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幼少期4

4


 そうした日々がどれくらい続いただろうか。

 最初のうちは毎日が新鮮で、見るもの全てにワクワクと胸を高鳴らせていた。

 貧民街の路地は狭く、入り組んでいて、こっちには何があるのかとあちこちを探検していると、住民達が食料を分けてくれたりもした。

 家に戻り、母に食料を貰ったことを伝えると、丁寧に感謝の言葉を伝えに回っていた。

 そんな母の律儀な性格のおかげで、僕達親子は貴族を理由に迫害されることもなかった。


「ありがとうございます。本当に助かります」

 

 笑顔で感謝を述べる声は明るく、いつも通りのはずなのに、どこか無理をしているように聞こえるのは気のせいだろうか。



 父の帰りを待つ日々は希望に満ちていた。

 母は毎朝、広場に貼られる布告を確かめに行く。

 最初のうちは「まだ訂正はないけど、きっともうすぐよ」と笑って帰ってきた。

 僕もそれを信じようとした。


 でも日が経つにつれて、帰ってきたときの母の笑顔が、玄関をくぐる前に一度だけ消えるのを、僕は見てしまった。

 病が蝕んでいくかのように、じわじわと、しかし確実に、悪い噂が広がっていく。

 次第に周囲の人々も僕達親子から距離を取り始めるようになっていた。

 それに呼応するように母の体調は少しずつおかしくなっていき、ついには毎晩咳き込む音が聞こえ始めた。


 ある朝目覚めると、目の下にはクマができていた。

 よく眠れていないのだろうか。

 尋ねてみても、いつも通りに「大丈夫よ」と笑顔を見せるだけだ。

 どうしてこうなったんだろう。僕達は何をしているんだろう。そんな疑問が日に日に増えていく。


 そして僕は気付いてしまった。

 母はいつも僕の半分の量しか食事を取っていないことに。

 以前から母は僕に自分のぶんを分けて与えてくれていた。だからそのことに何の疑問も抱いてはいなかったのだ。


 母の優しさが、全身を蝕んでいく。

 自らの危機感のなさを後悔した。

 今まで見ないふりをしていた父への怒りが沸々と沸き始める。

 いったいどこで何をしているんだ?

 母さんの体調が悪いんだ。早く帰ってきてよ。


「母さん。僕はもうお腹がいっぱいだから母さんが食べてよ。それに僕は食べなくても多分大丈夫だと思う」


 手つかずのままの乾いたパンを母へと差し出す。

 純粋なヴァンパイアの父と人間の母の子である、ハーフヴァンパイアの特性が、食べ物を必要としないことを、ぼんやりと知っていたから。

 母は一瞬、目を伏せてから、優しく笑った。


「バカね。お母さんはハルトがちゃんと食べないと元気が出ないのよ。だから、ちゃんと食べて。他の子たちと同じように、たくさん食べて、大きくなるんだから」


 その言葉が、胸に刺さった。

 以前二人が話していたことがある。「俺は食わなくても生きていけるんだから、代わりにお前らが食え」という父。

 しかし母はそれを許さなかった。

 母がいうには「当たり前のことを当たり前にする。それが家族です。口答えは許しません」と半ば強引に押し切られていた。

 当時は何のことなのか、さっぱり理解できなかったが、今の僕にはよく理解できた。

 悟られないように涙を我慢しながら、僕は必死にパンを頬張って誤魔化す。

 僕達の当たり前が徐々に、でも確実に削り取られていく。


 また別の日、広場から帰ってきた母の顔色は悪く、咳も止まらないようだった。

 心配して近くに駆け寄ると、小刻みに肩を震わせているにも関わらず、全身は凄い熱を帯びている。


「ちょっとかぜを引いたみたい。寝てればすぐに治るわ」


 そういいながらいつもの笑顔を浮かべて、早々に布団に横になってしまった。

 静かになると一気に不安が押し寄せてくる。このまま父が帰ってこなければどうなる?噂は本当だったのか?

 もしもう二度と母が起きて来なければ?

 悪いことばかりを考えていると本当になってしまう気がする。

 今の自分にできることを考えてみる。

 幼い自分にできることはまだそれほど多くはないが、買い物ぐらいはできる。

 そうだ。母のかぜを治すために薬と何か栄養のある食べ物を買ってこよう。


 母がいつもお金をしまっている戸棚の引き出しを勢いよく開く。

 

「えっ?」


 想像していたよりよっぽど軽く開いたそれの中身は、ほとんど空だった。

 慌てて他の引き出しや、家の隅々まで、思い当たる所は全て探し尽くした。

 それでも見つかるのは塵や埃だけで、他には何も見つからなかった。

 結局手元にあるのは最初の引き出しに入っていた数日分の食糧費だけ。

 思い返せば最初から母は、僕に食べさせるばかりでほとんど食べていなかった気がする。

 そもそもここに来たときから既に、余裕なんてなかったのではないか?

 しばらくは困らないと母は言っていたが、僕は実際に金額を知らない。

 つまり僕を不安にさせないよう母が気を使って嘘をついていただけじゃないのか?

 内心気付いていたはずだ。だが、無意識に気付かないふりをしていただけだ。

 気付いてしまった瞬間、もう元には戻れなくなるような気がして。

 願ってしまった。まだ両親に甘えたかった。

 いったい何をやっていたんだ?


 いくら後悔したところで過去を変えることはできない。

 ならば変えられる未来に目を向けるべきだ。

 母さんを救う。そのためなら何だってする。


 僕は英雄ライオネルの息子であることを捨てる。

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