蕭嬪
朝冠が若竹の手によって、杜尋雲の頭上へとそっと載せられた。
冷やりとした真珠の飾りが鬢の生え際に触れ、女の呼吸に合わせて微かに揺れる。冠の頂を飾る金の細工は幾重にも重なる真珠の輝きに隠れ、首を巡らせた時にだけ一筋の眩しい光を引いた。肩の脇へと垂れる瓔珞の鮮やかな黄色い飾り糸は、漆黒の冠身を引き立て、人を容易には寄せ付けぬほどの端厳さを醸し出している。
彼女がわずかに顔を上げると、冠にあしらわれた東珠がそれに連れて細かく震えた。
この身なりには余計な艶やかさなど微塵もなかったが、以前の位階の貴人ではないことが一目で知れた。
杜尋雲は、普段よりも重みを増した袖を軽く振ってみせた。
朝の拝謁を済ませた後は、皇帝側の儀式が終わるのを待つことになる。礼部の役人が聖旨を受け取り、勅使として遣わされてくる手はずだ。
この時代の人々は「吉時」をことのほか重んじる。遅れることなどあり得ない。
若竹の落ち着き払った様子も、それを裏付けていた。
(――後宮の兵站に手抜かりなど生じるはずがない)
……
「うーん……若竹……」
若竹はつばを飲み込み、予定より早く門の外へと出迎えた。
一刻(いっこく・約十五分)ほど遅れているようだった。
彼女は首を長くして見渡していたが、
「娘娘、参られました、参られましたよ」
聴蘭と素梅も、院門の前で気を引き締め直した。
「まだ吉時のうちにございます、娘娘」
若竹は微笑みながら、杜尋雲の手を支えに寄った。
使節として二名の文官が大門の前に到着し、その脇には証人として謝鸞をはじめとする女官たちが居並んだ。
先頭に立つ文官が鮮やかな黄色の聖旨を広げ、もう一人がその傍らに立ち、恭しく礼冊を捧げ持っている。
杜尋雲は中庭の中央へと歩み出て膝を折った。庭に控えていた者たちも一斉に平伏する。
宣旨官は咳払いを一つし、その声をまだ肌寒さの残る庭へと響かせた。
「奉天承運皇帝、詔して曰く――」
杜尋雲は頭を垂れた。
「貴人・蕭氏、慎み深くして身を持し、柔嘉にして礼節あり。入宮以来、夙夜に勤謹を尽くし、侍奉の度を弁う。朕、その徳行の端謹なるを念い、内廷の任に堪うると見做し、今、進封して嬪となし、以てその徳を顕彰す」
「着ち即ち冊封して嬪となし、居を賜う――」
宣旨官は言葉を少し切り、礼冊をめくって確認した。
「承華宮」
杜尋雲はかすかに息を呑んだ。
「欽此」
最後の二言が落とされると、庭は再び静寂に包まれた。
宣旨官は聖旨を巻き納め、両手で前へと差し出した。
「嬪娘娘、聖旨をお受け取りください」
杜尋雲は両手を差し伸べた。
「臣妾、旨を奉じ、聖恩に感謝申し上げます」
掌に落ちた聖旨は、想像していたよりもずっとずっしりと重かった。
宣旨官が立ち去ると、庭にはしばし静けさが戻った。
杜尋雲が手の中の聖旨を見つめていると、若竹がそっと彼女の腕に触れた。
「娘娘、お部屋に戻って荷造りをなさらねば」
「……今?」
「今でございます」
若竹は何事もなさそうに微笑んだ。
「聖旨が下りた以上、もうここに留まられるわけにはまいりませんもの」
杜尋雲は顔を上げた。
門の外には、いつの間にか大勢の者たちが集まっていた。
内務府の宮人たちが数名門脇に控え、その後ろには長持を担いだ若い太監たちが従っている。聴蘭と素梅もすでに部屋へと戻り、元より多くもなかった私物を手際よく一つずつまとめ始めていた。
「こんなに早く?」
「後宮における宮の引越しは、迅速を旨といたしますゆえ」
傍らに立つ謝鸞が、平然とした口調で言った。
「新たな住まいはすでに整えてございます。娘娘が本日お移りになれば、明日には正式にそちらで起き臥ししていただけます」
杜尋雲は目をぱちくりとさせた。
「ということは……私には荷造りをする時間もないってこと?」
「ございますよ」
謝鸞は彼女を一瞥した。
「今が、その時間でございます」
「……」
杜尋雲は言葉に詰まった。
若竹がたまらず噴き出した。
「娘娘、ご安心ください。お荷物は多くございません。娘娘のお召し物、髪飾り、書物に、普段お使いの細々とした品々まで、奴婢がすべて把握しておりますので」
「碁盤は?」
「お持ちいたします」
「葉子牌は?」
「そちらも」
杜尋雲はようやく満足げに頷いた。
「なら、何も問題ないわ」
聴蘭が部屋からひょっこりと顔を出した。
「娘娘、こちらの生薬はいかがなさいますか?」
「生薬?」
「娘娘がご自身でお調合なさった薬がいくつかございますでしょう?」
杜尋雲が目を向けると、そこには一つの薬箱があった。自分が調合したものではなく、蕭雁綾がいつの間にか用意していたものだ。聴蘭が素直にその蓋を開けた瞬間、杜尋雲は背筋に冷や汗を流しそうになった。
何種類かの生薬の中に、許容量を遥かに超えた雷公藤が混ざっていたのだ。
(――これ、長期にわたって過剰に服用し続けたら、月経が乱れるどころか、生殖機能そのものに影響が出てもおかしくない……)
蕭雁綾の動きが止まったのを目敏く捉え、謝鸞が数歩近寄ってきた。
杜尋雲は足音を聞きつけると、生薬を何気なくかき混ぜて言った。
「あ……ただの涼茶よ……全部持っていって」
「かしこまりました」
庭はたちまち慌ただしい活気に満ちた。
長持が部屋から次々と運び出され、宮女たちが着物を抱えて行き交う。つい先ほどまでどこか親しみを感じさせていた小院は、瞬く間に中身を空っぽにされていくようだった。
杜尋雲は回廊の下に佇み、自分の荷物が一つ、また一つと運び出されていく様を見つめていた。
ふと、夢心地のような奇妙な感覚に囚われる。
ここへ来てからというもの、自分はずっと適応し続けてばかりいる気がする。
見知らぬ肉体から、この見知らぬ皇宮へ、そして今や――
「娘娘」
若竹が傍らに歩み寄ってきた。
「ご出立いただけます」
杜尋雲は我に返った。
住み慣れた別院を最後にもう一度見やり、身を翻して後について歩き出した。
門の外には、すでに儀仗が整えられていた。
貴妃ほどの華々しさはないにせよ、貴人の頃と比べれば格段に格式の高い行列である。
杜尋雲は石段の前に立ち、手元で袖口を端正に整えた。
「行きましょう」
若竹が応じた。
「はい、娘娘」
杜尋雲は手を支えられて輿椅子へと乗り、若い太監たちが荷を担ぎ上げ、一行は堂々と列をなして出発した。
てんてこ舞いになるかと思いきや、自分は何一つ手を動かす必要がなかった。医師としての習性が染み付いているせいか、杜尋雲は何事も自分の目で確かめ、自ら手を出したくなってしまう。だが今この瞬間、彼女はこの国のピラミッドの頂点に座す女たちの一員なのだ。
忙しなく動くのは、下僕たちだけだった。
【承華宮】
承華宮の宮門は、想像していたよりも遥かに高大だった。
朱塗りの扉が左右に開き、均等に並んだ真鍮の鋲が朝の光を浴びて冷ややかな金色を放っている。門楼は深い色の琉璃瓦で覆われ、反り上がった飛檐が空を突き、左右に伸びる宮壁は視界の尽きる先まで続き、中の庭と外の宮道を完全に隔絶していた。
門構えに余計な装飾はほとんどない。
ただ二張りの宮灯が軒先から吊り下がり、風を受けてその文様を揺らめかせているばかりだ。
門の内側には、すでに数名の太監が控えていた。
儀仗が近づくのを見るや、彼らは一斉に左右へ下がり、頭を深く垂れて拝跪した。
「蕭嬪娘娘をお迎え申し上げます」
揃った声が重々しく落ちる。
杜尋雲はわずかに足を止めた。
彼女は見上げるようにしてその宮門を眺めた。
この時になって初めて、彼女は真に実感したのだ。
(ここが……これからは私の城になるのね)
この世界に来てから、正門から堂々と宮殿に入るのはこれが初めてのことだった。
謝鸞が彼女に一礼して進み出た。
「娘娘、微臣よりこの宮の概況をご案内申し上げます」
「承華宮は、元は依嵐娘娘がおわした宮殿でございます。現在、宮内には貴人が一名、答応が二名、宮女が十二名、太監が九名おります。今後はすべて、蕭嬪娘娘の管轄下に入ります。これまでお仕えしてきた若竹、聴蘭、素梅もこの中に含まれ、残りの宮女は内務府から新たに配属された者たちでございます」
杜尋雲は、予想を上回る規模に内心息を呑んだ。嬪の位ともなれば、直属の専属宮女は最大六名、身の回りの世話をする太監は二〜四名ほど置くことができ、残りは宮全体の雑役として割り振られる。彼女はすでにその人数を把握して納得している風を装い、謝鸞に向き直って口を開いた。
「前回の、慎刑司にいたあの者はどうなったの?」
「申し上げます、娘娘。明斯は来月、傷が癒え次第こちらへ出仕し、娘娘にお仕えする手はずとなっております。その折には、宮内の太監は計十名となります」
「よろしい。彼を太監総管に任じます。そのように記録しておいて」
謝鸞は呆気にとられた。
「娘娘、明斯には宦官としての経験がございません。それに、お会いになったのもほんの数度にすぎないはずですが」
「禁軍の衛兵は規律が厳しいと聞くわ。彼ならじきに馴染むでしょう」
杜尋雲は淡々と答えた。武芸の心得がある太監など滅多にいるものではないし、刺客を取り逃がした後に逃げもせず戻ってきて自ら罰を引き受けた点を見ても、並大抵の真っ直ぐさではない。
何より……刺客が現れたその場に彼が居合わせていたのを皆が見ている以上、彼自身が刺客本人である可能性は排除できる。
むしろ、他の見知らぬ太監たちのほうが、彼女にとってはよほど警戒すべき存在だった。
謝鸞は目の前の蕭雁綾をじっと見つめた。その眼差しには、年相応の幼さなど欠片も存在しなかった。この者が、明斯が必ず忠誠を尽くすと確信していることは痛いほど伝わってくる。だが、太監の職務に精通し、かつて蕭雁綾の身辺でよく見知った仕事をこなしてきた者たちはすでにこの場に揃っているというのに、彼女はまるで初対面であるかのように一瞥もくれず、重用しようともしない。
(――やはり、そなたは蕭雁綾本人ではないな)
だが、一体どうやってそんな入れ替わりを果たしたというのか。
蕭雁綾に双子の姉妹などいないはずだ。
呆然とする謝鸞の目の前で、蕭雁綾は踵を返し、宮内の調度品をどこに配置するか指図し始めた。
(賭けてみるか)
謝鸞の脳裏で、思考が目まぐるしく回転する。
蕭雁綾は緑茶や烏龍茶を好むが、黒茶や磚茶をひどく嫌う。この味覚の差異は極めて繊細だ。よほど舌の肥えた、その本人を知る者でなければ気づくことすら難しい。
謝鸞はごくりと唾を飲み込んだ。
「蕭大人、本日は嬪へのご昇格、心よりお慶び申し上げます。微臣より些少ながらお祝いの品をお届けしたく存じますが、昼下がりにご機嫌伺いに上がってもよろしいでしょうか」
杜尋雲は忙しなく行き交う下僕たちから目を離さぬまま、あっさりと答えた。
「ええ、もちろん構わないわ」




