蕭雁綾
この麻酔、ちょっと効きすぎじゃない?
てか、麻酔科医はどなた?
杜尋雲はベッドに横たわったまま、太医に脈を診られていた。
三人の太医が交代で診察し、最終的に集まって協議を始めている。
彼女はその真面目くさった様子を眺めながら、手のひらで頬杖をついて横を向き、ぽりぽりと腹をかいた。
「貴人っ!!!」若竹が駆け寄り、掛け布団を掛け直す。
尋雲は親指で布団の刺繍をこすりながら、(まさか開頭手術中なんじゃ……)と思った。ついでにベッドの木彫りを撫でてみる。夢とは思えないほど精巧で、指先でなぞっても棘ひとつ引っかからない。
「蕭貴人のご病状は、引き揚げて慎重に検討する必要がございます。本日はまず安神湯を服用いただき、数日休養して脈が落ち着き、記憶が戻れば、薬は不要となりましょう」
なぜか太医たちが部屋の端、扉口にいる人物へ報告しに行くので、尋雲は首を伸ばして覗き込んだ。
さっきの第一皇子、大阿哥だ。
そうか、ここは皇帝の後宮。身分から言えば、私はあいつの義理の母ってわけね!
尋雲は合点がいった。道理であいつが部屋に入るには許可がいるわけだ。
「では、数日経っても改善せぬ場合はどうするのだ?」
「そ、それは……臣等……」太医はお辞儀の姿勢から平伏へと変えた。「臣等、粉骨砕身、全力を尽くす所存でございます……」
まるで念仏のような誓いの言葉が尋雲の耳に届く。うわあ、夢の中の人たちまで社畜みたいに報告させられてるよ。
「失憶であって、狂い咲きでないと、なぜ言い切れる?」
「娘娘は入室されるや否や机をくまなく撫で回し、真珠の御簾を掴んでは延々と手遊びされ……まるで見たこともないかのように何度も鏡を覗き込み、宮中の礼法を解しておられませぬ。されど、四季や花、動物など……世間の一般常識には澱みなくお答えになります」
ちょっと、真珠でできたカーテンなんて誰だって手でジャラジャラ弄ぶでしょ。尋雲は頭を支えながら自分の病状報告を聞き、ただただ呆れていた。
「後宮の職務に私がこれ以上深く関わるわけにはいかぬ。女官を増員して対処せよ」大阿哥が顔を上げると、のんきにくつろぐ貴人と目が合い、その眉間の皺をさらに深くした。
「御意」
尋雲はベッドの上でゴロゴロと転がった。敷布団の寝心地はやたらと良い。
若竹は太医たちが去るやいなや、堪えきれずにすすり泣き始めた。
「何泣いてんの?」
「奴婢は娘娘が心配でなりませぬ……」
「心配することないって。ひと眠りすれば治るから」尋雲は深いため息をついた。「あー……スマホいじりたい……」
若竹の目から涙がポロポロとこぼれ落ち、袖口を濡らしていく。
それを見て、尋雲は設定上この二人はかなり親密なのだろうと推測した。
「コホン」彼女は喉を鳴らした。「ねえ、私の名前と今の年齢を教えて」
「貴人様、貴女様は姓を蕭、名を雁綾と申され、今年十四におなりでございます」
「はぁ???」尋雲は跳ね起きて、自分のズボンの中を覗き込んだ。「げっ、毛もろくに生えてないじゃん」
若竹は息を呑み、ショックで卒倒しかけた。
「生理は来てるの?」
「つ、月事のことでございますか?」
「そうそうそれ」
「先月、初めてお迎えになりました」
「はー……」
「娘娘……貴人様ぁ……」若竹はまた涙が止まらなくなる。
「他には?」
「本日は、本来であれば『嬪』へと昇格される良き日でした」
「嬪?」
尋雲は目を閉じて昔見たドラマの知識を思い返した。嬪といえば貴人のひとつ上のランクのはず。「つまり、嬪に昇格するその日に暗殺されかけたってこと???」
「左様でございます。覚えておいででしょうか、中宮に皇后お一人、副后の尊者として皇貴妃お一人、貴妃二人、妃四人、嬪六人。その下に貴人、常在、答応と続き、これらには定員がございません」
尋雲は頭の中で計算した。1+1+2+4+6、つまりトップ14入りするタイミングで誰かに命を狙われたってこと?
「どうりでみんな『貴人』って呼んだり『娘娘』って呼んだりするわけだ……今日が呼び方を変える日だったのね」
「はい」
「で、今の私は結局何なの?」
「おそらく、貴人に据え置かれるかと……」
「オッケーオッケー」尋雲は親指と人差し指で輪を作り、残りの三本指を立てた。若竹の顔が恐怖で青ざめる。
「ゴホッ、怯えないで。もし私が嬪に上がったら、誰かが引きずり降ろされる仕組みなの?」
「主子……嬪は多くて六人、現在は三名しかおられませぬ……」若竹は泣き崩れて床に膝をついた。
あーあ。
怯えさせちゃったな。
まあいいや、聞くのはやめよう。ひと眠りして起きたら、また仕事だし。目を覚ました瞬間に病棟と職場の同僚が待ってると思うと憂鬱だわ。尋雲は再びベッドに倒れ込んだ。医者って本当に割に合わない。回診の時は研修医を育てるために大勢ぞろぞろ引き連れて診なきゃいけないし。
彼女は寝返りを打った。
それにしても「後宮の佳麗三千人」なんてのは文人の詩の誇張で、要するに女がいっぱいいるって意味よね。実際に皇帝の妻と呼べるのはせいぜい数十人程度じゃない?
考えてみれば当然か……多すぎたら夜の相手も追いつかないし……皇帝だって勤務時間があるんだから。
……
……
眠れない!
尋雲はふと、この枕の感触があまりにもリアルで、寝台の匂いがやけに生々しいことに気づいた。おまけに日が沈んで間もないから、まだ夜の七時くらいだろう。
そりゃそうだ、麻酔で幻覚を見てるとして、その幻覚の中でさらに二重の幻覚を見るわけがない。映画のインセプションじゃあるまいし。
再び寝返りを打つと、宮女がまだベッドの前に跪いていた。
「どうして休まないの?」
若竹は眉をハの字に下げた。「主子のお許しがなければ、下がることは叶いませぬ」
そんなルールあんのね。
尋雲はこめかみを揉んだ。「あんた、私の専属宮女?」
「はい」
「宮女はあんた一人だけ?」
「ほかに二人おります」
「中に入ってもらって顔見せしてよ」
「主子、あの二人は貴妃娘娘に直接連行され、尋問を受けております」
「尋問!?」
「はい。現在、扉の外は厳重に警備され、出入りが禁じられております」
「あー、私を暗殺しようとした奴がいるから?」
「はい」
「ほほーう!」
跪いていた若竹の肩がビクッと跳ねた。
おっと。尋雲は口癖を直さなきゃと思った。
「もしかして嬪に昇格したら自分の宮殿がもらえるけど、今はその貴妃娘娘の離れに間借りしてる状態?」
「は、はい……その通りでございます」若竹の返事は途切れ途切れだ。
「そんなにかしこまらないでよ。その貴妃娘娘ってどんな人〜?」尋雲は手をひらひらと振った。
若竹は何度も生唾を飲み込み、一言も答えられないまま、ただ平伏している。
扉の外に警備がいるせいかもしれない、と尋雲は推測した。ふう、夢にしては設定が緻密すぎやしないか? なんでこんな夢を見られるんだろ。彼女は視線を室内の明かりに向けた。黄白色の灯籠の中で、しっかりとした炎が揺らめいている。灯籠は紙製でもガラス製でもなく、蘭の花が描かれていた。全体から琥珀色の光が放たれ、この上なく美しい。
夢の中のものなんて曖昧なはずなのに。プラスチック工業もない時代に、こんな精巧なシェードを夢に見るなんて。
そう思いながら、彼女は何気なく尋ねた。「これ、何でできてるの?」
「主子、それは羊角灯でございます」
「は?」
「羊の角を薄く削って作られたものにございます」若竹の声は次第に遠のくように小さくなった。
「あんた、私のこと見限った?」
「滅相もございません!」彼女はさらに深く頭を下げた。
尋雲はベッドから降り、灯火のそばへと歩み寄った。これ、私の常識を超えてる。人間に、知識として持っていないものを幻覚の中で生み出せるわけがない……。彼女はシェードに触れ、顔を近づけて観察した。確かに変形させた角だ。現代の羊角や牛角の櫛とよく似た文様があるが、もはや芸術品レベルに加工されており、光の透過を一切妨げず、むしろ光を柔らかく直視できる美しさに変えている。
彼女はガラスの鏡を手に取った。灯火に照らされた見知らぬ顔、その双眸の中で、黄白の光の筋が規則正しく、優雅に揺らめいている。
「若竹」
「はい」
「この鏡、普通ないよね?」
「はい」
「ええと……西洋鏡って言うんだっけ?」
「はい」
「普段はまだ銅鏡を使ってるんだよね?」
「はい」
終わった。大清だ。
それって、本当に誰かが『私』を殺そうとしてるってこと?
この時になって初めて、尋雲の背筋に冷や汗がどっと吹き出した。
待て。
「若竹、先ほどの侍衛はどうなったの? 本当にお咎めを受けたというの?」
「滅相もございません、当然のことにございます」若竹は浅く膝を折った。「先頭に立って追跡したにもかかわらず、手ぶらで戻ってまいりましたゆえ」
「本来なら死罪になるようなことなの?」
若竹は小さく生唾を飲み込んだ。
「そこまで大袈裟な話ではないわよね?」杜尋雲はすかさず声を潜めて先を促した。
若竹はこくりと小さく頷いた。
やはり、一筋縄ではいかないようだ……。ここまで来て、杜尋雲には自分がこの地へ飛ばされたのが天の導きなのか、それとも単なる事故なのか見当もつかなかった。もしかすると何か特別な任務があり、それが元の世界へ帰れるかどうかに繋がっているのかもしれない。
いずれにせよ、まずは周囲の状況を見極めなければ、真実には辿り着けない。




