青朝
杜尋雲は、率直に言ってしまえば医師に向いていない女だった。根っからの落ち着きのない性質なのだ。気ままにパジャマを引っ掛け、サンダルを突っかけて夜市へ繰り出し、夜食をつつきながらビールを二杯あおる――そんな時間が何よりの好物だった。
臨床医。
定時退勤など望むべくもない職業であり、安らかで静かな夜など欠片も存在しなかった。
幸いなことに、夜市は23時に行っても、深夜1時に行っても明かりが灯っていた。
顔馴染みの店主は好みの味付けを熟知しており、顔を見せて席に座りさえすれば事足りた。
それが、今では。
彼女は静まり返った夜を手に入れていた。
夕食を終え、杜尋雲は舌先で唇をなぞった。昼食は肉や魚の料理が三品、野菜料理が三品、さらに果物と点心まで付いていた。夕食もほぼ同等の豪勢さで、乳製品まで添えられており、現代での生活水準と大差ない暮らしぶりだった。だがこの時代には近代的な畜産業などないのだから、庶民がこれらを口にできるはずもないだろう。
「あなたたち、本当に一緒に食べないの?」
「滅相もございません」三人の宮女は揃って首を横に振った。
彼女が立ち上がると、宮女たちがすかさず歩み寄って着替えの手筈を整える。手順をすっかり覚えた杜尋雲は、両腕を広げて上着を脱がせてもらった。
その後、太監が煎じ薬を運んでくるのを待つ。
若竹の視線を受けながら、彼女はそれを一息に飲み干した。
今日のところは書物に一通り目を通し終えていた。だが、一つだけ腑に落ちない点がある。
元いた時間軸の清朝では、男性は前頭部を剃り落として辮髪を結っていたはずだ。それは満州族の文化と信仰に根差したものであり、満州族の支配下にある多民族国家において、被支配層へそれを強制することは統治階級の論理として極めて理に適っていた。
反清復明の気運を抑え込み、政権を強固にする。
皇帝が誰であろうと、自らの独自色を喧伝せずにはいられないはずだと杜尋雲は考えていた。
現代人の視点から見れば、植民地支配もこれと同じ構図だ。
これまでの見聞から、彼女が確信できたのは以下の点だった。
文化や宗教は統治階級にとって極めて重要な道具である。
科学や教育が未発達な地域ほど、民衆を縛るためにそうした概念を必要とする。
道徳を教え込み、何をしてよくて何をしてはならないかを定め、誰もが何を畏怖すべきかを刷り込む。
支配者にとっては、単に軍を派遣して武力鎮圧するよりも遥かに安上がりなやり方だ。
ところがこの世界は、特定の宗教を押しつけることもなく、それらをあっさりと融合させてしまっている。
あまりに不可解だった。
科学技術が極限まで発達した彼女の現代社会ですら、宗教の傀儡と化し、互いに依存し合っている政府は数多く存在する。
この王朝は、一体どうやって天下を平定したというのか。
奇妙なことに、書物の記述から察するに、現在の皇帝「康希」は元いた世界の康熙帝その人らしかった。治世はすでに中後期に差し掛かっており、次の皇帝の即位まではあと二十年も残されていない。
ならば、次の皇帝は……考え事をしている間に、杜尋雲の衣服は見る見るうちに脱がされていった。
「ん?」
宮女たちが大きな桶に熱い湯を汲んで運んできた。
「自分で拭くからいいわ」彼女は手拭いを受け取った。
まったく、昨日は病み上がりだったせいで、こんな手順は省かれていたのだ。杜尋雲はこめかみを軽く揉んだ。
次の皇帝は、四阿哥、第四皇子だ。
「若竹、今宮中には皇子様が何人いらっしゃるの?」
若竹は傍らで声を潜めた。「五方にございます。大阿哥、二阿哥、三阿哥はすでに成人なされて宮殿を出ておられますが、昼間は政務を学ぶため登庁なさいます」
杜尋雲の記憶では、歴史上名高い「九子奪嫡」――九人の皇子が帝位を巡って争ったはずだ。皇子の総数は九人どころではなかったはずだが、現状ではまだ五人しかいないという。この世界では歴史が異なっているのかもしれない。それ以上の詳細となると、彼女には見当もつかなかった。
――もっと真面目に歴史を勉強しておけばよかった。
歴史は彼女にとって最も苦手な科目で、その後迷わず理系へと進んだのだった。一生使うことのない知識だと思い込んでいたツケが、ここに来て回ってきた。まるで盲目になった気分だ。有名な歴史的事件の名称くらいは知っていても、具体的な中身などさっぱり分からない。
まさか……タイムスリップして数日で、いきなり明朝に逆戻りしたりはしないだろうな。
そこまで考えると、杜尋雲は眩暈すら覚えた。
「四阿哥様なら」若竹がふと静かに口を開いた。「主子もすでにお目にかかられましたよ」
「えっ」
あの子供が?
杜尋雲は驚きのあまり桶に身体をぶつけ、湯面にさざ波が立った。
あんなに小さい子が!? 見たところまだ八、九歳程度だったはずだ。
おかしくないか!?
彼が即位した時は、四十歳を優に超えていたはずだ。この計算でいけば、あの子が即位する頃にはまだ三十歳にも届かないことになる。
……やっぱり、歴史の勉強なんて何の役にも立ちやしない。
彼女は身体を拭きながら、再び思考の迷宮へと沈み込んだ。
強権的な民衆統治を行わなかったせいで、初期の天下平定に時間がかかり、子作りの時期が全体的に遅れたのだろうか? それとも、自分の計算が根本から間違っているのか……杜尋雲は深呼吸を一つした。湯面を見つめながら心を落ち着かせる。そもそも、自分の頼りない歴史知識など当てになるはずがないのだ。あれこれ考えたところで時間の無駄というものだ。
聴蘭が絶妙な頃合いを見計らって寝所着を運び、若竹がそれを杜尋雲に着せ掛けた。
杜尋雲は宮女たちの姿をまじまじと観察した。間違いなく、彼女たちの衣服は一見すると清朝風に見えるものの、どことなく漢服の意匠が混ざり合っている。
もっとも、自分が観ていたテレビドラマの描写がおかしかっただけの可能性もある。もっとしっかり勉強しておくべきだったと、彼女はまたしても後悔を滲ませた。
思わず溜め息がこぼれる。
「主子、ご心配なさいますな」
「え?」
「上様は慈悲深いお方にございます。主子のお心の準備が整わぬうちに、夜伽をお命じになることなどございますまい」
はあ。
誰がそんな心配をしているものか。
ああ、だが十四歳の少女なら怯えて当然の年頃か。
本当に、子作りが遅れているだけだったりして。
元の歴史で康熙帝が何人の子供をもうけたかさえ定かではないのだから、気に病むだけ馬鹿らしい。
杜尋雲はもう一度溜め息をついた。
もしかすると明日の朝目覚めたら、周りを同僚たちに取り囲まれて「あははははは、マジで信じちゃったの!?」と爆笑されるのではないか。
それにしても、どうして皆下がろうとしないのだろう。おや? この時間は一体何をする時間なのだ? 杜尋雲は所在なさげに窓の外を見やった……ああ、夜伽の召し出しがあるかどうかを待つ時間か! だが、自分はまだ嬪に昇格すらしていないというのに、それでも待機しなければならないのか?
「主子、あとは儀式を残すのみとなっております。外の手配はすでに整っておりますゆえ、主子が嬪となられるのは間違いございません」
へえ。
やはり軍事力こそが絶対的な権力基盤というわけか。
「お召し出しがないなら、自由に過ごしていいのよね?」
「はい、左様にございます」
早く言ってくれればいいものを。どうせ自分にお鉢が回ってくるはずなどないのだ。彼女は寝台に跨がって横向きに寝そべった。普段なら、スマートフォンをいじるのに打ってつけの体勢だ。
実に退屈だった。
「じゃあ、みんな下がっていいわよ」
「失礼いたします」
聴蘭と素梅は後ずさりしながら戸を閉めて退出していった。しかし、若竹だけは珠簾の奥の隅へと退いたきりだった。
見れば、そこには丸い腰掛けが置かれていた。てっきり植木鉢を置く台かと思っていたのだが、どうやら彼女の控え席だったらしい。
昨日は気づかないまま眠り込んでしまっていた。杜尋雲はごくりと唾を飲み込んだ。「若竹……それって……」
「今宵は私が宿直の当番でございます」
なるほど、夜中に主子がいつでも下僕を呼びつけられるようにするための待機というわけだ。
「じゃあ、昨日は?」
「昨日も私が当番を務めさせていただきました」
ちょっと。連直なんてさせるわけにいかないでしょうが。
「主子、ここ数日は警戒が必要な時期ゆえ、他の宮女に当番を任せるわけにはまいりませぬ」
「あなた私の身の回り専属で、あの子たちは建前上、貴妃様の宮女だから……ってこと?」
若竹は小さく頷いた。「聴蘭と素梅をお気に召しましたなら、貴妃様と女官にお願い出て、共にお連れすることも叶いますよ」
「ふーん……」杜尋雲は頭を支えながら、その丸椅子をじっくりと眺めた。脚の部分はくびれから外側へと膨らみ、再び内側へと収まる優美な曲線を描いている。そういえば祖母の家にも似たような家具があった。明清時代の様式だったはずだが、この世界の調度品も大差ないらしい。
「若竹」
「はい」
「こっちにおいで」
呼ばれた若竹は寝台の脇へと歩み寄った。
「脱いで」
若竹の目が丸く見開かれた。
彼女はおずおずと宮女の上着を脱ぎ、白い肌着姿になった。
「一緒に寝よう」
あまりのことに、若竹はその場に膝をついてしまった。
「普通に寝るだけ。横になるの。ほら早く」杜尋雲は掛け布団をめくった。「命令よ」
「蕭貴人様……」若竹は抜き足差し足で寝台へと這い上がった。「もし女官に見つかりでもしたら……」
「見つかるわけないじゃない、防犯カメラがあるわけでもなし」
若竹はそれ以上問い詰めることもできず、杜尋雲の隣に横たわったものの、瞬きすらできずに微かに震えていた。
彼女の目には、主子が恐怖のあまり一時的に正気を失っているだけの奇行に映っているのかもしれず、仮に見咎められたとしても大目に見てもらえる……はずだ、と自分に言い聞かせているようだった。
死罪に問われるほどの罪ではない。
そう思うのが関の山だろう。
杜尋雲にしてみれば、幅一メートルほどしかないこの寝台は、二人で身を寄せ合えば大学の寮のようにちょうどいい広さだった。身動き一つ取れない若竹を、杜尋雲はそのまま腕の中へと抱き寄せた。恐縮しきった若竹の心臓は激しく波打ち、みるみるうちに赤面して、その赤みはうなじの付け根にまで広がっていった。
杜尋雲は、怯えて強張った若竹の手に触れた。荒仕事で荒れた掌ではなく、ごく普通の、良家の出であることが窺える滑らかな手だった。二十歳そこそこのこの少女は、現代の感覚で言えば自分にとっては妹のような年齢だというのに、宮中という伏魔殿でこれほど神経を使う仕事をこなしているのだ。
触れられた若竹は逃げ出したい一心で、無意識のうちに膝を何度も屈めようとした。
「跪かせようとしてるわけじゃないの。これからはむやみに跪かなくていいから」
「主子……」
杜尋雲も当直勤務の辛さは骨身にしみて知っていた。何日も続けて夜勤に入るなど、人間の耐えられる労働ではない。
「奴婢が眠るわけにはまいりませぬ……主子の息遣いや脈拍を、見守らねばなりませんゆえ」
「こんなに近くに寝てるんだから、見守るも何もないでしょうに」杜尋雲は人の体温がある方が落ち着く質だったが、腕の中の少女は緊張のあまり紅潮しきっていた。
「これ、見つかったらどんなお仕置きになるの?」
「板打ち……二十回にございます……」
杜尋雲は二秒ほど沈黙し、布団の端をめくった。「そっか、あなたが選んでいいよ」
若竹は弾かれたように寝台から飛び起き、寝台の脇で深々と頭を垂れて立った。
杜尋雲の耳にすら、相手の激しい鼓動が聞こえてきそうだった。
「主子、どうかお怒りになりませんように」
「怒ってないわよ。あなたに罰を受けさせるわけにはいかないし」杜尋雲は、蕭雁綾の身体が実に純粋なのだと感じていた。もし現代の自分が若い女の子を抱きしめていたなら、生理的にもこうまで平静ではいられなかったはずだ。
「奴婢は……奴婢は……」若竹は服を着直すべきか、引き下がるべきかも分からず立ち尽くしていた。
「やっぱり戻っておいで」杜尋雲は再び布団を持ち上げた。
監視カメラすらないこの世界で、寝室の中まで気を張り詰めて警戒する必要がどこにあるというのか。
若竹は視線を合わせようとせず、そっと寝台の上へと這い戻ってきた。
――本当に素直で聞き分けのいい子だな。杜尋雲は胸がいっぱいになり、思わず口元をほころばせた。「これからは、毎晩こうやって寝ようね」
腕の中の小柄な身体が、再びビクッと震えた。




