王国編4
18
山の奥深く、苔むした岩場に腰を下ろし、ゆっくりと目を閉じた。
冷たい風が頰を撫で、針葉樹の梢を揺らす低い唸りが、耳の奥まで染み入る。
遠くで谷川が岩を削る音が絶え間なく響き、時折、岩肌を蹴る小動物の爪音や、鷹の鋭い鳴き声がそれを断ち切った。
体に馴染みきった空気へ、意識を沈めていく。
脳裏に、かつて斬り合った者たちの影をイメージする。
生を欲する飢えた狼。血と泥に塗れた山賊の目。魔術を放ち剣を振るう魔導師。
そして、基礎に忠実な型を持つ剣。
この瞬間に、意識の中で再び息を吹き返し、俺の前に立ち塞がる。
目を開けぬまま、足を滑らせるように踏み込む。
山の空気を裂く刃の唸り。
体が自然に沈み、回転し、突き、薙ぎ、受け、返す。
影との戦いに容赦はない。
仮想の刃が頰をかすめ、幻の血が舌の上に広がる。
呼吸が熱を帯び、筋肉が悲鳴を上げても、剣を振るう手は止まらなかった。
一連の型が終わると、剣を地面に突き立て、荒い息を吐く。
「……これでは駄目だ」
瞼の裏で、影たちは嘲笑うように消えていく。
山が与えてくれる静寂と孤独でさえ、いつか自分を飲み込むだけのものに過ぎないのかもしれない。
再び目を閉じ、剣を構えた。
渇望が、胸の奥で獣のように唸っていた。
いつかの絶望、世界からの拒絶、早く辿り着かなければ、また暗闇に引きずり込まれてしまう。
山風が、汗ばんだ背中を押した。
まるで弱気になった心へ、立ち止まるなと囁き、鼓舞するように。
訓練場での通常の稽古が終わると、ディートリヒから様々な分野でのしごきが始まる。
剣はもちろん、教養や礼儀作法まで、多岐にわたり染み付いた癖を矯正される。
それに加え空いた時間は一人、訓練で教わった技術をひたすら反芻する。
ディートリヒは言った。
『良いものだけを残し、無駄なものだけを削ぎ落とせ』
言葉の意味をまだはっきりとは理解していないが、俺が一人で身に着けた技術すべてが無駄というわけではないはずだ。
前へ進んでいるのかどうか、自分ではよくわからない。かといって、立ち止まってしまえば何も変わらない。
結局のところ剣を振り続けることしか出来ないのだ。
「やっほやっほー! ラインハルト君、訓練の調子はどうかな?」
どこからともなく聞こえてくる無邪気な女性の呼び声。
構えたまま、周囲に視線を走らせる。斜面の上、岩陰、木の幹の向こう。何も見当たらない。
「あれ? 聞こえなかったかなぁ? ラインハルト・ド・ヴァルモント・ノワールさーん!」
「誰だっ!」
他者から聞くはずのない、捨てた家名に思わず声を荒げる。
「ド・ヴァルモント・ノワール」懐かしくもあり、忌々しい響き。
過去の名を知っているということは、俺と父の関係を知る存在だということ。
目的は何だ? 俺が兵士となったことが気に入らない誰か?
父との関係を使い、ゆすりでもしようというのだろうか。
何にせよ厄介な存在には変わりはない。
後の障害となるのであれば、排除しておく必要がある。
声をかけられたのが人気のない山で良かったと胸をなで下ろす。
「ごめんごめん! 驚かせちゃったかな?」
全身の神経を研ぎ澄ませ、ようやく声の方向に当たりをつける。
頭上。上空を振り仰ぐと、木々の枝が軽やかに揺れ、緑のマントを翻した影がするりと降り立った。
柔らかな栗色の茶髪が朝の木漏れ日に輝き、風に乱れた前髪の間から、大きな琥珀色の瞳が好奇心たっぷりにこちらを見つめている。
白い肩を露わにした軽やかな装束に二対の短剣。そして背中には大きな弓。
「どうもどうも。わたくしフィオレと申す者。以後お見知りおきを」
唇の端にいたずらっぽい微笑みを浮かべ、芝居がかった恭しい自己紹介とカーテシー。
先端を覗かせる耳は優美に尖り、白い頰には淡い桜色が浮かんでいた。
俺と同じ長命種であるエルフ。知識としては知っていたが、実際に見るのは初めてだ。
その佇まいは、まるで古木の精霊が姿を現したかのように神秘的でありながら、どこか親しみやすく温かな印象を与えていた。
「……なぜ俺の名前を知っている?」
「そりゃあもう、あれだけディートリヒさんと派手にやって、同期の人達と模擬戦でしょ? 知らないほうが難しいよ!」
「そっちじゃない」
首を傾げて考える素振りをしたかと思えば、即座に納得をして閃く。
「あぁ〜……そっち! そのへんは私がアリシア様直属の斥候だから、個人的にちょちょい〜と、ね?」
「……女王直属の斥候殿とは知らず、失礼な物言い、申し訳ありませんでした。それで私などにどういった御用でしょうか?」
女王直属の斥候。察するに間違いなく階級が上。
ディートリヒに習った目上の人間に対する言葉遣いへと切り替える。
彼女に敵意があろうがなかろうが、今は下手に出るしかない。
「急に畏まりすぎっ! まぁそれはおいといて……。あんな面白い戦いする人初めて見たからね。それで調べて見て、さらに面白そうだったから声をかけてみたったってわけ!」
「そうでしたか」
「そーれーにぃー……」
フィオレと名乗る彼女は、直立する俺の周囲を、後ろで手を組み、くるくると観察するように回りながら、何か含みを持たせた笑みを浮かべる。
なんだこいつは。目的が読めない。接する雰囲気から敵意はなさそうに見えるが、警戒を緩めない。
「そんなに面白い人が、まさかライオネルさんの息子だなんて。これって運命?」
そうだ。彼女は俺の出自を知っている人間なのだ。
父との繋がりだけではない。この調子であればホーリーナイトの件も知られている可能性がある。
それにしては妙に馴れ馴れしい。
「それがどうかしましたか? まさか、貴方も……」
「違う違う! そんな意図は全然ないから! でも、君はライオネルさんの件で大変だったんだもんね、ごめんね」
父との関係を語る人物にしては随分と好意的な態度だ。
訝しみ探りをいれると、彼女は手頃な岩に腰を掛け、脚を無邪気にぶらぶらとさせながら、己と父との関係について語り始めた。
自分は純血のエルフではなく、ハーフエルフであり、魔力を持たずに、里から浮いていたこと。
父と出会い、自身の強みに目を向けろと言われたこと。
そのおかげで女王直属の地位を手に入れるに至ったということ。
「いくら善行を重ねようとも父は王を殺害し、私の母も……」
「でも、それって逆に言えば王様をやっちゃったとしても過去に行ったことがすべて消えるってことじゃないでしょ? いいことはいいことのままだよ」
一理ある。一理あるが、どんな理論だ。
自信に満ち溢れた語り口から、謎の説得力で強引に反対意見を捻じ伏せてくる。考え方にハンスと似た適当なものを感じる。
これまでの経験から父を庇うような人物が現れるとは思っても見なかった。
彼女の声は、驚くほど軽やかだ。悲しみも、憐れみも、押しつけがましい励ましもなかった。
事実を事実として受け止め、明るい角度から照らし返すような言い方だ。
「それに私は知らない王様より、親切にしてくれたライオネルさんのほうが好きだし、あの人のことだから、ただの喧嘩がヒートアップして、ついって感じじゃない?」
「やりそー」とくすくす笑う声が、鳥の囀りのように山へと響く。
人の暗い過去を、随分と馬鹿なエピソードとして語ってくれたものだ。
その言葉は、適当で、明るくて、どこか無責任にさえ聞こえた。
でも、それが心地よかった。
深刻に受け止めすぎず、かといって軽んじもしない。
俺は剣を腰に戻しながら、ため息をつく。
あの頃から胸の奥にへばりついていた黒い澱が、ほんの少しだけ溶けたような気がした。
「まぁいいです。でも、絶対他の方には言わないでくださいよ?」
「わかってるって! フィオレさんに任せなさいよ……っと!」
会話の最中だった。
彼女がふと視線を外し、わずかに体を捻った瞬間、空気を裂く鋭い音が、耳のすぐ横を通過して髪を揺らす。
それが矢だと気づいたのは、すでに遅かった。
フィオレの右手には弓が握られ、弦がまだ小さく震えていた。
動作があまりにも自然で、流れるように溶け込んでいたため、何の反応もできなかった。
慌てて振り返り、矢の飛んだ先を目で追う。
森の木々の隙間、十数メートル先の茂みの中で、一頭の猪が短く断末魔の声を上げていた。
矢は喉元から胸の急所を正確に貫き、猪の巨体を地面に叩きつけていた。脚が二度、三度と痙攣した後、完全に動きを止める。
「……っ!」
言葉が出なかった。
ただ、背筋を冷たい戦慄と、熱い感嘆が同時に駆け抜ける。
これが斥候の実力だと?
弓を構える動作すら、ほとんど見えなかった。
話しながら、呼吸の合間に、まるで風が弓を引いたかのように。
狙い、放つ、全てが一つの流れの中に溶け込み、俺の認識を置き去りにした。
彼女は静かに弓を下ろし、こちらへ視線を戻した。
何事もなかったかのように、会話の延長として、悪戯な笑みを浮かべている。
「あれぇ〜? もしかして見惚れちゃった? 困るなぁ、いやぁ困る!」
挑発的な声色で楽しそうに煽り立てる仕草からはとても繋がらない、一分の隙もない、鮮やかな手つき。
これだ、と思った。今の俺に足りない技術。
剣だけでは間に合わない。様々な技術を積み重ねて積み重ねた先に、名を聞くだけで人々が安堵する英雄が生まれる。
「フィオレ様。どうか私に貴方様が持つ技術の一端を指導してもらうことはできませんでしょうか?」
「ええっ! いきなり何っ!?」
「私は未熟です。故に多くの達人から多くを学び、力をつける必要があるのです。そうでなければなにも守れない」
「冗談……じゃないみたいだね。うーん、困ったなぁ」
彼女は困惑を隠すように笑った。
その笑いは妙に早く、どこか宙に浮いているようだった。
「あっ、そうだ!」
「何でしょうか? 私に出来ることは多くありませんが、出来ることであれば何でもします」
「うん。それじゃあ一つだけ! その堅苦しい口調をやめること! そしたら考えてあげる」
そんなことでいいのか?
あまりにもくだらない条件に拍子抜けしてしまう。
いや、だがしかし、ディートリヒに目上の人間に対しては礼を尽くせと言われたばかりだ。
もし、また知られてしまったら、剣ではなく礼儀について何時間も語られてしまう。
かと言って、条件を飲めなければ話はなかったことになる。
ここは相手が求めているのだ。断ることが失礼に当たる。そう言っていた気がするので例外だ。そういうことにしよう。
「わかった。よろしく頼む。フィオレ」
「うんうん! 素直でよろしい! それに見た感じ私達って同い年ぐらいじゃない? 断然そっちのほうがやりやすいからね。よろしくね、ラインハルト!」
弓と短剣の指導を基本に、ディートリヒの許可があれば、任務に同行することも可能となった。
これから先、間違いなく忙しくなるだろう。なのに心臓は勝手に速くなり、期待で指先まで震えていた。
嫌な予感ではなく、待ち焦がれた何かへの昂ぶりだった。




