王国編5
19
私の日常に暇などというものは存在しない。
ゆっくりとした時間が流れるのは、ハンスと共にとる食事の時ぐらいだろうか。
ヴァルディス班で行う基本訓練を軸に、それ以外は常に教わった事を反芻し続け、まとまった時間が確保できれば師匠との鍛練に勤しむ。
夜になればフィオレから弓と短剣の扱いを学び、時折任務にも同行する。
任務は地味なものが大半だ。市民に扮して情報収集を行い、近隣諸国の動向を探り、怪しい動きがないか観察する。
なにも反乱の兆しを見つけるような目立った動きではない。不審な金の動き、市場での穀物や武具の値動き、商人の出入りの頻度、酒場で酔客が零す噂話の断片。
そうした地味なものを一つひとつ拾い集め、繋ぎ合わせて、大きな流れを見極めるのが主な仕事だ。
目立つ行動はむしろ危険だ。派手に走り回れば、すぐに尾行される。
だから彼女はただの行商人、ただの酒好きの旅人、ただの物好きな吟遊詩人として溶け込む。
笑顔を作り、世間話をし、時には馬鹿な質問を投げかけて相手の反応を試す。
誰もが「ただの暇な旅人」と思うように振る舞いながら、どうでもいいような情報から重要な情報まで、多岐に渡り引き出す。
彼女の提案で、一度だけ馬鹿な恋人という設定で動いてみたが、私の演技力が低すぎたのか、警戒されて有用なものは何も得ることができなかった。
地味でありながら国の命運を左右するほどの、重要で難しい仕事を容易くこなす彼女に頭が下がる思いだ。
稀に暗殺も行った。悪事に手を染め続け、国に損害を与える、表からでは手のつけられない貴族を秘密裏に消し、正常化させる。
手際の良さは見事の一言でしかない。
最小限の力で迅速に、静かに対象を打ち取り、何事もなかったかのように去っていく。
私が普段行なっている戦いとは真逆で、得るものが大きかった。
故に彼女の仕事が英雄譚として残ることはなく、誰に感謝されるものでもない。
女王と限られた数人、そして私だけが彼女が影から国を支えていることを知っている。
誰にも知られなくていい。国が平和ならそれでいいと彼女はいつも笑っていた。
あの流れるよう手付きを思い出し、正面を切っての戦いにも活かせないかと、考えながら師匠へ打ち込みを続ける。
「気が緩んでいるぞ」
「申し訳ありません」
考えることが多すぎて、目の前の訓練に集中出来ていない。
気を引き締めなければ。ただでさえ師匠やフィオレに稽古をつけて貰える時間は限られている。
僅かな時間から一つでも多くの技術を吸収せねばならないというのに何をやっているんだ。
「どうした、考え事か?」
師匠は剣を下ろし、表情をほとんど変えぬまま、眼光は私の謝罪に含まれる迷いを的確に射抜く。
「私はこのままでいいのでしょうか? 女王の傍に立つ。そのはずが未だ、何の変化も得られていません」
「焦るな。自分では気づいていないかも知れんが、お前は随分と成長した。剣の技術はもちろん、礼儀作法や教養においてもお前は教えたことを貪欲に吸収していく」
軽く目を細め、威厳の中に父性的な温かさを覗かせた。
唇の端がわずかに上がるだけで、言葉以上に私の不安を溶かしていく。
「今は静かに機を待て。実直に鍛え続ければ、その時は必ずやってくる」
師匠の一言で、心の端に残っていた小さな不安がふっと消えた。
胸の奥で揺れていた小さな翳りに光が差し込む。
「しかし、お前を見ていると懐かしい男を思い出す」
「懐かしい男?」
「あぁ、お前とよく似た眼をしていて、やり場のない力を全て民のために使い、尽くした男だ。今はどこで何をやっているのやら……」
「……英雄、ライオネルですか?」
私が恐る恐る尋ねると、静かに息を吐いた。
表情に、普段は見せぬ微かな揺らぎが生まれる。
眉間のしわがわずかに深くなり、しかしすぐに威厳の仮面がそれを覆い隠す。
「さぁ、どうだろうな。お前とよく似た野心に溢れる男だった、とだけ言っておこうか」
いつもは岩のように硬い表情の端が、微かに緩み、冷たい光を帯びていた頰に、淡い温かみが通り過ぎる。
私はそこに、師匠が滅多に見せぬ、静かな慈しみを見た気がした。
◇◇◇◇
訓練を終えて、食事を摂ろうと食堂に向かっていると、背後から勢いのある風が迫り、肩に力強い一撃が落ちた。
「よぉ!」
弾けるような声が鼓膜を震わせ、私は思わず体を硬くした。
振り向くと立っていたのは、洗練された佇まいの男だった。
逆立った髪が野性味を帯びさせながらも、全体の印象は鋭く整っている。
肩幅のしっかりとしたシルエットと、ゆったりと構えた姿勢の奥に、鍛え抜かれた身体の重厚さが漂っていた。
目が合うと、明るく気さくな気風と、底知れない荒々しさを佇ませる。
「ヴォルグさん。何か御用でしょうか?」
「いやな、最近ずっと訓練ばっかりしてるだろ? 無理してねーかなぁと思ってな」
ヴォルグ・フォン・グレイファング。
北方に住まう長命種ウルフェン。
灰色の髪を持ち、獣じみた身体能力を誇る戦士の民。
恐らく、ここヴェルトランティアで並ぶ者はいないだろうという槍の名手。
何度か哨戒任務や、野盗の討伐で一緒になり、それ以来何かと気にかけてくれている先輩騎士。
もちろんタイミングが合えば槍の指導も受けている。
私にとって気さくで話しやすい、頼れる兄のような存在、とでも言うのだろうか。
「たまには訓練なんて忘れて、酒にでも付き合えよ!」
彼はそう言いながら、大きな手を私の肩にバシンと乗せ、豪快に引き寄せてきた。
獣のような逞しい腕が首元に回り、がっしりと固定する。
「酒はあまり嗜まないのですが……」
「まじかよ! まぁ、水でもミルクでも何でもいい。息抜きも必要ってこった」
先程、師匠に言われた言葉を思い出す。
「……そんなに余裕がないように見えますか?」
「余裕っつーか、なんていうか、なんでそんなに生き急いでんだ? って感じだな」
「生き急ぐ……ですか」
「もっと楽しんでいいんじゃねーの? 気楽に行こうぜ、兄弟」
肩から腕を離し、今度は大きな手で私の背中をドンと、二度ほど叩いた。
体の芯まで揺らす衝撃には、どこか嗜める響きがあった。
「じゃあな、酒……じゃねぇや。水? ミルク? の件考えといてくれや」
豪快に灰色の髪を揺らして背を向け、力強い足音を響かせてその場を去っていった。
思えばここまで、常に全力で走り続けてきた。
そして、どうにか辿り着いた場所は、私にとってそう悪くはないものになりつつあった。
女王の傍に立ち、英雄として過去を上書きする。
そんな目的のための通過点である現状に、愛着が湧いていた。
楽しむなんて考えたこともなかった。
私の一生は罰だ。ライオネルの息子として生まれ、愚かにも母を見殺しにした私への罰。
罪を濯ぐためには女王から与えられた慈悲を、可能な限り返し、国の歯車として出来るだけ過酷な道を征かねばならない。
楽しむなんて事があってはならない。
私の国への忠誠は揺るぎない。
だが、もう少しだけ、この何でもない日常を味わいたいと思ってしまった。




