上官天相
眠れない。
本当にどうにも眠れなかった。
杜尋雲は寝台の上で何度も寝返りを打っていた。謝鸞にあんな気まずい思いをさせて追い返してしまったことに胸がチクチクと痛み、若竹が流した涙の残像も脳裏から一向に消えてくれなかった。
若竹には休むよう言いつけたものの、この承華宮へ移った最初の夜ということもあり、誰かを抱きしめて温もりを感じながら眠りたい気分だった。
明朝はまた朝の拝謁が控えている。明日の拝謁では、嬪への昇格を受けた謝恩の挨拶が加わっており、皇帝に拝謁して感謝の意を述べねばならない。これが終わって初めて、一連の儀礼がすべて完結するのだ。
(うーん……)
彼女は宿直を務める聴蘭をしばらくじっと見つめていたが、どう声をかけたものか迷っていた。
「聴蘭、若竹が呼んでいる」
不意に、扉の外から太監の呼ぶ声がした。
「行ってきなさい、少しの間くらい平気だから」
杜尋雲はひらひらと手を振った。今日は移転の初日であり、太監や宮女たちの仕事の割り振りもまだ混乱している最中だ。刻限もまだ早く、空の様子からして夜の九時にもなっていない。
ところが聴蘭が部屋を出て行った直後、その太監が音もなく部屋の中に滑り込んできた。
声もかけずに寝室へと押し入ってくる太監など初めてで、杜尋雲はぎょっとして跳ね起きた。
その男は入るなり足早に近寄って膝を突いた。
「蕭大人! 蕭大人、私です!」
(何? 私、あなたのことを知ってるはずなの?)
杜尋雲が生唾を飲み込みながら見つめると、この男の肌はやけに浅黒く荒れており、先ほどの「蕭大人」という呼びかけの声も妙に低く太いことに気づいた。
「あなた……本当に太監?」
彼女は思い切って大胆な疑問をぶつけてみた。
男は焦眉の面持ちで顔を上げ、さらに身を寄せた。
「蕭大人、某は上官天相にございます!」
杜尋雲は内心、(やけに大仰な名前ね、どこの主人公よ)と毒づきながら、前合わせをきつく掻き合わせた。
「以前、刺客に襲われたせいで記憶の一部を失っているの。急ぎの用件なら、なおさら事の経緯を順序立てて説明しなさい」
上官天相は一瞬呆然とした。
「蕭大人……上官家は代々蕭家の副官を務め、蕭家からは並々ならぬ恩義を受けてまいりました。本日、死を覚悟して参上いたしましたのは、お耳に入れたき重大な儀があるゆえにございます」
「話しなさい。事の起こりからすべて」
「蕭崇岳様が……すでに一月もの間、軟禁状態に置かれております!」
「はあ!?」
杜尋雲は思わず呆気にとられた。引退した高官を監禁するなど、一体誰にそんな真似ができるというのか。
「蘇千府の府尹、井宏――今や三品の官位にある男にございます。奴は手下に市吏の無頼漢どもを囲い、通常の税の上に不当な重税を課し、商人の商いからも一割を余計に掠め取り、果ては露天商に至るまで容赦なく搾り取っております。領民はもはや生きる術を失いかねぬ惨状にございます。老大人様は上京して直訴を試みられましたが奴らに察知され、密かに屋敷に封じ込められてしまわれました。今や訴状の一通すら外へ出せず、伝書鳩すら射落とされる始末にございます」
杜尋雲はふと思い至った。自分が暗殺未遂に遭った際、兄の蕭雁行からは手紙が届いたというのに、父親からは何の音沙汰もなかった。朝廷からの慰撫があったため静観しているのかと思っていたが、まさか軟禁されていたとは。
「それで現在、その地の税率はどれほどになっているの?」
杜尋雲の記憶が正しければ、本来の兵糧米の年貢だけでもすでに二割(二〇%)に達しており、それだけでも相当な重税のはずだった。
「すでに四割を超えております」
「四割!?」
危うく悲鳴を上げそうになり、辛うじて喉の奥で押し殺した。
「民百姓の糧食、売り買いする品々に至るまで一割が上乗せされ、商会が小売商へ卸す品からも一割を搾取されております。すその上、馬車の通行料や橋の渡し賃、宿場での諸費用に至るまで、行く先々で不当な金を取り立てられているのです」
「そんなことをしたら、役所の前に群がって暴動が起きるんじゃないの?」
「滅相もございません……民にはもはや、城郭へ入るための路銀すら残されていないのです」
杜尋雲は手のひらを彼に向けてかざし、待ったの仕草をした。上官が口をつぐむと、彼女は腕を組んで深い思索に沈んだ。状況を整理する必要がある。現在課されているのは、所得税に消費税、さらには流通段階での多重課税というわけだ。これほどの苛斂誅求が罷り通れば一体どうなるか、想像もつかない。
もしそれが事実なら、貧しい農民たちに代わって上位の役所へ直訴を起こす、裕福で良識ある義士の存在が不可欠だ。
杜尋雲の知る現代の社会では、「人種」「国籍」「宗教」といった分断を利用して大衆を切り裂き、互いに責任を擦り付け合わせ、誰一人として請願に立ち上がれないよう仕向けるところだ。だが今この場所には、一つの土地に根ざした民しかいない。
このまま圧殺し続ければ、一揆が勃発するのは時間の問題だろう。
「影響を受けている者はどれくらいいるの? もし本当に暴動が起きたら、どうなる?」
上官は突然、額を床に擦り付けるようにして平伏した。
「蕭大人、被害に喘ぐ貧しき農民は千人を超えております! 蕭崇岳様はかつて民に対し、この件を必ず解決すると約束なさいました。されど大人様は今、屋敷に閉じ込められ一歩も外に出られぬ身。もし暴動が起きれば……民は大人様に裏切られたと誤解し、真っ先に蕭崇岳様の手にかけるやもしれませぬ!」
蕭雁綾の肉体が、恐怖で指先まで震えるのを杜尋雲は感じた。
「上官家は代々蕭家の副官を務めてきたのよね。腕の立つ者はいるの?」
「おります! されど蕭大人様は決して武力を行使してはならぬと我らに厳命され、ただ大人様をお訪ねせよとだけ仰せつかったのです」
「どうして?」
「蕭雁行様がすでに辺境へ出陣しておられます。今、なぜか手紙は外へ出すことしかできず、届くはずの便りが一切入ってこぬ奇妙な状態にあります。もし我らがここで衝突を起こせば……蕭家全体にあらぬ謀反の濡れ衣を着せられる恐れがあるのです」
杜尋雲は頭が破裂しそうだった。なぜこれほど複雑に絡み合っているのか。しかし確かに、兄である蕭雁行からの手紙には妹への愛情がこれでもかと長文で綴られていた。もし誰かが意図的に手紙を差し止めているのだとすれば、彼はとっくに実家からの便りを受け取れなくなっているはずだ。
「それで……今、私に何ができるの?」
「嬪へ昇格された一月後、感謝の宴が催され、皇室の儀仗隊が娘娘のご親族を迎えに参ります。娘娘は何としても帝へ肉親を恋い慕う情をお訴えになり、その日程を一日も早く繰り上げさせる手筈を整えねばなりませぬ」
「待ちなさい!」杜尋雲は脳天を撃ち抜かれたような衝撃を受けた。「もし今回、私が嬪に昇格していなかったら……私たちは完全に手詰まりになっていたんじゃないの?」
「その通りにございます、娘娘」
杜尋雲はここに至って、事態をあまりに甘く見ていたことを痛感した。当初は朝廷における武官同士の権力争いであり、蕭雁行と朝廷の間に楔を打ち込みたいのだろうと考えていた。その後は皇室が蕭雁行の手綱を引き締めるための牽制かとも思った。だが今となっては――蕭崇岳を、蕭家一門を根絶やしにしようと目論む者がいる可能性すら浮上してきたのだ。
「あなた、どうやってここまで入ってきたの?」
上官天相は正直に、宮の引っ越しと当直交代の混乱に乗じて紛れ込んだのだと明かした。
「後宮の警備と規律は厳格を極めているはずでしょう。どうしてそんな間抜けな隙があるのよ」
杜尋雲の背筋に冷や汗が伝う。
もし蕭雁綾の命を狙う勢力が一つだけではないとすれば――彼らはお互いを知り尽くした上で、「誰が殺しても構わない」と高を括っているのかもしれない。
宮中にわざと風通しの良すぎる抜け穴を残し、互いに便宜を図り合っているのだとしたら。
「上官家は、代々蕭家に命を捧げてきたのね?」
「はっ」
「証拠はある?」
上官天相の目元に熱いものが滲んだが、その口元は微かに吊り上がっていた。
「娘娘のご命令とあらば、いかなる命にも従います。この場で手足を切り落とせと仰せであれば、躊躇いなく断ち切って見せましょう」
「ちょ、ちょっと! やめなさい!」
杜尋雲は肝を冷やして背筋を跳ね上げた。
ほんの二秒ほど息を整え、
「後で聴蘭に若竹を連れてこさせるわ。帝に儀仗隊を前倒しで出立させるよう仕向けるための口上を練らなきゃならない。今日から、あなたが私の身の回りの世話をする太監よ」
上官天相は地に伏したまま顔を上げない。
「娘娘、どうぞご安心を。万一露見した折には、この場で自害し、断じて娘娘にご迷惑はおかけいたしませぬ」
「もう、そういう不吉なこと言うのやめてちょうだい!」
杜尋雲は寝台から立ち上がると鏡台の引き出しを漁り、白粉の箱を引っ張り出して彼へと放り投げた。
「明日からは毎日これを薄く塗りなさい。それと、お手洗いに行く時は細心の注意を払うこと」
「……」
上官は牡丹の彫刻が施された小箱を受け止めたまま、しばらく絶句していた。
(おいおいおい、死ぬ度胸はあるくせに、お化粧は嫌なわけ!?)
「……御意」
(そこまで躊躇する!?)
杜尋雲は、この世界の人間の価値観に心底呆れ果てるしかなかった。




