幼少期7
7
何もかもがどうでもいい。
自分自身も、世界も消えてなくなってしまえ。
外に出る。足取りは酷く覚束ない。
おかしいな。見知ったはずの街並みは灰色に濁っていて、まるで実体を持っていないようだ。
頭は霧がかかったようにぼんやりしていて、何を思ってもすぐに形を失う。
気持ち悪い。彼らはなぜ笑っている?
鬱陶しい。煩くて仕方がない。
それでも激しい怒りは湧かない。
怒るだけの熱すら、とうに冷えきっていた。
ただ、自身への嫌悪だけが残っている。
どこか遠く、何も考えなくてもいいところへ。
やがて大きな広場へと辿り着くと、子供の集団がこちらに気づいて顔を歪める。
「化け物!」
大きな掛け声に遅れて、鈍い痛みが側頭部へと広がっていく。
痛みの元を辿る手のひらはぬるりと真っ赤に染まっていた。
最初の一つを皮切りに様々な罵詈雑言を乗せて石やゴミが四方から投げつけられていく。
肩、背中、頭、脚。
容赦なく飛んでくるそれらが、僕を本物の化け物に変えようと血を流させる。
体が大きくよろめいた。
反転した視界の中、地面が迫る。
倒れる。そう思った瞬間、咄嗟に右手を伸ばした。
指先に触れたのは、冷たい木の棒。
節くれだった表面が掌を裂く。鋭い痛みが走る。
それでも、膝はつけなかった。
血が目に入り、視界が赤く滲む。
息がうまく吸えないまま、僕はゆっくりと顔を上げた。
━━━━父の顔があった。
大きく張り出された一枚の紙。
見覚えのある名が、黒々と記されている。
『ライオネル・ド・ヴァルモント・ノワール、国王陛下暗殺の大罪により、王国全土に死を宣告す。生け捕るを許さず』
誇り高かったはずの父の肖像が、冷たい墨で描かれ、
罪人の名とともにこちらを睨んでいた。
最後まで信じていた僅かな希望は、頬を伝う血と共に音もなく流れ落ちた。
薄汚れた地面が血をさらに貪り、立て看板にべっとりと張り付いた赤黒い染みが、僕と父を繋ぐ呪いの楔となる。
最初からどこかで信じきれていなかったのかもしれない。
母が信じていたから僕も信じられた。それだけの話だ。
何が騎士だ。何が英雄だ。くだらない。
王様を殺して、母も殺して、それで満足なのか?
未だ容赦なく降り注ぐ迫害の雨。
まただ、また痛みを感じなくなってきている。
化け物か。確かにそうだと、浅い傷は既に再生を始めている様子を見て納得する。
どうせこのままこうしていても死ぬことはない。
気が済むまで好きなだけやればいい。
自分が血を流した分だけ、罪がそそがれ贖罪になる気がした。
丸くなり、ただひたすら嵐が過ぎ去る時を待つ。
延々に続くかのように思えた罵声と暴力は、突如鳴り止んだ。
ぴたり。示し合わせた静寂。
次いで足音。
静寂はどよめきに、どよめきは歓声へと大きなうねりを上げて広がっていく。
朦朧とする意識の中、視界に映ったのは豪華なドレスを身に纏った女性だった。
「アリシア様ー!!」
「きゃーっ! 素敵! こっちを向いてーっ!」
銀の鎧を着た兵士たちが馬を進め、アリシアと呼ばれた女性が中央で白馬に跨り手を振っている。
黄色い声援が飛び交い、人々が道の両側に押し寄せては自然と道を開ける。
既にこちらへと注がれていた悪意は、好意へと変わり、興味は尽きていた。
雰囲気を感じ取り理解した。あれが先代の娘、新しい女王なのだと。
母親が子供を抱き上げて見せ、老人が杖を振りながら涙を拭う。兵士の「下がれ」という声すら、どこか誇らしげだ。
町の連中が、まるで天から降ってきた救いの女神でも迎えるように喜んでいる姿が、ただ空しくて、ただ馬鹿馬鹿しい。
地面に転がりながらそれを見つめているのが化け物なら、彼女は化け物を退治しに来た女神様か。
やってみろ。もうどうせ未来なんてものはない。
ならここで終わりにしよう。女王の父を殺したのが僕の父なら、当然僕も殺されるべきだ。
辺りを探り泥を掴む。それを民衆に歓迎される女王へ向けて、勢いよく投げ付けた。
「何者だっ!」
傍らの兵士が馬を止めて警戒を始める。
見事命中した。美しく可憐だったドレスは、足元から腰にかけて、意匠が見えなくなるほどに醜く汚す。
ようやくこれで終われそうだ。
中途半端な暴力なんかじゃなく、化け物すら殺せる圧倒的な力で処刑してくれ。
泥を投げ付けた犯人として、兵士達に取り押さえられた僕は何の抵抗もせずに、力のなすがまま、引き摺られて女王の前へと突き出される。
「そんな奴は殺せっ! 殺してしまえ!」
「赤い瞳だ! 裏切り者の息子だぞこいつ」
「あぁ……忌々しい……」
口々に飛び交うなじる声。
住民達は赤い瞳を恐れ、兵士達はすぐに処刑するべきだと提案する。
あぁ、そのとおりだ。早く終わらせてくれ。
もう一秒だってこんな世界に居たくないんだ。
母さん、待っててね。一人にしてごめんね。薬を盗んだりしてごめんね。沢山謝るから、また一緒に……。
女王が馬を降りて前に立つ。右手を上げて兵士達を制する。
辺りは静寂に包まれ時が止まったようにすら感じられた。
異様な空気感が場を支配する。
そのまま女王は雨上がりの地面に躊躇うこともなく膝を着き、優しく僕を抱き締めた。
「えっ……」
殴られる、蹴られる、痛めつけられる。そんな展開を想像していた。
しかし、いつまで経っても痛みが体を襲ってこない。
甘い香りが鼻腔をくすぐり、陽光に透けるような軽やかなブロンドの髪が頬に触れる。
すぐそこに、いつもあったはずの懐かしい感覚が突然蘇り、思わず涙が溢れそうになる。
泥や血で汚れきった体を、まるで大切な宝物を扱うように、優しく愛おしそうに抱き締める。
「おじさまの子ね? うんうん、おじさまに似てとっても綺麗な瞳の色」
僕の頬を両手で包み込むようにして、目と目を合わせ、広場の誰にも聞こえない、僕にだけしか聞こえない澄んだ声でしみじみと微笑む。
民衆がざわめき始めた。
女王が膝をついたことへの驚きか、それとも穢らわしい血を抱き締めたことへの不信か。
「彼は行動を起こすより前に、既に私刑によって十分に裁かれています。この酷い有様を見れば一目瞭然でしょう」
空気が変わる。
汚れたドレスなど一切気にも留めず、毅然とした態度で立ち上がるとそう告げる。
先ほどまでの懐かしさは消え、そこにいるのは人々を統べる偉大な王。
「父の罪は当人だけのものであり、家族にまで及ぶものではありません。私は先刻もそう布告したはずです」
苦い表情をする者、頷き同調する者、未だ納得をしていない者、反応は様々だが、この場にいる全ての人々に共通する事実が一つあった。
誰も女王から目が離せない。
「以後、彼を不当に貶める者があれば、その判決を下した王家を貶める事と同義。不当の罪による間違った正義で子供を裁くというのであれば容赦はしません」
一呼吸おいて、女王は僕の頭に手をそっと添えると赤子をあやすように撫でながら言った。
「よく頑張りましたね。とても立派でしたよ」
言葉が落ちた瞬間、広場にわずかな間が生まれた。
誰かが息を呑む音が聞こえた気がした。
最初は、近くにいた数人から小さなざわめきが漏れ始めた。
「…本当に?」「あの子を…」という戸惑いの囁きが、次第に周囲へ波紋のように広がっていく。
やがて一人が「女王陛下…!」と感極まったような声を上げると、それに呼応するように別の声が重なり、さらに別の声が加わる。
ざわめきは一気に高まり、広場全体を飲み込むような歓喜の渦へと変わった。
民衆は口々に女王を褒め称え、賛辞の言葉を次から次へと投げかけた。
「父の罪と子は……別、ということか」
「女王がそう仰るなら……」
「だがあの赤い目だけは、どうにも……」
わからない。
僕にはわからない。
なぜ見逃されたのかも、胸の奥に生まれた暖かい何かが何なのかも。
全くわからなかった。
僕は去っていく女王の後ろ姿を、ぼやけた視界で見つめ続ける。
女王は僕の瞳を褒めてくれた。
あの人にとっては、父を殺した男と同じ目をした人間のはずだ。
忌々しくて、憎くて、例え抉られてしまったとしてもそれは仕方がないことだ。
じゃあなんで?
わからない。
感情がぐちゃぐちゃで考えがまとまらない。
どうしよう。僕はどうすればいい?
母さん、父さん、教えてよ。
どうしていなくなっちゃったの?
僕はこれからどうすれば……




