サバイバル1
9
山の入り口まで来る頃には、日が傾いていた。
持ちものは何も持ってきていない。もちろん武器などもなく、完全にこの身一つ。
盗めば多少準備は出来ただろうが、正しくない行いは騎士になるためにもうしないと決めたのだ。
死地に自らを追い込むとはいったものの、木々の影が長く伸びるのを見ると、足が少し震えた。
最初の夜はすぐに訪れた。
焚き火の作り方もろくに知らない僕に、闇から飛びかかってきたのは飢えた狼だった。
何の前触れもなく、足音に気付いた時にはもう遅い。
心の準備だとか、暗闇に慣れるまでとか、こちらの都合など一切お構いなしに狩りが始まる。
「よせっ! 僕は餌じゃ……」
言葉が終わる前に牙が肩に突き刺さった。
すぐに熱い血が溢れ出していく。
勢いのままに地面へと叩きつけられ、背中を強打する。
店主に殴られたときや、石を投げられたりする痛みとは全く違い、死がすぐ側にいることを実感させられる。
無駄のない生きることに特化した、しなやかで洗練された大きな体躯。
新入りに一方的な生存競争を押し付け、命を奪うことへの恐怖を感じる隙すらも許さない。
これだ。この感じ。
生か死か。喰うか、喰われるか。
今、場を支配する事実は二つしかない。
町で受けたものより、純粋な痛みな分だけ随分と心地がいい。
突然の出来事に戸惑いながらも、妙な高揚感と共に思考は冴え渡っていた。
お前が俺を殺すというなら、お前も俺に殺される覚悟があるっていうことだよな?
僕は咄嗟に狼の首を抱き込み反転、地面に叩きつけた。
「お返しだっ!」
形勢逆転とは言い難いが、先程とは逆の形で狼へのしかかる。
依然牙は肩に食い込んだままで、所詮は人間の子供の重さ。全体重を乗せたところですぐに返されてしまう。
わかっている。ただ反射的に動いただけだ。
もしくは頭では理解していても、そうすることに本能で躊躇っていたのかもしれない。
武器も持たず、現状の力では何をしてもこいつには勝てないだろう。
堅牢な骨、硬い皮膚に、分厚い毛皮。どこを取っても有効な一撃は入れられそうにない。
ただあるとすれば一点だけ。
暗闇で肩を引き千切らんと暴れ回る狼の頭を手でなぞり、急所を的確に探り当てる。
見つけた。緩やかな曲線を描き、少し湿り気のある球体の手触り。
その小さな隙間に向かって、後先考えずに情け容赦なく指を全力で突き入れる。
ぐにゃり。生温かい感触と僅かな反発。固めのゼリーを指で掬ったときのよう。
「――!!」
狼は声にならない悲鳴をあげてもなお口を開かない。
獣とはこうも怯まないものなのか。ならもっと強い刺激をくれてやる。
既に潰れた左の眼球の更に先。脳髄を抉る勢いで力を込める。
指先に激痛が走る。おそらく指が折れたのだろう。でも、構うものか。
ここで躊躇えばどうせ死ぬのだ。
再生出来る部分など幾らでもくれてやる。
怯んだ狼の頭を自らの身体ごと何度も叩きつけて強引に肩から引き離す。
それで終わりではない。こいつにはまだもう一つ弱点が残っている。
右の眼球も同じように潰す。もう逃さない。
両方の眼球を起点にがっしりと顔を掴んでがむしゃらに岩に、木の根に、地面に打ち続ける。
やがて狼が何の反応も示さなくなったことに気づいたのは、日が昇り朝になってからだった。
達成感はない。これから日常となる出来事にいちいち心は動かしていられない。
あるのはおおよそ騎士を目指す者とはいえない醜い姿と、戦い方で勝利したという事実のみ。
それでよかった。勝ち方に拘るなんていうのはもっと強くなってからだ。
狼の全身から溢れ出している血を舐める。
生臭く舌に張り付いて不快な味が口内を蹂躙する。
端的に言ってまずい。純粋なヴァンパイアはこれを好んで飲むというのか?
ハーフの口にはどうにも合わないようだ。
度重なる再生能力の急激な活性化、そしてとどめはこいつとの殺し合いだった。
どうにも、僕の血に流れている本能の覚醒を感じる。
幼い頃はおぼろげに母とは違うと感じていた体のつくりを理解する。
何を欲して、どう生きるべきか。そういった類の性質が、熱く循環する血液を通して頭に流れ込んでくる。
だからこそ自らにルールを一つ課そうと思う。
『仕留めた獲物は必ず食べること』
より強く、より深く、追い込むために条件が必要だ。
ハーフヴァンパイアにとって、食事のほとんどは娯楽。
というのも、一度食事を取ればしばらくの間は必要がない。
少量の栄養摂取で魔力を作り出し、体内で循環させ活動することができる。
恐ろしくエネルギー効率が良いのだ。
つまり人間と違い、生命活動の維持のために毎日食事をすることは必須ではない。
恐らく力の出力を抑え、身体の時間を止めることで長い間を生きられるだろう。
これは理屈ではなく本能であり、ヴァンパイアの血を人間である母が希釈したために持った特殊な性質だ。
では、なぜそんなルールを課したのか?
答えは二つだ。
力を十全に発揮するには多くのエネルギー源を必要とすること。
もう一つは母の死を無駄にしないために。
ここで僕が食事を取らずにひと月過ごしたとして、母が自らの命を削り、僕に毎日与えてくれた食事はどうなる?
全くの無駄だったということになってしまう。そんなことには絶対にさせない。
例え獣のような勝ち方でも、人間の矜持は捨てず、本物の化け物には成り下がらない。
まぁ、口元を血で濡らし、傷跡から肉を裂き、喰らう姿では説得力がないだろうが。
忌々しい血でも、目的のためにせいぜい利用させてもらおう。
それからは獣相手に同じ日々を繰り返し、己を追い込み続けた。
獣は小さいものなら野兎や狸など、素早く機敏な動きをする動物を相手に動体視力を養い、罠の張り方や、待ち伏せなど正攻法ではない戦い方も覚えていった。
好戦的なこちらを餌と認識しているものより、逃げるもののほうが意外と狩ることが難しい。
奴らの習性を知り、理解することで息をするように狩ることができるようになった。
もちろん狼や猪、鹿のような中サイズの相手から熊のような大物も相手にした。
これに関しては初めに戦った狼の骨を岩で削って作った、骨ナイフの存在が大きい。
ナイフがあることで随分と人間らしい戦い方ができるようになった。
急所を的確に突き、仕留めた獲物の皮や肉を剥いだりと大活躍だ。
獣だけではない。人間も相手にした。
相手は生活に慣れてきた頃に出会った人攫い二人。
こいつらはあろうことか、俺を脱走した奴隷か何かと間違えて捕まえようと襲いかかってきた。
だから殺した。何のこともない。
戦闘が始まれば動物を狩るときと何も変わらなかった。狡猾に罠へと誘導し、いつも通りに仕留める。
最初は人間相手に躊躇うかと思ったが、男の首を裂くときには何の感慨も浮かばなかった。
ルールを設けてもさすがに人を喰うのは本末転倒なので、死体はその辺に捨てて、奴らの武器である手斧だけを頂いた。
おかげで随分と狩りが効率的になり、最近では傷を負うことも稀だ。
感覚は研ぎ澄まされ、身体は極限まで磨き上げられていた。
うずくまるだけだった惨めで幼い自分を思い出す。
あの頃の俺はもうどこにもいない。
季節は巡る。
いつからか数えることをやめたまま、春がまた訪れようとしていた。




