王国志願2
14
視界の端に、人の輪が映った。
最前列に陣取った初老の男が、腕を組んで鼻を鳴らしている。「どうせすぐ終わる」と連れに囁くのが聞こえた。
その隣では若い兵士が固唾を呑んで見守り、少し後ろでは行商人が荷を投げ出して背伸びをしていた。
忌々しいものを見る目と、純粋な好奇の目と、賭けの行方を見極める目が、ごちゃ混ぜになってこちらに向いている。
誰も彼も、俺が負けることを疑っていない。
ディートリヒは何も言わなかった。構えも取らず、ただそこに立っている。
相手は魔導師だ。ならば、答えはひとつしかない。
間合いを詰めて一瞬でかたをつける。
奴は俺の力量を知らない。だが、俺は奴が魔導師だということを知っている。
魔導師とは初めて対峙するが、性質上、距離があってこそ力を発揮するものだろう。
懐に入ってしまえば、力は活かしきれないはずだ。
獣や山賊相手に間合いを測る、慎重な戦闘とは真逆。長引けば不利。チャンスは最初の一度だけ。
深く腰を落とし、地を蹴る。できる限り速く、一息で相手の懐へ。
まだ何の構えも取っていない、無防備な姿を捉え、剣の切っ先が触れる距離。
剣を持つ手に力を込める。いける。
そう確信した瞬間、腹の底に何かが炸裂した。
「まるで獣だな」
吐き気を催す程の衝撃。視界が青くなる。
気づいた時には背中から石畳に叩きつけられていた。
肺から空気がすべて絞り出され、声すら出ない。
いくら胸を広げようとしても空気が入ってこない。
喉は水底から水面を見上げる魚のように、ただ虚しく開いては閉じた。
何が起きたのか理解できないまま、ただ空を見つめる。
青い空だ。雲が、ゆっくりと流れている。
しくじった。なぜこうなったのかはわからないが、唯一のチャンスである最初の一撃を逃したことは確かだ。
背中の冷たい感触に、力量の差を見せつけられて打ちひしがれる。
輪の中の空気が、ふっと軽くなった。
声を上げる者、拳を握る者、隣の者と顔を見合わせてにやりとする者。
反応は様々だったが、向けられる目の色は皆同じだった。
溜飲が下りた顔だ。
俺が地に転がる。それだけで、これだけの人間が安堵する。
そういう街に、俺は帰ってきた。
あぁ、益々お前達の期待を裏切ってやりたくなってきたよ。
「視覚情報だけに惑わされるな。立て」
「言われなくてもわかってるよ……クソジジイ」
「ふん。生意気な小僧め」
体に命じながら、手のひらをついて上半身を起こす。
ディートリヒは同じ場所から動いていない。
だが、右の拳だけが、仕掛ける前よりわずかに前に出ていた。
魔術ではない。純粋な拳打。
何のひねりもない一撃が軽々と体を打ち上げたのだ。
棒立ちのまま、巨体から放たれた拳一発。
それだけで、ここまで吹き飛ばされた。
笑えない話だ。懐に入れば勝てる。そう思って踏み込んだ瞬間に、逆に懐に入られていた。
なんだって魔導師がここまで肉体を鍛えている。近接戦闘を専門にしてきた人間を、こうまで軽くあしらう魔導師など反則に近いだろう。
憎々しい視線を一蹴する鋭い眼光が、次の手を見逃さぬように一層圧力を増す。
「待ってろ。すぐ終わらせてやる」
声に出てしまったのは、自分に言い聞かせるためだったかもしれない。
再び距離を詰めようと踏み出した瞬間、空気が変わり始めた。
肌で感じる気配。来る。
魔術が放たれる。
左から光の筋が走り、咄嗟に剣で弾く。
捌いても捌いても、退路には別の魔術が敷かれ、攻勢に転じることを許さない。
前から来た炎の爆圧は低く潜って躱す。躱した先にまた光。弾いた先には雷が落ちる。
四方八方から絶え間なく降り注ぐ魔術の雨に距離から拒絶される。一歩進むたびに二歩押し戻される。
最悪だ。完全に奴の土俵に立たされてしまった。
腕が痺れる。足が重い。それでも止まれば終わりだと、体が勝手に動き続ける。
これほどまでに魔術は暴れ狂っているというのにも関わらず、器用な事に野次馬共には一切被害が出ていないのが馬鹿げている。
どれだけの数の魔術を捌いたのかわからない。
気がつけば膝をついていた。
剣を杖代わりに体を支えながら、荒れた息を整えようとする。
それでも距離は、まだ半分も縮まっていなかった。
「それで終わりか?」
ディートリヒの声に、侮りはなかった。ただ確認するような問いだった。
答える代わりに立ち上がった。そうすることしか出来なかった。
減らず口を叩いている余裕はもうない。
今度は魔術の合間を縫いながら、体を引きずるようにして距離を詰めていく。
まともに魔術を受けていては駄目だ。体力が消耗していく一方でちっとも進めやしない。
相手の魔力切れを待とうにも先に限界が来るだろう。
腕はもう感覚が薄い。握っている剣の感触も曖昧だ。
体力は残り少ない。チャレンジ出来る回数は僅か。
そんな中頼りに出来るものは、森で養い続けた獣じみた速さのみ。
まだ足は生きている。やれることは残っている。
受けることをやめ、魔術に慣れてきた目を凝らしてなんとか掻い潜り、ようやくディートリヒの前に辿り着いた矢先だった。
次の一手を考えたのもつかの間、相手の手に青白い光が集束されていく。
現れたのは魔力で形成された剣。
どこまでふざけているんだ、この爺さんは。
俺への当てつけか? それとも指南のつもりか?
振り下ろされた刃を受けた瞬間、感覚の薄いはずの腕が熊の突進を思い出し恐怖する。
面ではなく、線に凝縮された力。
重い。重すぎる。
万全の状態でないことを差し引いても、重く鋭い一撃。
山賊の剣などとは比べ物にならない。これが英雄と謳われる男の太刀筋。
受け流そうとしても力が通らない。押し込まれ、弾かれてしまう。
まただ。また近付くところからやり直しなのか。
体が言うことを聞かない。心が折れそうになる。
石畳に転がったまま、しばらく動けなかった。
全身が重く、腕を持ち上げるだけで痛みが走る。
横目で確認する。まだ剣は手の中にある。
こんなに転がったのは久々だ。情けなさと相まってもはや懐かしさすら感じる。
子どもが、声を上げた。
「また立った」
無邪気な声だった。
だが、その言葉に、輪の中の大人たちは誰も反応しなかった。できなかった。
腕を組んだまま押し黙る者、視線を逸らしかけてまた戻す者、小声で何か言いかけて口を閉じる者。
認めたいわけじゃない。ただ、続きが気になる。その程度だ。
そう自分に言い聞かせているような顔が、輪の中に並んでいた。
誰一人、動こうとはしていなかった。
もっとだ。もっと寄越せ。
この薄汚れた汚い地べたが、お前達の嘲笑が、憐れみが、過去を蘇らせ、俺を何度でも立ち上がらせる。
立て。
まだ終わりじゃない。
みっともなく、惨めに、体を起こす。
膝が震えて、目で確認しなければ、剣を握れているのかすらもわからない。
視界は赤く染まり始め、見えているのは奴だけ。
それでも足を前に出した。
ディートリヒが浅く上を見あげる。
その目に、初めて別の色が混じった。驚きではない。
呆れだ。
「……こんなものか」
まだ終わってはいない。だというのにクソジジイは既に終わった気でいる。
沸々と沸き立つ怒りのおかげで目が覚め、徐々に思考がクリアになっていく。
終わった気でいる? じゃあなぜさっさとトドメを刺さない?
いつでも魔術で仕留められたにも関わらず、俺が立ち上がる隙を見逃していたのはなぜだ?
こんなところで、わざわざ試す理由があるのか?
『私を倒せ』ではなく、『覚悟』を見せろと言った理由が。
魔力の剣が構えられる。同じ剣技で実力の差を分からせようという魂胆だろう。
今度こそ終わらせに来る。気配を嗅覚で察知する。
わかった上で、ゆっくりと進む足を止めなかった。
乗ってやる。全てを出し尽くし最高の形で分からせてやる。
これは賭けだ。成功するかどうかはわからない。
失敗すれば俺はここで終わりかもしれない。だが、何もせずに終わるよりはよっぽどマシだ。
向かってくる。初めて奴が自らの脚で距離を詰めてくる。
来い。もう駆ける体力など、とうにない。そちらから仕掛けてくれるなら好都合。ラストチャンスだ。
右手に持っていた剣を左手に持ち替えて突き付ける。
ブラフ。誤認しろ。
あっという間に目の前まで到達したディートリヒの剣閃が放たれた。
ここだ。これを逃せば俺は何者にもなれない。
「せいぜい役に立てよッ! クソ親父ッ!!」
受けなかった、躱さなかった。
代わりに剣を握る左腕を差し出した。
刃が腕に食い込む感触と、骨が断たれる鈍い音。
激痛が脳を焼くより先に、腕が宙に舞い、血の雨が降る。
━━━━これでいい。
その一瞬、ディートリヒの体が止まった。
舞い上がった自らの左腕を、残った右手で掴み取り、握ったままの刃を首筋に這わせる。
「あんたが最初に言ったことだろう? 視覚情報に惑わされるな、だったか?」
俺も奴も、野次馬でさえ動かない。
戦いの熱と、血の匂いだけが残る。
「……見事」
拍手でも称賛でもなく、ただその一言だけが、石畳に落ちた。
静寂が、場を支配した。
最初に動いたのは子どもだった。何が起きたか半分もわかっていないだろうに、ぱちぱちと手を叩き始める。
それに続くように、ぽつり、ぽつりと散発的な拍手が起きる。
熱狂とは程遠い、認めることへの抵抗を引きずったような、不承不承の拍手だ。
初老の男は腕を組んだまま、ただ黙って視線を逸らし、何かを呟く。
街の喧騒が、遠くから戻ってきた。
もう本当の本当に体力は残っていない。完全に出し尽くした。
ディートリヒの厚い体に全身を預けるように倒れ込む。
ざまあみろ。俺はここにいる。この街に帰ってきたぞ。
心地のいい疲労感と共に、世界はゆっくりと遠ざかっていく。
女王の隣に立つ、己の姿のみを残して。




