5:Ghost in the Zonbie's house.
※前回のあらすじ
明日香は河川敷で暮らす幽霊であったが、極度の悪天候につき今晩は千夏の家にお泊りする事に。
明日香は言葉を失っていた。
米が炊けなくて困っていた千夏に助言した事すら後悔していた。こんな事なら助けなきゃ良かった、と。
「ね、ねえ、千夏」
「今度は何よ?」
「この食事、全部で何キロカロリーあるの?」
「……さあ」
「さあ、じゃないでしょ! もう!」
ご飯三合半から始まり、焼き魚が六切れ、数人前としか思えない野菜炒め、南瓜一つ全部使った煮物、極めつけは味噌汁がお椀に一つではなく鍋に一つである。
しばらくご飯と言う物を見ていなかった明日香にとっては見ただけでお腹いっぱいになるような光景だが、普通の人間でも半分も食べられずに満腹になる量だろう。
だが、あれよあれよと言う間に千夏はすでに半分を平らげ、しかも未だ箸の速さに衰えは見られない。いや、むしろ加速してすらいる。
「何千キロカロリーあると思ってるの! もうやめて、箸止めて! ストップ! 食べちゃ駄目! 食べ過ぎだからーっ!」
「うるさいわよ、明日香。もう少し落ち着いて食べさせて」
と、千夏、ホッケを一口。もう四匹目である。
「よし、千夏。落ち着いて、とりあえず箸を止めて、よく考えてみよう。おかしいよ、何かが」
「何もおかしくないと思うけど」
「絶対おかしい。だってさ、まず、こんな量、胃袋に入らないでしょ? ちょっとお腹に手を当てて聞いてごらん。もう入んないよって泣いてるから」
「もっと米をよこせって言ってるわ」
「幻聴だー! あっ、こらっ、食べるなっ、食べちゃ駄目!」
とうとう業を煮やした明日香は千夏の手から箸を奪い取ろうと決起した。だが、その決意は「幽霊なので箸がつかめない」という現実の前に打ち砕かれる。
「もうっ、誰のおかげでご飯が炊けたと思ってるの!」
「その点については感謝してるわ」
「感謝してるなら少しくらい言うこと聞いてよ!」
「ごちそうさまです」
「たーべーるーなーッ、それ以上食べると本当に呪っちゃうからね!」
「今度は何の呪い?」
と千夏、物惜しげな目つきで残りわずかになった野菜炒めの残党を皿の中央にかき集めていく。皿の上に落とされた視線は、明日香の方に向き直る兆しすらない。
「えーと、そうだな、何が良いだろう……、そうだ、勝手に炊飯器のコンセントが抜ける呪いをかけてやるんだから! 嫌なら箸を止めなさい」
「別にかまわないわよ。新しい炊き方を教えてもらったから」
「うわーっ、教えなきゃ良かったー!」
明日香が頭を抱えつつ大騒ぎする中でも、千夏は淡々と箸を動かし、皿の上の料理を着実に減らしていく。栄養士(になりたかった幽霊)の警告などどこ吹く風である。
結局、べそをかきかけながらも必死に説得を試みた明日香の努力は徒労に終わり、米粒ひとつ残すことなく千夏は作った夕飯を全て平らげたのであった。
「ごちそうさまでした」
静かに両手を合わせた千夏に前には、空の食器とただただ呆然とする明日香しか残されていなかった。
「本当に全部食べちゃうなんて……、あとでお腹壊しても知らないからね」
ちっとも自分の言葉を聞いてくれない千夏に対し、明日香はすっかりむくれていたが、その言葉に返事するように千夏の腹がぐぅと鳴った。
思わず明日香が目を丸くする。
「……足りなかったかな」
「嘘、でしょ?」
「そう言えば、今日はあまり肉類を使わなかったしなぁ」
「もう駄目だからね! もう今日の食事はおしまい!」
そう叫んで明日香は台所と居間の間に両手を広げて立ちはだかった。
そこを塞がれると食器を片づける事も出来ないと思ってしまうところが、それ以前に明日香がいくら頑張ったところで、彼女は物理的な体を持たない幽霊であるため、通ろうと思えば難なく通れてしまう。
「明日香、そこ、どいてくれない? 後片付けしたいんだけど」
「本当? そんな事言って、おかわり作るつもりでしょ」
「そこまで疑わなくてもいいじゃない」
「あの喰いっぷりを見て何を信用しろと」
まあ、それが当然の反応よね、と千夏は肩をすくめた。
いくら空腹であろうと、千夏が人前であれだけの食事をとる事はまずない。人並み外れた量の食事をとる事は、周囲に「私は人間じゃないんです」と示唆しているも当然の行為だからだ。
当然、学校でとる昼食の量だって常人並みである。だが、この怪物の胃袋がその程度の食事で満足するわけがない。そんな(ゾンビの基準で)ひもじい暮らしを送ればいつかは発狂するというのが千夏の見解であった。
うっかり近くにいる人間を喰い殺さないためにも、誰も見ていない時くらい大量のエネルギーを摂取するのは必要なことであろう。幸いなことに一人暮らしである、家に帰れば千夏は自分の思い通りにご飯を作る事ができた。
今日は明日香がいたが、彼女は既に千夏の正体を知っているし、何も家主が居候に遠慮する必要もない。
それはそうと、明日香がそこに立っていては、片づけられないわけでもないが、片づけにくいのは事実である。千夏だって幽霊を通り抜けて移動する事に慣れているわけではない。
「分かった分かった、今日はもう食べないから、そこどいて」
「ほんとに? 嘘ついたら針三本だよ。きちんと三本飲んでもらうからね」
「残りの997本はどこにいったの」
ひどいコストダウンもあった物だ。
「細かい事はいいの! 兎に角、今日はもう食べちゃ駄目だからね!」
すっかりご機嫌ななめになりながらも、ようやく明日香はそこをどいてくれた。
これでようやく空になった食器を台所で洗いはじめられた千夏であったが、その間ずっと明日香が睨むように見つめているので、どうにも落ち着いて作業できない。
「ねえ、もしかしてそんなに私のこと疑ってるの?」
「疑ってる。千夏が歯磨きするまで、今日はずっと見てるからね」
──ああ、もう! この背後霊め!
仕方ない、と千夏はいつもに増して早めの歯磨きを行う破目になった。
「うん、よろしい」
隣で明日香が腕組みをしながら頷く。なんで私は家主なのに居候に振りまわされているんだろう、と千夏、肩を落とす。
しかし、気分がすぐれないからと言って家事をしないわけにはいかないのが一人暮らしである。その足で千夏はついでに風呂を洗った。
「おー、これが千夏の家のお風呂か。後で一緒に入っても良い?」
何年ぶりの風呂(このままだと実に不潔な誤解を招きかねないので、明日香の名誉のためにも“飽くまで彼女は幽霊である”ことを強調しておきたい)を見て、早くも気持ちを入れ替えた明日香、目を輝かせている。
「先どうぞ。私は後でいいから」
温泉なら兎も角、一般家庭の風呂で一緒に入浴となると子どもっぽくて仕方ない。
まだ明日香は何か言おうとしていた様子だったが、あまり付きあう気もないので、風呂の掃除や準備も終えたことだし、千夏は浴室を後にした。
当然、明日香も千夏の後についていく。
「ねぇね、今度はどこに行くの?」
この家は明日香にとって久々に見る物だらけのミュージアム、是非とも隅から隅まで千夏に案内してもらいたい気持ちでいっぱいなのだ。
「どこって、こんな天気なんだからどこにも行きたくないわよ」
「そうじゃなくて、家の中での話だよ。そうだなぁ、次は千夏の部屋に行きたい」
まるで旅行者である。しかも癪な事に、風呂場を後にした千夏がまっすぐ向かっていたのは、明日香のリクエスト通り、自室であった。
こうなったらいっそ台所に立てこもってやろうかしら、とも大人げない事を考えた千夏だが、あまりこの幽霊に構ってばかりはいられない。千夏だって一人の高校生なのだ。予習をこなしておかないと明日が辛い。
「ま、どの道次は私の部屋に行くつもりだったけどさ。でも、宿題やるんだから、おとなしくしててね」
「おお、きちんと勉強とかするんだ。千夏ってばゾンビなのに真面目なんだね」
「ゾンビだから何々って言うのやめてくれる? 私だって好きでゾンビになったわけじゃないのよ」
千夏は明日香を軽く睨みながら、自室のドアノブに手をかけた。
「ごめんごめん。あ、ここが千夏の部屋?」
「そうよ。たいして面白い物もないけど」
「いいから、早く中に入れてよ。早く早く」
明日香は期待に胸を膨らませている。この様子では本当に千夏の言い分を飲み込んでいるのかどうかも怪しい。
しかし、だからと言って何度も明日香に注意を促すというのも時間が勿体ないので、千夏はドアを開け、照明のスイッチをつけた。
「わー、ここが千夏の部屋かぁ。あ、ベッドがある! それっ」
と明日香、視界にベッドが入った瞬間、そこへ一目散に飛び込んだ。
普通ならここでボフッと毛布や布団が潰れる所なのだが、そこは幽霊と言う物、柔らかい羽毛布団ですら明日香のダイビングを受けても微動だにしなかった。
「えへへー、ベッドだぁ、夢みたい」
緩んだ頬もそのままに、明日香はベッドの上をころころと転がり、端まで来たら逆回転を何度も繰り返している。
これには流石の千夏も唖然としてしまったが、そのうちだんだんと自分が情けなくなってきた。──まったく、私はさっきまでこんな子供に食生活を心配されていたのか!
「千夏! 今日、私、ここで寝ても良い?」
期待に胸を膨らませ、明日香が千夏の方に顔を上げた。
「それ、私のベッドなんだけど」
「うーん、よし、じゃあ一緒に寝よう!」
「寝ないわよ」
言うまでもなく、千夏のベッドはシングルである。こんな狭い寝床に二人並んで寝たのでは寝苦しいに違いない。
「駄目? じゃあ、そうだなぁ。私はここで寝るから、千夏は押し入れで寝てね」
「百歩譲って押し入れを寝床にしたとしても、そこで寝るのは居候であるあんたの方なんじゃない?」
どうして家主が居候に遠慮しなければいけないのか、理解に苦しむ千夏であった。
「そんなぁ。千夏はいつもベッドで寝てるんでしょ? 今日くらい私に譲ってよ」
と主張しながら明日香はベッドにしがみついた。これではテコでも動きそうにない(もっとも、幽霊がテコで動くのかどうか、という問題もあるが)。
「じゃ、せめて私が勉強終わるまではそこでおとなしくしててよ」
もういっそ明日香にはベッドの上でころころごろごろしていてもらった方が却って静かだ、と判断した千夏は、少々呆れながらも勉強机に向かった。
ところが、千夏が数学のノートを開き、第一問にとりかかった瞬間
「げっ、数学だ」
明日香が千夏の手元を覗き込みながら声を上げた。
「ちょっと、邪魔しないでって言ったばかりでしょ」
「いや、でも、暇だったんだもん」
千夏が苦い顔をすると、明日香はペロッと舌を出した。
「ね、千夏、家庭科の宿題とかないの? じゃなくちゃ、予習とか」
「そもそも明日は家庭科なんてないわ」
視線を数学のノートからそらすことなく、素っ気なく答えた千夏に
「ちぇっ、先輩として何か教えてあげようと思ったのに」
明日香の頬が膨らむ。
「なら、この問題でも教えてよ」
と千夏が数学の教科書から、今解いている練習問題の一問を指差すと、明日香は胸を張って
「分かんない!」
と高らかに答えたのであった。
「分からない事を偉そうに言わないでよ」
「聞いて驚かないでよ? なんとこの私、数学のテストで四十点以上とった事なかったんだから」
隣で変な自慢をする明日香を余所目に、千夏はとっとと問題の解答に集中することにした。
試すような気持ちで明日香に投げかけた練習問題であったが、どちらかと言うと理系教科の方が得意な千夏にとって、この程度の問いを解く事など造作もない。
だが明日香は無理難題を抱えていた。千夏が宿題を終わらせるまでの間、暇を潰さねばならないという宿命である。
最初はベッドの上にうつ伏せに寝そべったり、そのまま足をバタバタと遊ばせたり、しまいには狭いベッドの上をころころと転がって左右に往復してみたが、いずれも何年ぶりとは言え一分も繰り返せばすぐに飽きる事であった。
何か面白い物はないかと見渡しても、千夏の部屋は整然と片付きすぎている。何冊かの雑誌や文庫本が目に入ったが、いずれも本棚にきちんと整理されている。
幽霊である明日香は、本棚から本を取り出し読もうとしても、他者の助けがないとどうすることもできない。本の背表紙に触る事はできるが、掴もうと指先に力を入れると指が本をすりぬけてしまうのである。
つまんないなぁ、とため息を突きながら不意に視界を右にずらすと、コンポが目に入った。
「ねえ、千夏。何かCDとかない?」
「持ってるわよ。でも、聞くのは私が勉強を終わってからね」
すっかり集中している千夏は、もう顔を上げることすらなかった。
明日香が顔をしかめる。──この部屋は幽霊に優しくないなぁ、これじゃあ暇すぎて死んじゃうよ!
既に死んでいる事も忘れ、明日香が必死に、まるで落としたコンタクトレンズを探す人のように、部屋の隅から隅まで面白そうな物を求めて探しまわった。
その時、ふいに棚の一番上にある写真立てがあるのに気が付いた。千夏や明日香の背丈を上回るほど高い棚であり、手を伸ばして何とか取れるであろう位置にその写真立てはあった。
だが、明日香は手を伸ばしても写真立てを取ることができない。それに、あまりに高い所にあるので、背伸びしても何の写真なのか分からないのだ。
「ねえ、千夏。あの写真、何?」
好奇心に駆られて言葉をかけると、幸いにもその時、千夏は骨のある応用問題を丁度制した所であり、ちょっとした達成感に包まれていた為、あっさり振り返ってくれた。
もしこれが悪戦苦闘中だったなら「ちょっと待ってて」と冷たくあしらわれていただろう。
「あの写真って?」
「ほら、あの棚の上。高い所にある奴」
「ああ、あれね」
千夏は椅子を立ち、息抜きがてらに棚の前で軽く伸びをして、そのまま写真立てを手に乗った。
「わぁ、可愛い!」
写真を見るや否や、明日香が声を上げた。
そこに写っていたのは赤ん坊を抱えるひと組の夫婦であり、明日香の目は今やその赤ん坊に釘つけになっていた。
「あまり可愛いって言わないでよ」
千夏が決まり悪そうに目をそらすのを見て、明日香は何となくこの赤ん坊が誰なのか察しがついた。
「分かった、この赤ちゃん、もしかして千夏?」
「ん、まあね」
「やっぱり! 可愛いなぁ、千夏にもこんな可愛い時があったんだね」
「まるで今は可愛くないみたいな言い方ね」
それはそれで乙女心を傷つける物がある。
「いや、そういうわけじゃないんだけど。でも、この頃は血の気が良かったんだね。見てよ、この真っ赤なほっぺ。可愛いなぁ、抱いてみたかったなぁ」
にへらにへらと明日香の顔が緩みっぱなしになっている。
「ねえ、千夏。千夏が赤ちゃん産んだら私にも抱かせてね?」
明日香の目は期待一色に輝いていた。
物も持てない幽霊の癖に赤ん坊を抱こうというのか、そもそもゾンビは赤ん坊を産めるのか、仮に産めるとしても出産まであんたは私に付きまとう気でいるのか、どれから聞こうかと考えた千夏であったが、聞いてもまともな答えは返ってこなそうなので、まとめて心の内にそっとしまう事にした。
「あ。じゃあ、この二人が千夏パパと千夏ママ?」
と、ようやく明日香の注意が赤ん坊からそれを抱く母と、その隣に写る父の方へ移る。
「そういう事になるわね」
ずいぶん奇抜な呼び方をするのね、と千夏は少し面くらいながら答えた。
「へえ。でも、確かに、なんとなく煮てるね。で、今、二人はどこにいるの?」
そう言えば千夏の家族の話って初めて聞いたな、と明日香は思った。とは言え、高校生で既に一人暮らしというのもありえない話ではない。
明日香が高校生だった頃(当然、まだ人間だった頃)の友人に、交通の便があまりに悪い所に実家があるので下宿して高校に通っている人がいたのだ。
なので、明日香が最初に千夏が一人暮しをしていると聞いた時も、きっと離れた所から一人で来ているんだと直感したのである。
「ああ、話してなかったわね」
「うん。千夏の実家ってどこにあるの? 結構遠い所?」
山奥なのか島なのか、どちらかと言えば私は島の方がいいかな、と明日香は勝手に旅行気分で物事を考えていた。
「どこって言われたら、実家はここよ。この家」
「え? でも、じゃ、二人はどちらへ?」
「父さんは殆ど泊まりがけで働いてるから、帰ってくることはあまりないわ。そして、この写真が母さんにとって最後の一枚になったのよ」
「じゃ、じゃあ、千夏ママって……」
「私が一歳の時に死んだわ。ゾンビにもならなかったし、幽霊として化けて出ることもなかった。死んで、それっきりよ」
淡々と語りながら、千夏は写真立てを勉強机の上、数学のノートの隣に置いた。
千夏が感情的になる事は全くなかったが、それでも明日香の気は一気に重くなった。
もしかしたら、聞いたらいけないことを聞いちゃったのかな、と明日香がしょげていると、千夏もそれを察して
「気にしないで。本当のことを言うと、私も母さんについては何も覚えてないの。気持ちの整理も何もあった物じゃないわ」
と苦笑した。
「そうか、その時、千夏、一歳だったもんね。じゃあ、本当に覚えてないんだ」
「そういうこと。小さい頃は母さんの兄さん、つまり私にとっては伯父さんの家で面倒見てもらっていたの。でも、いつまでもって訳にもいかないと思って、自立したのよ」
「千夏も苦労してきたんだね」
「まあね。母親が死んで、伯父さんの家で育てられ、一人暮らしを始めてみたらゾンビになって、それも落ち着いてきたら今度は幽霊が転がり込んできたんだから、人生何が起きるか全く分からないわ」
そのうち宇宙人に拉致されちゃうんじゃないかしら、と千夏は冗談めかして付け加えた。
「でも、あまり家族に会えないんじゃ千夏も寂しくないの?」
「慣れたわ」
「本当に? もし寂しかったら、私のこと、お姉ちゃんって呼んでもいいからね? 私も千夏の事、妹みたいに可愛がってあげるから」
絶対呼ばない、と千夏は心に深く刻みつけた。
「じゃあ、私はまた宿題の続きを片づけちゃうから、もう少し待っててね」
「ねえ、千夏、ちょっと待って」
「何か?」
「うんとさ、千夏が宿題やってる間、私、暇だからさ。元気な猫でも飼ってよ」
その無茶苦茶で唐突な要求に、あやうく千夏は椅子に座り損ねてずり落ちそうになったのであった。
「長い一日になったわ」
私の人生、これからどうなっちゃうのかしら、と千夏は天井を仰いだ。自室のではない、浴室の天井である。
河原で出会った幽霊が、気がつけば我が家にいるのだ。それも、このまま住みかねないくらい自宅の如く寛いでいる。気の置けない仲と言えば聞こえは良いが、家主としてはもう少し遠慮があっても良いのではないかとも思ってしまう。
どうも明日香と一緒にいると、些細な会話が延々と尾を引くため、やる事やる事がスピーディに終わらないのだ。──ま、たまには悪くないけどね。
その明日香は、自室に置いてきた。思えば今日は帰ってからずっと明日香と一緒だったので、少しくらい羽を伸ばしたかったのである。
一応、「私が入り終わるまで待ってて」と言って部屋に置いてきたが、それでも千夏の後を追って風呂に来る可能性は十分に──
「湯加減いかがですか?」
噂をすれば影だ、そら来たぞ、と千夏が思わず身構える。
と、同時に明日香が、それも裸身にバスタオル一枚という格好で扉をすり抜け浴室の中に入ってきた。どう見ても入浴するつもりだ。
それにしては、脱いだ服はどこに置いてきたのだろうか。今、洗面所に出たらきちんとそこに彼女の服はあるのだろうか。幽霊における服の着脱の謎は依然深まるばかりである。
「泊めてくれたお礼に、背中、流しに来ちゃいました」
とは言ったものの、その極めてにこやかな顔から察するに、本当はただ風呂に入りたいだけなのだろう。第一──
「“流しに来た”って、あんた、そんなことできないでしょ。実体がないんだから」
「まあまあ、そこはセルフでお願いします。私は雰囲気担当って事で」
何が雰囲気担当だ、と呆れかえる千夏。その隣に、
「じゃ、お邪魔します。ほわー、いいお湯だぁ」
と、明日香は頭にタオルを──バスタオルなので少し大きすぎる気もするが──乗せて、もう湯船に身を沈めている。どうもこの雰囲気担当、自分で言いだした仕事すら完遂するつもりなどないらしい。
「ふいぃ、ごくらくごくらく」
明日香はすっかり上機嫌になって、鼻歌を歌い出した。
それにしても、明日香が入ったというのに風呂の水位は少しも上がっていない。ここら辺の現象はまさに幽霊特有の物と言わざるを得ないだろう。
やはり明日香は幽霊なのだとつくづく思い知らされる瞬間である(こういう時くらいしか実感できないのだ)。
「ねえ、明日香」
「んー? なあに?」
「幽霊でも風呂に入ると暖かく感じるの?」
「失礼な、幽霊にだって温かい寒いくらい分かるよ。千夏は知らないかもしれないけど、夜中の河原ってすっごく寒いんだよ?」
明日香は心外と言った様子でぷーっとむくれた。その境遇を主張されると、千夏も思わず感化されてしまう。
こう見えて常人なら発狂しかねないような環境に何年も置かれているのだ。それでいてこうも明るい気性の持ち主なのだから、そういった観点から見れば大した人物である。
「もう千夏の家に住んじゃおうかな」
だが油断は大敵だ。あまり同情しすぎるとこのように相手のペースに振り回され、気苦労が募るばかりである。
「あまり川から離れられない、離れると落ち着かない、って言ってたじゃない。あれはどうなったのよ」
「うーん、でも思いのほか、千夏の家が居心地よかったし。千夏だって一人は寂しいよね?」
「そんなことはないわ」
「またまた、照れちゃって。本当はいてほしいんでしょ? 帰ってほしくないんでしょ? お姉ちゃんが傍にいてあげるからね」
「あまり調子に乗ると雨だろうと夜だろうと追い出すわよ」
「あ、ごめん」
千夏に凄味をつけて睨まれては、流石の明日香も首をすぼめるしかない。
「でもさ、私が河原に帰っちゃったら、千夏はどうするの?」
「どうするって、また今まで通りに生活していくだけよ」
千夏がそう答えると、明日香はムスッとした目つきになって
「ってことはさ、つまり、またとんでもない量のご飯を食べるんだよね」
「それは放っておいてよ」
「いいや、千夏はあまり気にしてないだろうけどね、あれだけ食べたら健康に悪いに決まってるでしょ。私、あの食事見てたら、いつか千夏が食べ過ぎで体壊すんじゃないかって心配になってきた」
「今更健康に気を使ってもなぁ」
ゾンビに健康も不健康もあるか、という話である。
「お黙り! 今に見てろ、ぶくぶく太っちゃうんだから!」
としかめっ面で叱りつけた明日香であったが、言った直後に千夏の体を見下ろして
「もう! なんであれだけ食べてこんなに痩せてるの! 私だって生きてた時は甘い物は控えめにしてたのに!」
もはや八つ当たりも良いところである。
「私だって好きでこんな体してる訳じゃないわよ」
と千夏も眉間にしわを寄せながら、自分の、あばら骨がどの辺にあるのかうっすらと分かるほど痩せてしまった体を見下ろした。
どうもゾンビの身体は体に脂肪を蓄えるようにはできておらず、それどころか人間時代にため込んだなけなしの脂肪すら空腹時の繋ぎとして養分に変換してしまったようである。
伯父の家にあった「体脂肪率も測れる体重計」に乗った際に叩きだした驚愕の数字を、千夏は決して誰にも言うまいと心に決めている。
ただでさえ血色が悪いのにその上骨っぽい体ときては、年頃の少女としてはコンプレックス以外の何物でもない。
おまけに目前の幽霊が何気に良いスタイルの持ち主だったというのだからやるせなさも極まる。
しかし、あまりその辺を追及して同性から出歯亀扱いされても損なだけなので、
「──って、そんなこと今はどうでもいいの。話をそらさないで」
しょうもない敗北感を飲み込みながら、千夏はとっとと元の話題に戻すことにした。そう、今後の明日香の住居についてである。
この件について、この先どうしようと考えていたのは明日香だけではなく、千夏もまた同様にであった。
どうにも一言余計な節が多々目立つ明日香だが、だからと言ってあの河原に追い返してしまうのは可哀想というものだ。どうにも与えられた選択肢が極端であり、千夏にとって今すぐ選べと言うのは無理難題に等しかった。
「とりあえず、この件についてはお互い明日まで保留ってことにしましょ。私も色々考えておくわ」
「前向きにお願いね」
期待の籠ったまなざしで明日香は千夏を見つめる。そう見つめられては千夏としてもやりにくい。
どうした物か、と千夏がお湯をすくって顔を軽く流していると
「ところで、話は変わっちゃうけどさ」
明日香は千夏の髪を眺めながら、
「やっぱり千夏、そっちの方が似合うんじゃないの?」
とにこやかに言った。
「そっちって?」
「髪よ、髪。いつも後ろで結んでたじゃん。ちょっと下ろしてみてよ」
明日香の言うとおり普段はポニーテールで髪をまとめている千夏だが、流石に風呂に入るときくらいはほどくに決まっている。そうでなければどうやって髪を洗えと言うのか。
ただ、湯船につかる時は下ろしたままだと煩わしいので、今やっているようにタオルで簡単にまとめているのだ。
「こう?」
少しくらいならいいか、と千夏はタオルを解いて髪を下ろした。
「あっ、ほら、似合う似合う! なんか大人っぽく見えるし、良いんじゃないかな。それでワンピースとか着ればきっと綺麗だって言われること間違いなしだね。この明日香さんが太鼓判を押してあげよう」
「意地でも私にワンピースを着せたいのね」
この前も確か明日香はそんな事を言っていた気がする。
「悪いけど、私はポニーの方が好きなのよね。動きやすいし」
千夏はそう答えながら髪を元通り頭の上でまとめてしまった。
「あーん、もう。せっかくきれいな髪してるのに、勿体ないなぁ。私なんて、もう髪伸びないんだから、千夏が私の分までめいっぱいおしゃれしてよ」
明日香の頬が膨れる。どうやら服は替えられても、流石に髪まではこれ以上伸びることはないようだ。
「言われなくても、私は私の価値観でおしゃれしてるわ」
「それじゃつまんない。たまには私のセンスに任せてよ。じゃないと呪っちゃうぞ」
「あんた、本当に呪いが好きね。で? 今度は何なの? お風呂の給湯機が壊れる、とか言わないでよ」
「いいや、そんなんじゃ飽き足らない。そこにあるシャンプーとリンスの容器の中身を入れ替えてやる」
これでも明日香は大まじめに言っているのである。
女子の場合、風呂上がりほど時間を取られる物もそうはなかろう。それも千夏の場合は腰ほどまである長髪の持ち主だけに尚更である。
一方で明日香はと言うと、幽霊なので全く濡れる事もないため体をタオルで拭く必要もなく、千夏がちょっと目を離した隙にピンクのパジャマを着こむと
「やっぱり長い髪ってお手入れ大変なんだね」
と、すっかり他人事と言った様子で大あくびをしている。
だが千夏も構っている暇はない。お風呂上がりは常に時間との戦争なのだ。手間取れば手間取るだけ火照った体が冷めていく。ゾンビの体は熱を生産しない。冷めるときは室温並みまでとことん冷めるのだ。
つまり、入浴で得た熱をいかに布団に入るまで保っておくことができるかによって本日の寝心地が変わると言っても過言ではない。この辺は少女としての事情とゾンビとしての事情、二つが入り混じって生じた新たな難題である。
「ただ見てるだけなら、何か手伝ってよ」
髪と取っ組み合いの大喧嘩を──流石に大袈裟すぎる気もするが──繰り広げながら、千夏は明日香を軽く睨んだ。
「手伝いたいのは山々なんだけど、私に何かできる事ある? 幽霊だって事、忘れないでね」
「じゃ、玄関の戸締りを見てきて」
「よしきた、任せて!」
と一言いい残し、明日香がてててと駆けていく。そして間もなく帰ってくると、開口一番に
「千夏! ドアノブのつまみが横になってるのは開いてるの? 閉まってるの? どっち?」
と、どこか頼りない事を言う。
結局、髪を乾かし終えた千夏は、自分の目で戸締りを確認し、「さては私を信用してないな?」とぶーぶー文句を垂れる明日香を背に部屋へと向かったのであった……。
「そうだ。結局、寝る場所、どうする?」
千夏が自室のドアに手をかけた時、明日香が言った。
「そうね。じゃあ明日香の分、布団しいてくるわ」
「やだ、私ベッドがいい」
と駄々をこね始める明日香。
「子どもじゃないんだから。──わかったわかった、私が布団で寝るわ」
「別にそんな面倒なことしなくても、二人で寝ればいいだけだよね?」
「二人で一つのベッドに寝るの?」
「大丈夫だよ、女の子同士なんだから」
「そういう心配をしてるわけじゃないのよ。場所の心配をしてるの」
千夏のベッドはシングルなのである。二人が余裕をもって寝られるような幅はない。
「まあ、なんとかなるよ。大丈夫、大丈夫」
どこがどう大丈夫なんだと、出所不明の自信で満たされる明日香に問いただしてやろうかとしたその時、
「ん? あ、しまっ……」
ある重大な事をすっかり忘れていたのに千夏は気がついた。
「うん? どうかしたの?」
「あ、いや、ちょっと居間に忘れ物したの思い出したわ」
「じゃあ、ふあぁぁ、私、先に寝てるね。おやすみ」
そう言うと、明日香は大あくびを隠す事もなく、ドアをすり抜けて中に入っていってしまった。
「まったく、横着者め」
と愚痴をこぼしながらも、千夏は居間に戻る。明日香のせいですっかり忘れていたのだ、明日の朝ごはんの為にまだ米を研いでいない!
そのため、明日香が千夏の部屋に行ってくれたのは幸いだった。もし同行されていたら、今度は何を言われていたか分からなかっただろう。
居間、というよりは台所(念のため明日香にはぼかして言った)に立った千夏は、いつもの手つきで米を研ぎ始めた。朝ごはんに二合、昼の弁当用に二合。これを忘れると明日の朝が大惨事である。
そして今度こそ炊飯器に米をセットし、タイマーが入っていることを重々確認した上で、部屋へと戻りはじめた。
「明日香、やっぱりベッドに寝てるのかしら」
もしそうだとしたらどうしよう、と思いながら千夏は自室前まで戻り、ドアを開け──ぽかんと口を開けてしまった。
明日香がベッドに寝ている、そこまでは予測できたのだが
「──すー……すー……」
なんと、もう寝息を立てて寝ているのだ。千夏が明日香と別れてからまだ数分。恐るべき速技である。
「……呆れた」
と思わず感情がそのまま口からこぼれると同時に、明日香の体がベッドからコロンと転げ落ちた。結構な衝撃を受けたようにも見えるのだが、
「──ん……ふにゃぅ……」
と明日香、一向に起きる気配なし。──あれだけベッドベッドって言っていたのに、寝てわずか数分でずり落ちちゃうなんて。でも、そっちの方が明日香らしいわね。
転落の衝撃で明日香のパジャマがペロンとめくれ、お腹が大きく露わになっていた。
「まったくもう、あれじゃ風邪ひくじゃない」
思わず千夏は明日香のもとに近づき、そのパジャマを直してあげようとしたのだが、その手はパジャマも明日香の体も、むなしくすり抜けた。
明日香がすっかり寝ている事をいいことに、千夏はその後何回か明日香との接触を試みた。そっと撫でてみたり、優しく押してみたり。でも、駄目だった。千夏がいくらアプローチをかけたところで、明日香には触れない。
明日香は幽霊なのだ。今まで何度もそう説明されたし、それは千夏だってよくよく分かっていた。でも、その現実をこれほど強く実感させられたのはこれが初めてであった。
「……まったく、困った“お姉ちゃん”ね」
千夏はベッドの上にあった毛布と掛け布団のうち、毛布の方をそっと明日香の体にかぶせてあげた。
騒がしかったり一言多かったりと千夏をムッとさせる事がやたら上手い幽霊であるが、その癖、どこか憎めない奴なのである。風邪でもひかれたら後味が悪い。
そして余った掛け布団を自分に被せ、千夏は床についた。
まさか幽霊に懐かれるとは思ってもいなかったが、どうせ自分だってゾンビだし、今更どうってことないわよね、と思いながら照明のリモコンに手を伸ばす。
「じゃ、おやすみ」
聞いちゃいないとは分かっていながらも明日香に語りかけ、千夏は明かりを消した。
──ところが、部屋は真っ暗になるかと思いきや、照明が消えるのと同時に明日香の体が再び青白く光り出したではないか。どうやら寝ていても光るようだ。その明かりに照りつけられ、千夏の顔が渋る。
「明日香、眩しい。寝られない」
「……うみぅ」
駄目だこりゃ、と千夏は明日香に背を向けるようにして目をつぶった。どうもゾンビになってから眠りが浅いのだ、こんなに明るくては眠れない!
(逆に徹夜は得意になったのだが、起きて活動する分だけ腹が減るので、食費の軽減という意味合いでも千夏は夜を寝て過ごす事にしている)
「明日、アイマスクでも買ってこようかしら」
千夏は乾いた笑いを浮かべていた。
──それでも駄目だったら、遮光用の棺桶の中ででも寝てもらうしかないわね。ちょうど良いんじゃない? 幽霊なんだし。
※おまえだってゾンビだろう。
読了ありがとうございました。
ここまでかなり長々と書いてしまいましたが、ようやく序章が終了したといった段階です。
とは言え、流石に序章で五万字はやりすぎたなとも反省中。
次の話からは第一章としてこれまでとは毛色の違う展開にしていきたいと思います。
それに伴い、もう少し展開を早くするよう考えながら書きたいです。
では、次の話でお会いしましょう。今後ともよろしくお願いします。