王国志願1
13
久々に訪れた故郷の街の門が見えた頃、思わず足を止めて、深く息を吸い込む。
街を出たあの時とは大きく様変わりをしていた。
壁は補強され、衛兵の数も増えている。
女王の治世のおかげだろうか。守りは堅牢であればあるほど外敵への威圧にもなるため、強化しておいて損はない。
門へと続く列に加わりながら、遠くからゆっくりと視線を巡らせる。
石畳は以前より整えられ、露店の並びも変わっていた。
それでも風に乗って漂う焼き立てのパンの匂い、鍛冶場の鉄と炭の匂い、どこかの花屋から零れる甘い香り。
それらが重なり合った、雑然とした空気だけは記憶の中のままだった。
幼い頃、この道を母と歩いたことがある。温かい手に引かれて、石畳の継ぎ目を踏まないように跳ねながら。あの頃の自分には、門がひどく遠く、高く見えた。
順番が来て、衛兵の前に立つ。
「次。名前と目的を……」
言いかけた衛兵の口が止まった。
視線がこちらの目に釘付けになる。赤い。そう気づいた瞬間の、表情の変わり方を、自分は何度見てきたか知れない。
やはりな。薄々はそうなるだろうと思っていたが案の定だ。
「……名前と目的を言え」
今度は声のトーンが違った。先ほどまで前の旅人に向けていた事務的な声ではなく、値踏みをするような、低く平たい声。
「ラインハルト。故郷に戻ってきた、それだけだ」
衛兵は仲間と目を合わせた。もう一人がこちらに歩み寄り、やや離れた位置で立ち止まる。囲むほどではないが、逃がさないという意思を示すような立ち位置だった。
「許可出来ない。ヴァンパイアの血を引く者は一切受け入れていない。元いたところへ帰るんだな」
「そんな法があったか? 俺の記憶が確かなら、種族を問わず受け入れていたはずだが」
まさか、ここまでとは思っても見なかった。
ざわ、と列の後ろが揺れた。好奇の視線と、不安の視線が混ざり合う。
子どもを抱えた母親が、一歩後ずさるのが見えた。
知っている。胸を刺す感覚も、何度でも味わってきた。
深く息を吸う。街の空気を、もう一度確かめる。
「俺は騎士団への入団を志願しに来た。ヴェルトランティアの、女王の剣になるために」
「……なんと忌々しい」
「おかしいか。国を守りたいと思う気持ちに、種族が関係あるのか?」
衛兵の顔に、今度は別の色が滲んだ。静かな哀れみと侮蔑。
「関係大ありだ。アストランディアはな、お前みたいな不吉な輩にだけは特別厳しいんだよ! わかったらさっさと帰りやがれ、クソったれが!」
衛兵の手が、突き飛ばすように胸をぐっと押した。
痛い。今でも確かに痛い。
だが。
「俺は俺だ」
声は静かに出た。怒鳴るよりもずっと、はっきりと。
「やる気がないなら代わりをやってやるよ。お前にこの剣は重すぎるだろ?」
衛兵の腰から即座に抜き取った剣の切っ先を突き付ける。
悪い癖だ。あいつらと長くいたせいで、こんな事ばかり上手くなってしまった。
「貴様っ!!」
ようやく突きつけられた剣が、自分のものだと気付くと、顔を真っ赤にしながら、乱暴な動きで手を伸ばす。
風向きが緩やかに変わる。
押し殺した笑いが、空気をわずかに震わせ、彼一人だけを確実に包囲していた。
俺の啖呵が聞こえたのか、それとも騒ぎの気配を察したのか。
少し離れた場所から、ゆったりとした足取りでこちらへ向かってくる人物がいた。
衛兵たちの背筋が、微かに伸びる。
「何の騒ぎだ」
後ろに何人かの部下を引き連れて現れたのは、装飾の施された漆黒のローブを身に纏う大男だった。
大きい。まず初めに頭に浮かんだ感想はそれだけだった。
ローブから覗く手の甲には、幾度もの殴打が刻んだ古傷が走っている。
剃り上げた頭、白銀の口髭、そして岩盤を思わせる肩幅。額に刻まれた皺が年月を感じさせる。
彼は書斎の人間には見えなかった。
ローブの装飾は権威を示すが、装いの下に潜む肉体は、いまだ現役の戦士のそれだった。
「アイゼンヴァルト卿! それがこの者がどうしても兵士になりたいと……」
アイゼンヴァルト。聞いたことがある。
ディートリヒ・アルヴェルト・フォン・アイゼンヴァルト。
武のライオネルの華やかな逸話に比べ、あまり語られることがない、謂わば影の英雄として王を支え続けたという、知のディートリヒ。
「あいつが知らないことはない」と父は言っていた。「古代語の写本も、毒の調合も、果ての地の地理も、尋ねれば淀みなく返ってくる」と。
言葉を反芻しながら再び男の姿を見上げる。
一瞬、人違いかと疑った。
目の前に聳え立つ男は、書物に囲まれた碩学などではなく、戦場からそのまま連れてきたような大男だったからだ。
「此度の徴募には制限をかけていなかったはずだが?」
「それがですね……この者はその……」
衛兵は言い淀みながら、俺の目へと視線を巡らせる。
釣られるように、ディートリヒと視線が重なる。
見つめられるだけで射殺されそうな碧い瞳を、真正面から受け止めた。
逃げない。揺れない。ただ、静かに見返す。
「なるほどな。そういうことか」
呟くように言って、相手は目を細めた。
責めるでもなく、哀れむでもなく、ただ長い時間をかけてようやく答えに辿り着いたような顔をしていた。
「確かに、そのまま通してしまっては上の連中も納得しないだろう」
「では……」
「以降は私が引き継ごう。持ち場に戻れ」
二人を残して、検問が再開される。
「この国では、お前のような吸血種が王を殺害するという事件が起きて以来、赤い瞳は不吉の象徴だ。お前を受け入れることはできない」
話の分かるやつが出てきたかと思えば、またそれか。
どこまで俺の足を引っ張れば気が済むんだ、クソ親父。
女王の騎士になる。ただそれだけを支えに、ここまで生きてこられた。
こんなところで足踏みをしている場合ではない。
功を立て、より女王に近い場所へと上り詰めなければならないというのに、いつもいつも肝心なところで邪魔をされる。
「俺を使え! あんな連中なんかよりも、俺のほうが役に立つ! 女王を守れるっ!」
ここで引き下がってたまるか。
心に空いた穴を埋められるのは女王の隣だけだ。
「ほう? そうまでしてなぜアストランディアの兵にこだわる?」
「俺は幼い頃、アリシア様に救われた。恩を返すために自らを鍛え上げ、それだけを目標に今日まで生きてこられた」
自暴自棄になり、何もかもを投げうって絶望していた頃を思い出す。
抱きしめられた時の温もりを、かけられた言葉の優しさを。一語一句噛み締めながら声を絞り出す。
こいつに隠し事は逆効果だ。どんなに取り繕っても見透かされてしまうことを本能が訴えかける。
ディートリヒは顎に手を当て、少し間を置いた。
品定めをするような沈黙ではなく、答えを楽しんでいるような間だった。
「だから、ここで引けば、もう後はない」
『後』という言葉が何を指すのかは言わなかった。
説明するにはあまりにも多くを含みすぎる。
上手く汲み取ってくれることを祈ることしか出来なかった。
ディートリヒはしばらく無言でこちらを見つめていた。碧い瞳の奥で、何か重いものがゆっくりと回っているのが感じられた。
まるで古い書物を一ページずつめくる、慎重で、しかし確かな視線だった。
「アリシア様の恩……か。なるほどな」
低く、響く声で繰り返した。声の底には、わずかな興味と、それ以上に深い探るような響きがあった。
「確かに、お前はただの吸血種ではないようだ。度胸もあり、鍛え抜かれた体を見れば、並の若者とは違うことがわかる。……だが、それだけでは足りん」
ディートリヒはゆっくりと腕を組み、漆黒のローブがわずかに擦れる音を立てた。
背後の衛兵たちが息を潜め、遠巻きにこちらのやり取りを見守っているのがわかった。
街の喧騒さえ、どこか遠のいたように感じる。
「それでも、お前は『俺を使え』と言う。ならば、証明してみせろ。お前の言葉が、ただの熱病じみた戯言ではないことを」
ディートリヒの口元に、わずかな笑みが浮かんだ。
それは嘲りではなく、試すような、獣が獲物を前にした時の興奮に似たものだった。
「私と戦い『覚悟』をみせろ。もし私を納得させることが出来たなら、お前を兵士として推薦してやろう。騎士団への道も、開けてやる。ただし……」
彼はそこで言葉を切り、ゆっくりとローブの前を開いた。
惜しげもなく鍛え抜かれた上半身を晒す。
古傷が幾重にも走るその体躯は、確かに書斎の賢者などではなかった。
「お前が何も示せなければ、お前は大人しく街を去れ。二度と、女王の名を口にすることなく、な」
周囲の空気が、一瞬で張りつめた。
俺は静かに息を吐いた。
心臓の鼓動が、いつもより少し速く感じる。
だが、恐怖ではなかった。
これは、ようやく手に入れた機会だった。
やるか、やらないかの選択肢など、端から存在しない。
相手がいくら強敵であろうと、やらなければ俺は存在できない。
「望むところだ」
短く答え、傍らの衛兵から剣を借りる。刃が、陽光を反射して鈍く輝いた。
「来い、ラインハルト。私がお前の覚悟の重さを量ってやる」
ディートリヒは構えを取らず、ただ悠然と立っていた。
それが、かえって圧倒的な自信の表れであることを、俺は肌で感じていた。
これが、俺の運命を分ける一戦になる。
足を踏み出しながら、心の中で静かに過去へ誓った。




