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第一幕 プロローグ



環星歴3379年某日。

ring-cycleの中で最も満潮とプリズムリングが接近する日こそが、砕光祭さいこうさいその日である。

海の女神の抱擁を讃え、例年に倣って帝国海軍士官学校の卒業式は幕を上げていた。


帝都の外港・第一ドックには強い汐風が吹く。

八十七期生等は皆、ダブルブレストのロングジャケットに身を包み、帝国の紋章と士官学校のエムブレムが刻まれた金色のブローチを立ち襟に飾っていた。

豪華な肩章エポレットは科類ごとにカラーが異なる。セラフィーヌ含む花形の魔道蒸気戦術科は、誇り高い面立ちでコバルトブルーを肩に靡かせていた。その完璧な制服姿はまさに帝国の未来を担うエリート、海軍少尉そのものだ。


見上げるほどのクレーンが唸りを上げ、空は例の如く工場地帯から吐き出される黒煙に覆われていた。その煤けた空気の奥で、海だけが鈍色に光っている。


「最悪と呼んでもいいフィールドだと思わないか?」


セラフィーヌは横目だけで隣を見た。

無造作な黒髪が額にかかる、悪戯っぽい顔で前歯を見せた青年。右の口角を上げて不敵な笑みを浮かべた。ニカっ。とでもいう擬音が相応しいのじゃないか。


「流石の首席も、最後の演習じゃどうだか分からないだろうね」


風に弄ばれる髪を気にせず、セラフィーヌは鼻で笑った。

「ノーエルディモーネ、冗談のつもり? 我が一族の家訓に『不確定要素』という言葉は、残念だけどないのよ」

彼女が静かに前を見据えると、第一ドックの巨大な防波堤がゆっくりと開いた。


砕光祭の日にふさわしい、狂おしいほどに複雑な潮の干満がドック内に渦を巻いていた。


「これより、最終機動演習——『針の穴通し』を開始する!」

教官の号令が、ホイッスルの絶叫と海軍音楽隊が奏でる帝国歌とともに港に響き渡る。途端に港の空気は震え始めた。

やがて肩にコバルトブルーを靡かせた隊列が一斉に行進を始める。

そう。魔道蒸気戦術科による、全長わずか七メートル、鋼鉄の骨格にキャンバスを張った華奢で狂暴なトルペートボートの操作演習が、今日この荒波の中行われる。これを持って八十七期生110人は卒業となるのだった。


桟橋に接舷された十四隻のトルペートボートが一斉に主機の明かりを灯す。

マナ触媒によって一気に加熱された超高圧蒸気が、安全弁から白い悲鳴となって吹き出した。まるでこれから始まる死闘を予感して武者震いしているかのようだ。


「計算通りにいかないのが海だ、って教官は口酸っぱくして言ってた気がするけど!」


ノーエルディモーネは真白いスラックスに通した長い足を軽やかに伸ばして、自分の艇へと飛び移り声を張った。

士官学校の平均的な男子より一回り小さく、セラフィーヌとさして変わらない体躯の彼は、その小柄を活かしたボート捌きが得意だった。


「でもその『不確定要素』をねじ伏せるのが、僕たちの仕事だって言うんだろ? 首席」


「いいえ。ねじ伏せるのではないわ。ノーエル」

彼女は軍人らしい峻烈な動きで自分の艇の舵輪を握った。

彼女の指先が計器盤の真鍮レバーを撫でる。


「飼い慣らすのよ」


第一ドックの外側、防波堤を越えた先には、砕光祭の狂った潮位がこの日にだけ作り出す大渦潮が口を開けて待っている。

例えば通常の漁師などによる操舵では、鋼鉄の骨格など数秒で磨り潰されるだろう。


「全艇、微速前進スロー・アヘッド!」

教官の叫びと共に、水面が爆発した。

黒煙と蒸気の混じり合った濁流の中を、コバルトブルーの意志が突き進む。


セラフィーヌは荒れ狂う潮の音の中に、ある旋律を聞いていた。

プリズムリングが引き起こす磁場に乱れる大波の音と、ボイラーの振動。それが完璧に調和する一瞬の隙間。

彼女はメーターの針が臨界を指すのを確認すると、迷わず最大戦速のレバーを叩き込んだ。


(父上、母上、我が先祖よ——どうか見ていて下さい。私が……)


白い波紋が、鈍色の海を冷酷に切り裂いていく。

それは卒業という名の旅立ちではなく、帝国という巨大な機関そのものに、ある歯車が異質な回転をかけた始まりに過ぎなかった。



演習を終え、第一ドックに再び接舷した白い水雷艇を迎えたのは、魔道蒸気戦術科以外の卒業生と教官達の弾けるような拍手であった。

張り詰めていた空気が緩み、セラフィーヌは少しも乱れぬ制帽を取った。ブルネットの短い髪が溢れでる。


「……あーあ。最後まで君には走り勝てなかった」


何拍か遅れて同様に艇から降りて、大袈裟に口を突き出しながら歩み寄ってきたノーエル。

令嬢らしからぬ仕草で髪をかき上げるセラフィーヌがどこか茶目っ気のある様子で彼を見る。


「ええ。最後まで首席の座は譲り渡さないと決めていたもの」

「ハッ。令嬢は如何にもこうにも負けず嫌いで困るや。三年生の上級試験の思い出がそんなに悔しいかい?」

「どうかしら、むしろ悔しがっているのは貴方のほうじゃない。そのたった一日しか一番になれなかったのだから」

「そりゃあの日だけは海の女神が僕にウィンクしてくれたんだよ。首席様がエンジンの出力計算をコンマ数秒ミスるなんて後にも先にもあの日だけだったから」


ノーエルは豪快に笑って、フルビスポークのタイト仕上げでむしろ窮屈になったジャケットを脱ぎ、脇に抱えた。

ドックを吹き抜ける汐風が、二人のコバルトブルーの肩章を優雅に揺らす。


「さあ着替えようぜ。この後は地獄の『卒業記念夜会』だ。……僕の婚約者様も新しいドレスをこの日の為に下ろすのだと、とっても姦し……いや、はしゃいでいたんだ」

「可愛らしいことね」


そう返すセラフィーヌの声音には、嫌味ではなく、純粋な、あるいは少しだけ遠いものを見るような響きがあった。


「セラフィ、子爵も今宵は訪れるのかな」

「そう聞いてるけど? ほら、あそこ。見てみなさいよ……」


ややげんなりとした表情を、珍しく表に出したセラフィーヌは視線だけある場所に向けた。それを追ってノーエルも興味津々に目を向ける。


人混みの向こう側で、一人だけ時間の流れが止まっているかのように静止している男がいた。


「わあ。まるで彼が今日の主人公か、ってくらいのスタイルだな。マ、それもいつも通りだけど」


深い濃紺のフロックコートは、ウエストを極限まで絞り込んだ見事な砂時計のシルエットを描いている。胸元には、複雑に結び上げられたシルクのアスコット・タイ。そこに、見たこともない大粒の蛋白石オパールのピンが刺さっている。

さらには、イヴァンのフロックコートの袖口、あるいはベストのラペルの端に、極細の銀糸で施された波を分かつあざみの刺繍が躍っていた。チェニホフスキ家の家紋であるその模様は、特注の意匠だろうか。


「わざわざ今期最新のモデルで。彼って凝り性なのよね、呆れるほど」


セラフィーヌは、その贅を尽くした刺繍を、まるで出来の悪い設計図を見るような目で見た。


「関心するなぁ。流石社交界一の伊達男。以前よりダンディーさに磨きがかかったと見える」

「茶化すのはよして。恥ずかしい」

「恥ずかしいだなんてもったいない。あれだけ堂々と君の家の紋章を背負って歩ける男なんて、帝国広しといえども彼くらいなものだよ」


ノーエルは面白そうに肩を揺らしたが、彼女は眉間の皺を深くしただけだった。


彼女にとってチェニホフスキの「白薊」は、荒波に耐え、外敵を峻拒する孤高の象徴だ。それをあんな風に、最新流行のフロックコートの飾りとして見せびらかされるのは、ひどく居心地の悪さがあった。


「父上が見たら何と言うかしら……彼の恥体が耳に届く度に叱咤を受けるのは私なのだけど」

「君んちは手厳しいからねぇ。でもほら、その男前様が、こちらに気づいたみたいだぜ」


ノーエルの言葉に顔を上げると、人混みの向こうでイヴァンがゆっくりとこちらを向いた。

彼は、手にしていたステッキを軽く掲げ、はちみつ色の瞳を細めて、まるでロマンス映画の俳優みたいにぬるい笑みを綻ばせる。


「……最悪ね。ノーエル、貴方は先に着替えに行きなさい。これ以上、次席殿の品位をあの男の毒気に当てたくないわ」

「了解、了解。じゃあな少尉。夜会では、薊の棘で子爵を八つ裂きにでもしてやるんだな」


ノーエルが軽やかな足取りで去っていくのと入れ替わりに、セラフィーヌは軍靴の踵をわざとらしく鳴らしてイヴァンの元へと向かった。


彼に近づくほど、白檀サンダルウッドのオリエンタルなフレグランスの香りが漂う。


イヴァン・セルゲーヴィチ・アルドルド子爵。

父親が一昨年に亡くなると、順当に相続権を得た長子の彼は子爵位を継ぎ、事実上のアルドルド家当主となった。だというのに、彼は爵位に見合う「分相応な慎み」というのを忘れたままでいるようだった。


まずもって、その度し難いほどの新しい物好きである。

帝都の港に珍しい外国製の魔導蒸気機関が届けられたと聞けば、翌日には自宅の書斎奥にあるコレクション・ルームの一員に加え、大学で未発表の数式が論じられれば、内容も理解せぬうちから社交クラブにて男どもとインテリゲンツィア気取りで語り合う。あるいは、最新の天文学で発見されたばかりの星の軌道図を、次の夜会には刺繍の図案としてベストに刺させて現れる、など。


そして何より、その節操のない女好きである。

美しさに貴賎はないと嘯き、名門の令嬢から新興の舞台女優、さらには港の酒場で働く勝ち気な看板娘にまで、見境なく甘い言葉を振りまいては浮名を流している。彼にとって「愛」とは一生を賭して誓うものではなく、その日の気分で付け替えるカフスボタン程度の軽さで扱われるものだった。


これほどまでに軽薄で、信念の欠片も感じられない男が、あろうことか帝国海軍の重鎮たるチェニホフスキ辺境伯家長女の婚約者の座に収まっている。

その事実こそが、セラフィーヌにとっては、演習でのどんな計算ミスよりも解せぬ、人生最大の設計不備であった。


もちろん、イヴァンの家に嫁げば海軍へは二度と戻ることができない。地位は「名誉職」へと格上げされるかもしれないが、それは事実上の追放だ。前線で戦艦の咆哮を聞くことはなくなる。

セラフィーヌにとって、その未来は死に相当した。


「数ヶ月ぶりねイヴァン。と言っても、貴方の話題が上がらぬ日など無かったのだけど」


「……おや、それは光栄だ。私が不在の間、その話が君の孤独を埋めていたというのなら、これほど嬉しいことはないよ。因みに、どんな話だったか聞いても?」


イヴァンは、まるで舞台役者がカーテンコールに応えるような軽やかさで、手にしたステッキを軽く回した。フレグランスが汐風を無遠慮に上書きしていく。


「今度はどこの劇団の踊り子を口説き落としただとか、どこの商会が持ち込んだ怪しげな動力源に大金を投じたとか。そういう、極めて低俗で、且つ実のない話ばかりでした」


セラフィーヌが細目でイヴァンの足元から頭のてっぺんまでを見据えると、彼は苦笑する。

「はは、そりゃ酷い! だがね、実のない話ほど、この退屈な世界を彩るには適しているんだよ、セラフィーヌ。……君の言う『実のある話題』、つまり新型ボイラーの圧縮比だの、魔導回路のバイパス効率だのをサロンに持ち込んでごらん? 淑女たちは退屈で卒倒し、紳士たちは自分の頭がブリキの塊になったのではないかと疑い始めるだろうね」


イヴァンは一歩、彼女との距離を詰めた。その距離分、今度はセラフィーヌが退く。


「長々とご苦労様。つまり噂は本当だと、そういうことね」

「ああ。どれも事実だし、どれも君への愛に比べれば些末なことだよ」

イヴァンはさらに半歩踏み込み、逃げるセラフィーヌの行く手を、ステッキを石畳に突くことで緩やかに遮った。


「……チェニホフスキ伯爵令嬢。君も、もうすぐその『実のない世界』の住人になるんだ。今のうちにその堅苦しい口調を、甘い愛の囁きにチューニングし直した方がいい」


あえて神経を逆撫でするひと言に彼女が片眉を吊り上げると、おどけるようにイヴァンは肩をすくめる。


「御託は結構。とでも言いたげだね?」

「ええ、その通りよ。その品のない服をパーティーまでに着替えて頂戴。それだけを伝えに来たのだから」

「品のないだなんて。ヴィスコンティ&アズールの新作なんだよ。あの社交界の華が最近立ち上げた紳士服商会なのさ。サロンではかなり人気があるみたいで、今回も特別に融通を利かせてもらってこの刺繍を——」


イヴァンは心外だと言わんばかりに、薊の刺繍をこれ見よがしに指先でなぞった。


「着替えてほしいのは私のほうだよ、少尉。今日の君は、まるで海を切り裂く白銀の刃のようだ。それはそれでゾクゾクするけど、ダンスフロアにまでその軍服を持ち込むつもりじゃないだろう?」


「……あいにく、今日は"帝国海軍士官学校"の卒業式典だから。制服は脱げないわ」

「私の方の式典には使いも遣さなかったろう、君は」

「根に持っているの? …………国立学院卒業、おめでとうイヴァン。私のような無粋な軍人が一人混ざったところで、貴方の華やかな門出を煤けさせるだけだと思っただけよ」

「それだと今私が祝辞を無理に強請ったみたいじゃないか。それに君は無粋な軍人ではない。優雅な令嬢だ」


そろそろ彼との会話の応酬に苛立ってきたセラフィーヌはそれを隠そうともせず、溜息を吐く。

「もう良いかしら? 兎に角、そのジャケットだけでも他のに変えてから来て頂戴。父上も叔父上もいらっしゃる場なのだから、私に恥をかかせないで!」


イヴァンはつまらなそうにステッキの先でトントンと軽やかに石畳を叩く。


「まあ、いいだろう。君のその必死な忠告に免じて、ジャケットの方は少し大人しめの、御父上好みの古臭い逸品に差し替えておくと約束する」


セラフィーヌが小さく頷けば、彼は最後に一度だけ、その胸元で輝く少尉の階級章をはちみつ色の瞳に焼き付けるようにじっと見つめた。

「では、夜会の会場で。君のその硬い軍服が、どんな美しいドレスへと変貌するのか楽しみにしているよ」



鋼鉄の巨獣は、漆黒の鏡と化した海を圧するようにして、そこに横たわっていた。

帝国の威信を鋳型に流し込み、千のリベットで綴じ合わせたかのようなその艦体は、月光を浴びて鈍い銀色の光沢を放っている。美しい。


中心に鎮座する連装魔導砲塔も今は沈黙し、天を衝く煙突からは、微かな火の粉を孕んだ蒸気が帝国の吐息となって夜空へ溶けていく。

この夜ばかりは、この死を運ぶ「新型弩級戦艦」が絢爛たる劇場へと変貌を遂げていた。艦尾の甲板には白絹の天幕が張られ、マストからマストへと渡された無数の魔法灯が、波間に金銀色とりどりの鱗を散りばめている。それはシャンパンの泡のような熱狂。潮騒を掻き消すほどに高く奏でられるワルツの旋律は、厚い装甲板に反響していた。


「アイアン・グレイス嬢も今夜はおめかしを楽しんでいるみたいだわ」

「戦艦に嬢だなんて、君も古風な人だねぇ」

戦艦かのじょたちの機嫌を損ねてはならぬと、我が家ではまず初めに習うのよ」

「ああそうかい。君は良いとこの出だったね、そういえば」


セラフィーヌが纏う純白のズボンと鏡面仕上げの長靴は、婚約者を祝いに来た令嬢たちのドレスの海にあって、異質な覇気を放っていた。腰を絞った短丈のジャケットの肩には、今度は黄金の房が重厚に垂れ下がり、彼女が歩を進めるたびに帝国の威信そのもののように威風堂々と揺れる。海軍の最高礼装だった。

しかしその硬質な軍装とは対照的に、彼女の左腕にはこぼれんばかりの春が抱えられていた。式典の後に後輩の女性候補生たちが、憧れと敬愛を込めて一人、また一人と手渡していった、薔薇、百合、カスミソウ、カサブランカ、et cetera.

幾重にも重ねられた包装紙のシルクリボンが彼女の手元で波打ち、色とりどりの花弁が、磨き抜かれたチーク材のデッキに一ひら、二ひらと、彼女の足跡を追うように舞い落ちていった。


右手にはワイングラスを傾けながら、セラフィーヌは小さく同輩に笑った。同じく卒業生であるその男もまた誰に呼ばれたようで、少し目配せをしてから足早に甲板を走り去っていった。


同僚たちが夜会の熱狂へと消えていく中、セラフィーヌは一人、艦橋へと続く重厚なハッチの傍らに立つ影を見つけた。


その姿は、まるで軍艦がそのまま人の形を成したかのようだった。

セラフィーヌが受け継いだ見事なブルネットの髪は大半が白銀となり、くすんだ冬の海のような鉄灰色へと変貌を遂げて、厳格にポマードで後ろへ撫で付けられている。かんばせは硬く、深く刻まれた皺は苛烈な戦場を生き抜いた傷跡のものと混じって、判別し難い。


「閣下。そちらにいらっしゃいましたか」


セラフィーヌが声をかけると辺境伯はゆっくりと振り返った。


チェニホフスキ辺境伯は彼女にとって、血の繋がった父親である以前に、軍の総帥・最高権威に他ならない。

しかしながら、セラフィーヌに家族愛への欠落感などあろうはずもなかった。ただそこにあるのは、埋めがたい空隙ではなく自明の理。ゆりかご(カードル)の代わりに羅針盤ニードルを与えられた彼女は、生粋の「エリート」であったから。


「セラフィーヌか。……その腕の花束は、貴官がこの学び舎で築いた信頼の重さだな」


セラフィーヌは背筋をさらに伸ばした。

「恐縮です。ですがこの花も、明日には萎れる一時的なものです。私がこの六年間で得た真の成果は、御覧になってくださったかと思いますが——最終演習にて、表れていたかと」

「左様。あの転舵のタイミング、そして機関の出力を一分の狂いもなく制御した貴官の手腕。見事であった」


一瞬、セラフィーヌの口元に照れを隠す下手な笑みが溢れる。


「だが明朝からの貴官の任務は、もはや艦を動かすことではない。承知しているな」

父——総帥の眼差しが、娘の肩にある少尉の階級章を射抜いた。その瞳の深淵には、セラフィーヌとイヴァンの婚約が帝国海軍の予算を維持するための「盤上の定石」であることがありありと刻まれている。


「承知しております、閣下。あのように軟派な放蕩の徒(ほうとうのともがら)に私が屈することはありません。チェニホフスキの鋼は、アルドルドの温室で錆びるほど柔ではないと証明してみせます」


辺境伯は娘の左腕に抱えられた花束から、ある一つを抜き出した。


「鋼は、硬すぎれば脆い。時には不純物を飲み込み、しなやかさを得ねば、激動の荒波を乗り切ることはできん」


無骨な太い指先が、純白のジャケットの左胸、セラフィーヌの勲章の略綬が並ぶすぐ上のポケットへと向けられる。辺境伯が一輪の「白薊」をそこへ滑り込ませたのだった。


「閣下……」

「行け。子爵があそこで蜘蛛のように時計を気にしている。——今夜は婚約者としてではなく、帝国海軍少尉として、あの男を完封してみせろ。それが貴官に課す最後の特別演習、とでも言っておこうか」


「……イエス・サー」


セラフィーヌは、一切の迷いなく最敬礼を捧げた。


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