幼少期5
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薬を買うためにはこの程度じゃまるで足りない。
それどころかあと数日もすれば食べ物すら買えなくなるだろう。
なら働く? 駄目だ。そんな悠長なことをしている時間はない。
今すぐにでも薬を手に入れて母の元へ届ける必要がある。
そもそも、もう僕をまともに扱ってくれる人など存在しないだろう。
覚悟は決まっていた。腹はくくった。
バレなければそれはなかったことだ。
━━盗むしかないんだ。
母の寝息は浅く、時折途切れるのを聞きながら、額の上に乗せていたタオルを新しいものへと取り替えて呟く。
「……必ず良くなるからね。少しだけ待っていて」
木剣を腰に差して、静かに扉を閉める。
行き先は2つ。貧民街の薬屋か、僕が元々住んでいた区域の薬屋か。
貧民街であればすぐに着く。
しかしあそこはいつ行っても人がおらず、盗むにしては目立ちすぎる。
それに加えて、質のいいまともな薬は置いていないだろう。
ならば必然的にもう一つの選択肢となる。
しばらくは近づいてはいけない。それが母との約束だったが今は緊急事態だ。
元気になったときに改めて謝ろう。
久しぶりだ。
昼下がりの城下町は、いつもの賑わいを見せていた。
けれど、それを懐かしむ余裕は今の僕にはない。
街の住民達がひそひそとこちらを見て何かを言っている気がするが、胸を打つ心臓の鼓動が、耳の中で大きく鳴り響いてかき消してしまう。
前の客が扉を開けた瞬間、するりと同時に体を滑り込ませる。
子どもであることを活かして商品棚の陰に隠れつつ、店内を隅々まで物色する。
客はさっきの人と合わせて三人。多すぎず、少なすぎない絶妙な数。
チャンスだ。この機を逃せば次はない。
以前僕が熱を出したときに母が買ってきてくれた物と同じ袋を探す。
水色の紐で縛られた茶色の小さな袋。
あった。店内右端の棚の真ん中に置いてある。
なんであんな目立つ所に置いてあるんだと、歯噛みする。
落ち着け。早まるな。息を調えろ。
ここからだと確実に店主に見つかってしまう。
これは一度きりのチャレンジだ。見つかれば警戒され次はない。
店主と客、四つの視線から逃れながらその時を待つ。
客がこの通路を通り、目当ての薬を過ぎた瞬間を狙う。
そうすれば店主からは、客の陰に隠れた僕の姿が見えることはない。
行け。そのまま止まるな。前進しろ。
店内を外回りにぐるりと巡回していた大柄な男性に祈りを込める。
来た。今この瞬間、僕の存在は世界から消える。
ありがたいことに男はゆっくりと、まるで犯行を覆い隠す壁のように通路を征く。
動きに合わせて、音を立てないように最大限の注意を払いながら、息を潜めて目当ての商品へ忍び寄る。
手を伸ばす。指先が触れる。
壁は気づいていない。大丈夫だ、いける。
頭がチカチカする。潜めている息が興奮で漏れる。構うな。もうあと少しなんだ。
ここだ。これだ。
取った! 取れた! 掴んだ!
やった!
早くここから動かないと、後は逃げるだけ、薬を強く握りしめ——
「クソガキがっ! 何してやがるッ!!」
とてつもなく強い衝撃に、後ろへ引っ張られたかと思うと同時に、強烈な圧迫感が腹部を襲い、肺の中の酸素を全て吐き出してしまう。
「ぅッ!!!」
何が起こった?
息ができない。苦しい。肺が失った酸素を取り戻すよう求めて必死に訴えかえてくる。
さっきまで立っていたはずだ。なのになぜ地面が目の前にある?
状況を理解するより早く、痛みが襲ってくる。
顔面を強打したのか、鼻から熱いものが滴り落ちて床を赤く染める。
「やってくれたなぁ? クソガキがよぉ……!」
頭皮をさす鋭い痛み。目の前には太い腕と、怒り狂った表情で睨みつけてくる薬屋の店主。
その瞬間僕は全てを理解した。
あぁ、失敗してしまったんだ。
僕は壁となってくれる客に意識を割きすぎていて、いつの間にか店内を巡回する店主に気づかなかったのだ。
そして襟首を掴まれてそのまま床へと叩きつけられた。
「赤い瞳……、ライオネルのところのガキじゃねえかッ!」
髪の毛を無造作に上へ掴み上げられて強制的に立たされる。
店内にいた客の視線が、騒ぎと店主の言葉により一箇所へと集中する。
僕の顔を覗き込んだ店主は赤い瞳を見るや否や、その恐ろしい形相を更に際立たせて声をあげた。
「チッ……! 盗みなんてしやがって、やっぱり犯罪者の血を引いてんだな! えぇ!?」
「違っ……!! 僕は薬を買おうとしただけでっ!」
「じゃあもちろん金、持ってきてんだろうな?」
「今はたまたま忘れてただけで! 家に帰れば……っ!」
全身の痛みを堪えながら、必死に抵抗をして言い訳を並べ立てる。
圧倒的な力の前に手も足も出ない。
周囲の客は誰も助けてはくれない。
それどころか僕を穢らわしいものを見る目で嘲笑して囃し立てる。
「あぁ、忌々しい……。赤い目の子よ」
「この街から出ていけ! 裏切り者の息子!」
「違う! 誤解なんだ! 父さんが帰ってくればっ!!」
言い終わる前に店主の太い腕が僕の顔に真正面からめり込む。
一発、二発、三発。
視界は白くなり、口の中に血の味が広がる。
次いで腹部を蹴り上げられ、再び地面に叩きつけられた。
痛い。苦しい。辛い。悲しい。
ありとあらゆる負の感情が僕を染め上げていく。
生存本能が叫ぶ。このままいけば必ず僕は死ぬ。ころされてしまう。
助けて! 叫んでも誰も止めてはくれない。
なんでなんでなんでなんでっ!
ふらふらとしながらもなんとか立ち上がり、強く握りしめていた薬を左手に持ち替えて片手で木剣を抜く。
戦わなければ殺される。抵抗しないと何もかもが終わってしまう。
僕は嬲り殺され、母は病に倒れ、父の名誉も……。
木剣を強く握り締めて店主へと突き付ける。
「なんだぁ? 騎士の真似事か? 格好つけやがって」
父から習ったことを頭に思い浮かべて懸命に剣を振る。
届かない。当たらない。どうして?
沢山訓練をしてきたのに。
いっぱい剣を振ってきたのに。
それでも木剣が店主へと触れることは決してなかった。
「そんなもん振り回しやがって! お客さんに当たりでもしたらどうしやがる! 危ねぇだろうが!」
店主が木剣の剣先を掴むと、するりと手のひらから引き抜かれる。
「やめろ! 返せっ!!」
僕の抵抗をよそに、店主は剣先と柄を左右から掴み、真ん中へと膝を当てて、一気に力を込めた。
すると、木剣は半ばからポキリと折れた。
折れてしまった。とても軽い音を立てて、この場にそぐわない惨めで、哀れな音を立てて。
真っ二つに、格好悪く折れてしまった。
「ああああああああああっ!!!!!」
同時に心のなかで何かが折れた。
それは僕にもわからない何かで、殴られたときよりもよっぽど痛くて、苦しくて、辛くて、悲しくて。
思わず叫び声を上げてしまう。
「急に叫ぶんじゃねぇ! 頭のおかしいクソガキが!」
真っ二つになった木剣が、折れたときと同じ軽い音で地面に打ち捨てられる。
その様子が全身の力を奪い去ってしまい、僕は木剣と同じように、地面へと倒れ込んでしまった。
全身を蹴り上げられるたびに丸くなる。
もう感覚は麻痺してしまって痛いのか、どうかすらもわからない。
芋虫になった気分だ。人間の気まぐれで弄ばれる哀れな幼虫。
幾度となく浴びせられる暴力によって、僕の意識は無理矢理に引き剥がされてしまった。
裏切り者の息子、そう揶揄する声を聞きながら。




