーヌを通り抜け、床に降り立ったばかりのイヴァンへと向けられる。


「アルドルド子爵。……手厚い洗礼を受けたようだな」


皇帝の言葉には、皮肉とも慈悲ともつかない、得体の知れない温度が宿っていた。

その場にいる誰もが、皇帝がこの悪ふざけとも取れる騒動を不敬と見なすのではないかと沈黙する。士官や教官ら軍人は敬礼を崩さず、来賓らはただ固唾を飲んで俯くばかりだ。


しかし、イヴァンは皇帝の前でさえも、その不敵な笑みを崩さなかった。

「はっ。身に余る光栄にございます、陛下」

イヴァンは優雅に深々とした一礼を捧げる。


皇帝アレクセイは、その様子をさして面白くもなさそうに一瞥すると、次はセラフィーヌへと視線を移した。皇帝は内面すべてを見透かそうとするかのように、彼女の青海原の瞳を覗き込んだ。


「セラフィーヌ・イワノヴナ・チェニホフスキ。貴卿の武勇は、平時においてもそのように発揮されるものか」

「滅相も、ございません」

セラフィーヌは感情を殺した声で応じた。

一方で自分の父親を目線だけで探す。


——いた。会場の最奥に位置する、闇に沈んだ特別席にチェニホフスキ辺境伯はいた。

彼は周囲の貴族たちのように皇帝の御前に膝を屈することもなく、彫刻の施された黒檀の椅子に深く背を預けている。

その大きな手には、琥珀色の液体が揺れるクリスタルグラス。天井から吊るされた巨大なシャンデリアが放つ、数千の魔法灯の灯火を反射し、グラスの中の氷がチリ、と硬い音を立てて微震する。

黄金の刺繍が施された重厚なカーテンの影から、蛇のような目で皇帝の背中を射抜いていた。

それを確認したセラフィーヌがどこか安堵した風に肩の力をわずかに抜く。


背後の重圧を知ってか知らずか皇帝は僅かに口角を上げた。


その顔立ちは、確かに東北諸島の彫りの深さを持っているが、甘さという隙は一切ない。

短く切り揃えられた髪は、帝国の版図を広げるための心労を物語るように、早くも銀が混じり、厳格に整えられた髭ががっしりとした顎のラインを強調している。年齢は三十五を数えたばかりだが、相貌には実年齢を遥かに超えた老成が滲み始めているようだった。


神聖ヴェルフォヴィア帝国皇帝、アレクセイ三世。

半世紀前の大動乱を経て、血の洗礼とともに玉座を掴み取った新王朝の三代目。その姿には先代たちが築き上げた「力による秩序」が現れていた。


皇帝が纏うのは、装飾を極限まで削ぎ落とした漆黒の軍服。

古き時代の王侯が好んだ金銀の刺繍や華美な飾りは一切ない。機能美を極めた裁断と、最高級だが光沢を抑えた重厚な生地。胸元に唯一輝くのは、帝国そのものを象徴する「黒鷲」を冠した大勲章のみである。

彼が歩みを進めるたびに、重厚な絨毯がその重みを吸い込む。


「我が帝国の牙は、どうも身内を噛むことでその鋭さを保っているようだな」


直立不動を貫くセラフィーヌの視界を、皇帝の軍服が冷ややかな残像だけを残して通り過ぎていく。

一度として、視線が交わることはなかった。

セラフィーヌの眉間に微かな不審の陰が差す。


帝国海軍閥の頂点に君臨するチェニホフスキ家の長女を、単なる一兵卒のごとく黙殺する——それは宮廷政治の天秤を無視した、あまりに不自然な振る舞いだった。

前王朝からの宿痾しゅくあとも言える旧臣筆頭のチェニホフスキと現王朝の確執は公然の秘密とはいえ、衆目環視のなかでこれほど露骨に軽んじることは、もはや宣戦布告に等しい非礼ではないのか。

無論、アレクセイ三世はそれほど愚鈍な男ではないはずだった。


ますますセラフィーヌの表情は暗くなる。

一団の波を左右へ割りながら硬い床を叩く、乾いた音。皇帝は、群衆が息を呑む中を、迷いのない足取りで天井桟敷に続く大階段へと進んでいく。

踊り場の中央で足を止めた彼は、欄干に手を置いた。外套が無駄のない曲線を描いた。

帝国の未来を担う若き士官たちの群れと、その周囲を濁った澱のように取り囲む退役将校や予備役提督が階下に広がる。

かつて旧王朝の終焉をその目で見届けた古参たちは、一様に純金の懐中時計を弄び、あるいは勲章の連なる胸を張りながら、あるいはインペリアル・ムスタッシュを撫で付けながら、皇帝の出方を値踏みしていた。


眼下に広がる濃密な沈黙を味わうように見渡した皇帝が、再び口を開く。


「——帝国海軍の誇り高き諸君、ならびにその礎を築かれた閣下ら」

アレクセイの声はホールの隅々にまで染み渡った。


「今宵我々は新たな牙の誕生を祝うために集まった。だが、朋輩を噛むほどに鋭いその野性……見ようによっては、一考の余地が生まれるものだな」


皇帝はそこで言葉を切り、セラフィーヌへと今度は明確な意図を持って視線を落とす。


「チェニホフスキ伯爵令嬢。貴卿の父、チェニホフスキ辺境伯には、私から直々に特注のヴィンテージを届けさせよう。帝国最強の盾に、これほど勇猛に、皇帝のイヴァンへと噛み付く後継者が現れたことを祝してな……やはり、陸の生き物は嫌いなのか?」


その言葉を聞いた瞬間、遠くの席で、辺境伯が持っていたクリスタルグラスの脚がついに耐えきれずにパキンと音を立てて折れた。


返答が浮かぶよりも先にセラフィーヌは振り向き、据わった目でイヴァンを睨みつける。

説明しなさい、この駄馬 と、口が動いたようにイヴァンには見えた。


単なる婚約者としてそこにいたはずのイヴァン・セルゲーヴィチ・アルドルド。

セラフィーヌの射抜くような殺気混じりの視線を受け、イヴァンは小さく笑った。燕尾服の袖口を優雅に整え、まるで演劇の幕間に観客ギャラリーへ語りかけるような、軽やかな、それでいてどこか憐憫を誘う微笑。


「おや、説明がいるのかい? せっかくの舞台に無粋な解説を求めるなんて主席殿、君のその輝かしい成績には、芸術の単位は含まれていなかったようだ」


セラフィーヌが何かを悟ったように、その完璧に整った唇をわずかに歪めた。イヴァンという男の裏側を透かし見たのか、彼女は、短く、鼻で笑った。


「……発言をお許しください、皇帝陛下。どうも誤解があるようです。私にとって、陸も海も、等しく『我々の国家』の版図の一部に過ぎません。噛み付いたのは、それが私の腕の中にあったからです。捕らえた獲物を検分するのは、軍人——ひいては、私ども『名門貴族』として当然の嗜みかと存じておりますが」


それはもはや明確な挑発だった。


皇帝の瞳の奥で、氷のような光がちろりと揺れる。意趣返しとしては、あまりに苛烈的で、あまりに傲岸不遜。皇帝にさえ侵せぬ聖域——血統と武力に裏打ちされた貴族階級の傲慢の表出だった。

戦火の余韻も消えぬ五十年前の動乱で玉座を掠め取った「新参者」の威光など、この帝国の深層に流れる古き血の法理ドグマの前では、あまりに浅く、脆い。


セラフィーヌが突きつけたのは皇帝への忠誠ではなく、その玉座そのものを見下ろす、海軍閥という巨大な岩盤の自負であった。


広間の空気が、じりじりと焦げ付くような緊張に包まれていく。

眼前で繰り広げられる行為の真意に気付いた将校たちが、一人、また一人と、深く被った軍帽のひさしの下から、深海のような昏い眼光を皇帝アレクセイへと投げかけた。


皇帝はそれをものともせず、心地よい夜風にでも当たるかのように平然と受け流す。


アレクセイは小さく頷き、慈悲深い神のごとき笑みを浮かべた。

「——なるほど。やはり、この部屋は少々潮の匂いが強すぎるようだ。好かんな」


皇帝の声は、先ほどよりもさらに一段低く、しかしホールの最奥で控える辺境伯の鼓膜を直接震わせるほどに響き渡った。


「諸君。帝国は今、一振りの巨大な剣になろうとしている。陸も海も、民草も軍閥も……私に握られるための『つか』に過ぎない。古い皮袋に、新しい酒を注ぎ続ける時代は終わりを迎えたのだ」


皇帝は欄干を叩き、階下の海軍の面々を、あるいは帝国の過去そのものを見下ろした。


「本日をもって、海軍省海軍司令部の独立権限を廃し、統合参謀本部の直轄とする。……そして、チェニホフスキ辺境伯。貴卿ら一族が長年慈しんできた『北方魔導艦隊』は、本日この時を以て解体——装甲の一部を剥ぎ、帝都防衛を担う陸上重砲兵連隊へと再編を命ずる」


会場のどこからか、悲鳴にも似た喘ぎが漏れた。

海軍の象徴であり、チェニホフスキ家の私兵も同然であった北方魔導艦隊の解体。

それは、荒波を駆ける軍艦から大砲を引き剥がし、皇帝の足元で動かぬ置物にするというこれ以上ない屈辱的な処刑宣告だった。


その時会場の最奥、暗い幕の内側に鎮座する影が放った、地を這うような低音が響く。

「——アレクセイ陛下。その沙汰、いかなる権限を以て下されたものか」

声の主であるチェニホフスキ辺境伯の姿は、もはや紅鵞絨ビロードの垂れ幕の影に埋没し、セラフィーヌの位置からはその顔色を窺い知ることはできない。

ただ、彼の足元で魔法灯の光を反射して琥珀色に輝くグラスの破片と、闇の中で不気味に赤く光る葉巻の先だけが、老いた怪物の存在をかろうじて示していた。


その声には、怒りさえ超越した虚無的な響きが宿っている。

「海軍の統帥権は、三世紀と十八年前の建国憲章に基づく大洋委託令により、我ら辺境伯家が永劫に委託されたはずのもの。たかだか半世紀前に卒爾として産声をあげた新王朝の、それも机上の空論を弄ぶばかりの若造が、紙切れ一枚で海を干上がらせる権利など……この帝国のどこに記されているというのだ?」

辺境伯の言葉は、言葉というよりは呪詛のようであった。

セラフィーヌは父が座る闇を見つめた。


「父上……」

セラフィーヌの掠れた声に被せるように、例の甘い響きを帯びた声が鼓膜を打った。

「不安なのかい? セラフィーヌ」

声の主は、今まで沈黙を守っていたイヴァン。


彼はいつの間にか彼女の傍らを離れ、ゆったりとした、しかし確かな足取りでフロアの中央へと進み出ていた。


「おや辺境伯閣下。『委託令』とはまた、いささか古風な言葉を持ち出されたものですね。まだ伝書鳩や手書きの台帳を使っていた大昔……三百年前の、たかが羊皮紙に縋らねばならないほど、海軍閥の足元は脆くなっていたとは」


イヴァンはジャケットの襟を正した。


「陛下が今宵振るわれるのは形骸化した権力ではありません。……それは、帝国新刑法第十二条。『国家叛逆罪』および『隣国への軍事機密漏洩』に基づく、正当な裁きでございます」


その言葉が放たれた瞬間、ホールの温度が一気に氷点下まで叩き落とされる。

辺境伯も、セラフィーヌも、おしのように口をつむるばかりだ。


イヴァンはポケットから見覚えのある金の小さな鍵を取り出し、指先で弄んだ。

それは辺境伯が肌身離さず持っていたはずの、書斎の奥にある「特製蓄音機」の起動鍵だった。

「……口だけは貴方、威勢が良いけど、とんだ鼠族そぞくのようね」

セラフィーヌの喉から罵倒が漏れる。

その瞳には、婚約者への軽蔑以上の、己の聖域を土足で荒らされたことへの剥き出しの殺意が宿っていた。


イヴァンは侮蔑を浴びてなお、うっとりとした表情でその金の鍵を唇に寄せる。

「辺境伯閣下……。閣下は隣国の潜水艦隊司令と密談を重ねる際、自らの声を記録し、作戦の齟齬を極端に嫌われましたね。——時代遅れの完璧主義者は時に、死よりも残酷な毒となります」


イヴァンが片手をひらりと上げると、踊り場の影から、巨大な朝顔型のラッパを備えた旧式の蓄音機が運び込まれた。


「閣下は部下との密談を終えるたびに、この円盤を粉々に砕いておられた様子。しかし残念ながら魔導技術の発達は今や、粉々に砕かれた物質から『過去に受けた空気の振動』を逆算して音を完全に復元する領域にまで達しています。閣下の用心深さは数十年前なら完璧な正義であったでしょうが……今の魔導工学は、死者の沈黙さえも裏切る」


針が落とされ、砂嵐のようなノイズが走った。

闇の中で葉巻の先端から、一筋の灰が力なく剥落したのを、セラフィーヌは見た。


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