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第一幕 プロローグⅡ



海は好きだ。

大波は私を避けない。私が桿を傾ければ、逃しはしまいと船体に喰らい付く重力感。あの重たさが心に脳に身に染み付いている。




夜も深まり、波の静まった外港に揺蕩うアイアン・グレイス号は穏やかに上下していた。

突如訪れる浮遊感に慣れぬのか、一人の令嬢がバランスを崩して倒れかける。そこに二つの腕が伸びた。

令嬢が「あっ」と短く声を上げたとき、その身体を支えたのは、硬軟あわせ持つ二つの対照的な力だった。


「——おっと」

短く、ハスキーな声音。

セラフィーヌは左腕に抱えた山のような花束をいささかも乱すことなく、空いていた右手を迷いなく伸ばした。白い手袋に包まれた掌が、令嬢の肩を正確かつ優雅に確保する。


左腰に下げた正剣の鞘が、微かに彼女の脚を叩いて音を立てる。肩章のフリンジが一拍遅れてきらめき、彼女の肩口で美しく弧を描く。

令嬢が顔を上げると、目の前には、春の庭園をまるごと腕に閉じ込めたような花束が迫っていた。


「……気を付けて。女性のヒールには、船の揺れは躓き易いでしょうから」

花の陰から覗くブルネットは肩辺りで整えられており、小馬を思わせる柔らかな房を成したまつ毛は、頬に濃い陰影を落としている。

軍人としての義務感、あるいは弱きを守る騎士のようなその佇まいに、助けられた令嬢は頬を染めて吐息を漏らした。

「あ、ありがとうございます、少尉殿」


しかし、令嬢の腰に回されたもう一つの腕——イヴァンのそれは、セラフィーヌの救助とは全く質が異なった。

「大丈夫かい?……アイアン・グレイス嬢は嫉妬深いから、君のような美しい薔薇がいるとわざとこうして足元を掬いたがるみたい」

イヴァンの声は令嬢の耳元でとろけるように響いた。


彫刻にも似た輪郭、緩やかに波打つベージュブロンドの髪から覗く、吸い込まれるほどに滑らかな肌。そして何より、見る者を惑わさずにはおかない、あのはちみつ色の瞳だ。

セラフィーヌと令嬢の隙間に滑り込むようにして自分の存在をねじ込む。イヴァンは令嬢の腰を抱き寄せたまま、彼女の瞳を至近距離で見つめた。

「もし心臓の鼓動が早まっているなら、それは船酔いではなく……僕の不徳の致すところだね」

彼は令嬢の震える脈拍を、指先で愛撫するように確かめる。


セラフィーヌが放つ眩い正義の光とは正反対の、森の奥深くで咲く毒花のような、抗いがたい退廃的な引力。助けられた令嬢は、白銀の騎士に見惚れたあと、この甘い沼に絡め取られたように立ち尽くした。

直後、

「イヴァン」

セラフィーヌが令嬢の細い手首を包むイヴァンの手を叩き落とす。

パシン、と小気味良い音が響いた。


「その手。女性に断りもなく触れるのは、アルドルド家に伝わる作法のようね。みっともない」


打ち払われたはずの手を、イヴァンは痛がる風もなく、むしろ名残惜しそうに空中で握り込んで見せる。

彼はゆらりと、少し屈めていた背を伸ばす。

見上げるほどの高い背。

燕尾服の下に隠された四肢は驚くほど長く、その一挙手一投足は、獲物を追いつめる猛獣のようなしなやかさを湛えている。


「やれやれ。教育係ガバネス殿は相変わらずだ。私はただ、君が支えきれなかった分の『不安』を埋めてあげただけだよセラフィーヌ」

イヴァンはふっと口角を上げると、令嬢に向かってウインクをした。片眉を吊り上げるセラフィーヌ。令嬢はそそくさと去っていった。


「貴方の為のパーティーではないというのに、随分と楽しんでくれているようね。周りの者を驚かせていないといいけれど」

セラフィーヌが吐き捨てると、イヴァンはますます楽しそうに目を細めた。彼は今度は真っ直ぐにセラフィーヌを射抜く。


「愛する婚約者の卒業パーティーなんだ。はしゃいでしまって何が悪いだろう」

「その割には、視線が私ではなく観客ギャラリーへばかり向いているようね。はしゃいでいるのではなく、獲物を物色する猟犬の目だわ」

セラフィーヌは冷ややかな声を響かせ、腕の中の花束を抱え直した。

「美しい華でもまた見つけたのかしら? 生憎、今宵一夜限りの運命になるとは思うけれど」

「華ならもう見つけたさ」


イヴァンは一歩、彼女との距離を詰めた。

見上げるほどに高い身長が、月の光を背負ってセラフィーヌを覆い隠すような長い影を作る。至近距離で覗き込まれるはちみつ色の瞳には、熱烈な愛などひとかけらも宿っていない。


「僕が今夜、この会場で一番美しいと思った華は……」

イヴァンは細く長い指先を伸ばすと、彼女が抱える花束ではなく、セラフィーヌの頬にかかった髪を慣れた手つきでそっと掬い上げた。

言わんとすることを察したセラフィーヌは被りを振って制する。

「聞きたくないわ。どうせ耳障りの悪いことでしょう、いつも通りの貴方らしくね」

つまらなそうに目を伏せたイヴァンはため息を吐く。

「全く、この華は棘だらけだ」


下士官の装備点検でもするように情け容赦ない視線で彼の姿をから下まで睨め付けるセラフィーヌ。

「伝えた通りに着替えてくれて嬉しいわ。貴方にしては、随分と従順なこと」

嫌味たっぷりに言い放つ。

「君の方も。まあ、ドレスは着てこないだろうとは思っていたが……まるで男装の麗人だね。美しい」


燕尾服の仕立てから、わずかな着崩れも許さないカフスの角度、そしてその長身を最も美しく見せるシルエットに至るまで。

彼女が事前に「チェニホフスキの品位を貶めるな」と釘を刺した通りの格好を、イヴァンは忠実に、そして鼻につくほど優雅に着こなしてみせていた。


「あの薊の刺繍が入ったコートは、今回しか着れないだろうと思ったんだがね。悲しいよ。今後はもう、ワードローブの奥で二度と日を浴びることはない」

セラフィーヌは目を細める。

「……やっと常識を知ってきたという所かしら」


そのとき、楽団の指揮棒が夜の静寂を切り裂き、シュトラウスを彷彿とさせる、華やかで回転の速いワルツの旋律が辺りを駆け抜けた。

奏でられるのは、帝国の祝祭には欠かせない、絢爛豪華な『エトワールのワルツ』。

「——おや。主役を戦場へ引き摺り出す合図が始まったようだよ」


イヴァンは、先ほどまでの昏い熱をスッと引き込ませ、芝居がかった仕草で片腕を差し出す。

「嘘でしょう? まさかとは思うけど、踊るつもりなの」

彼女が鼻で笑う。

「どうしたんだい。君ほどの女性がこの夜のメインプログラムを忘れていたなんて言わせないよ」

拒絶する彼女を逃がさないように差し出された大きな掌が、月の光を受けて白く、不気味なほど安定して差し出されている。

「見てわからない? ドレスじゃないの」

「それがどうした。君が軍服を脱ぐ場所なんて、私の寝室以外に必要ないだろう」

イヴァンは臆面もなく、とんでもない不敬をさらりと言い放った。彼は差し出した手を引っ込めるどころか、セラフィーヌが腰に下げた正剣の柄にわざとらしく視線を落とす。


「その重たい鉄をぶら下げたまま、羽が生えたように舞ってみせてくれ。……それとも、チェニホフスキの英才教育には、ダンスの歩法ステップは含まれていなかったかな?」


挑発だ。それも、セラフィーヌが最も無視できない「家への疑義」という形の。


「煽っているつもりなら無謀な試みね」


セラフィーヌは氷のような微笑を浮かべると、抱えていた花束を従卒へと押しつけた。

両手の自由が確保される。

彼女は軍服の襟元を一度だけ正すと、イヴァンの大きな掌に、自らの白い手袋を叩きつけるように重ねた。

「いいでしょう。貴方のその立派な革靴が私の軍靴に踏み抜かれないことを祈っているわ」



優雅な弦楽器の裏側で、ティンパニが心臓の鼓動を急かすように低く、重く響き渡る。


イヴァンのリードは完璧だった。彼は帯剣による重心のズレすらも計算に入れ、滑らかに、かつ挑戦的な近さで彼女を操る。


「前よりも上手くなったんじゃない? 会わない間、密かに特訓でも付けてもらっていたのかしら、子爵様」

「あいにく、特訓を受けるのは『ベッドの上』か『チェス盤の前』と決めていてね」

イヴァンが甘い吐息のような声で返す。須臾の間、セラフィーヌの顔にぞっとした表情が浮かぶのを見て、何が嬉しいのかほくそ笑む。


その間も音楽の熱量は増していく。金管楽器が帝国の威光を誇るファンファーレを奏でる中、数台のハープが同時に指先で弦を掻き上げるグリッサンドが、何層もの光の帯となって降り注ぐ。

あまりにも美しく、陶酔を誘う音の洪水。


「今日の君は、やけに苛烈的サディスティックだ。嫌いじゃないよ」


そしてコントラバスの太い四本の弦が、ワルツの規律を嘲笑うようにうねり始めた。

指先で弦を力強く弾き、あえて拍を遅らせる——ジャズ的な「溜め」を含んだその低音は、規律正しい3拍子の隙間に忍び込む。ハープが波飛沫なら、このコントラバスのピチカートは、船底を叩きつける暗い潮流だ。

セラフィーヌが違和感を覚えた瞬間、イヴァンは彼女の腰を引き寄せ、あえて強烈なシンコペーションに合わせてステップを加速させた。


「……あまり触らないでくれる」

「どうして? 一週間後には、私たちは夫婦となるのだから。あるいは、それを先伸ばす為に君は態々(わざわざ)士官学校へ入学したのだっけ」

「貴方のせいではないから、二度と不快な勘違いをしないで。"私"が海軍士官になることは、生まれた時から決定してたのだから」

「——殊勝な気遣いだ。君のそういう鉄のような意志が、私をどれほど昂ぶらせるか、自覚はあるのかい?」

言葉とは裏腹に、突き放すような目線で彼女を見やる。


「ええ。嗜虐的な性格でかつモラルの欠如した、薄汚い犬が興奮することには詳しいつもりよ……ほら、足元に気を付けなさいよ」

「おっと——」

イヴァンの足元が、セラフィーヌの鋭い踏み込みによって僅かに揺らぐ。

しかし彼は、獲物を追い詰める悦びに瞳を輝かせ、さらに強引に彼女の懐へと潜り込んだ。

「手厳しい。だが、その薄汚い犬を飼い慣らすのも、将来の夫人の務めだとは思わないかい?」


地を這うようなコントラバスの重低音が、いよいよワルツの表拍を食い破り始めた。ハープが奏でる「帝国の理想」を、ウッドベースの肉厚なピチカートが引き摺り下ろしていく。テンポが上がる。


女にしては大分背の高いセラフィーヌ。すらりとした四肢を包むその軍服は、彼女の強靭でしなやかな肉体美を、一分の無駄もなく、完璧なシルエットとしてフロアに刻んでいた。

二人がフロアの中央で重なり合った瞬間、それは一輪の薔薇が夜の闇に咲いたかのような、完成された美しさがあった。


その刹那、フロアの周囲を取り囲んでいた来賓の令嬢たちから、一斉に溜息が漏れた。

二人が描く完璧な放物線は、彼女たちにとって、触れることすら叶わない御伽噺の夢そのものであった。言うなれば、王子と姫……否、王子と騎士の。


一方、端に固まっていたセラフィーヌの同輩たちは、その光景に、苦笑いを浮かべざるを得なかった。彼女がこの六年間、どれほど厳しい訓練を耐え抜き、他を寄せ付けない圧倒的な実力を築いてきたかを彼らは痛いほど知っている。


「(あのアルドルド家の放蕩息子に、あんな風に抱きかかえられているなんて……)」

彼らにとって、それは何とも言えない複雑な気恥ずかしさを伴う、奇妙な光景であった。


金管楽器の咆哮が最高潮に達し、ティンパニが断罪の審判を下すように激しく打ち鳴らされる。

セラフィーヌは口角だけで笑った。

イヴァンの力を自身の軸に一点集中させたのだった。

次の瞬間、彼女の軍靴のヒールが、物理的な衝撃を伴ってフロアの床板を抉るように踏み抜いた。それは狂い始めたオーケストラを強制停止させ、彼の傲慢なシナリオを真っ二つに叩き割るための一撃。


「イヴァン、茶番は終わりにしましょう」

一瞬の静寂。

直後、誰もが予想だにしなかった光景がフロアの中央に現出した。

バランスを崩したイヴァンの足元を正剣の鞘が掬う。セラフィーヌは重心を失い宙に浮いた彼の体躯を強靭な右腕一本で強引に引き止めた。左手は彼の背をしっかりと支え、膝を深く沈めてその重量を完全に支配し切っている。

燕尾服の裾が不格好に舞い、はちみつ色の瞳が初めて驚愕に丸く見開かれた。


周囲の令嬢たちから、悲鳴にも似た溜息が漏れる。

月の光を背負い、軍服の襟元を正しながら「お姫様」のようにイヴァンを支え切る彼女の姿が、あまりにも倒錯した光景だったから。


「大丈夫かしら、イヴァン? ……私の正剣は嫉妬深いから。貴方のような浅ましい『犬』がいると、わざとこうして足元を掬いたがるみたい」


掴み止めたイヴァンの左腕を自らの首元に掛けさせると、まるで駄目な飼い犬を可愛がるかのように、イヴァンのまなじりを親指で撫で、そして勝利の冷笑を顔に浮かべた。


耳元でそっと囁く。

「もし心臓の鼓動が早まっているなら、それは船酔いではなく……私の不徳の致すところでしょうね」


静まりかえるダンスホール。


「ヒューッ!」

静寂を切り裂いたのは、高く、無遠慮な音だった。

それは帝国海軍士官学校の厳しい訓練兵舎で、誰かが実習中に見事な手際を見せた時に鳴らされる、野郎どもの「最高級の敬意」を込めた口笛だ。

ノーエルディモーネは隣で「なんて無作法な……」と頬を膨らませて睨みつけてくる自分の婚約者の視線なんてどこ吹く風で、乾いた拍手を大きく叩いた。


ノーエルを一瞥したセラフィーヌは、慣れないウィンクを飛ばす。

これを皮切りに、「士官学校ノリ」の箍は外れた。

「おいおい、主席!そんなに強く抱いちゃ、その貴公子様が壊れちまうぞっ」


ノーエルのひと言に、壁際を固めていた制服組がもう我慢ならんとばかりに一斉に声を上げ始める。


「そうだぞセラフィーヌ! その軟弱な婚約者、明日からの地獄の遠泳実習に連れてこい! 鍛え直してやろうか!?」

「イヴァン殿ーッ、 主席の腕枕の心地はどうだ? 帝国の軍費の半分は、その腕の筋肉を育てるために費やされたんだ、光栄に思えよォーーッ」

「 チェニホフスキの猛将が、アルドルドの孔雀を仕留めたぞ! 全員、道を開けろ! 主席の凱旋だァーーっ!」


格式高いワルツは、もはや野郎どもの怒号とリズムに合わせた足踏み——軍靴が床を鳴らす重低音——にかき消されていく。

彼らは示し合わせたように一歩前へ踏み出した。

「お前ら、主席の門出だ。アレやるぞ!」

「帝国海軍士官学校、校歌斉唱!」

誰かが指揮を執るまでもなく、野太い合唱が天井を震わせる。

ワルツの優雅な旋律を力技で叩き潰すような、拳を突き上げ、肩を組み合う男たちの咆哮。

「——♪ あーあ、荒ぶる海を、我が友として……!」


着飾った令嬢たちが婚約者の男臭い雑言に耳を塞ぎ、顔をしかめる中で、セラフィーヌだけはイヴァンを支え切ったまま、涼しい顔でその喧騒を受けて立っている。




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