祭祀
杜尋雲は線香を掲げて香炉へと差し入れた。この皇室の祭祀という儀式は、彼女にとって案外それほど重圧を感じるものではなかった。幼い頃から祖母に伝統的な祖先供養の作法を叩き込まれていたため、この手の場で周囲の顔色を窺い、誰もが納得する立ち振る舞いをする術を早々に身につけていたのだ。
ただ少し気にかかるのは、輿を降りた際、謝鸞が向けてきた視線がそれまでとどこか違っていたことだった。おそらく彼女自身の何気ない癖が、出来た深窓の令嬢らしからぬものだったのだろう。
だが、覆水盆に返らず、今さら取り返しはつかない。今はただ、上手く演じ切るほかないのだ。
神位の前に据えられた香卓は、礼部が宦官たちに用意させたものだ。供えられた神饌、蝋燭、白い絹の礼服、そして木板に敷かれて置かれた祝文の紙。どれも杜尋雲にとっては「見慣れていて少しも珍しくない」ふりをしなければならない品々であり、物珍しそうに目を留めることなど許されない。
目の前に聳え立つ巨大な彫像や位牌にしても、観光客のようにその細部をしげしげと眺めるわけにはいかなかった。
彼女は落ち着いた様子で数歩下がり、両足を肩幅に開き、両手を自然に垂らした。
礼部の官吏が香卓から祝版を取り上げ、紙に記された文言を厳かに読み上げ始めた。
「康希四十二年、歳次戊辰、三月朔、越ゆること十有二日、丙辰……」
何をぶつぶつ言っているのやら。杜尋雲はまだ干支による紀日法を覚えきれておらず、早く時計が普及してくれないものかと願うばかりだった。それでも、平伏する姿には自然さと誠実さを保たねばならない。
「皇帝、謹みて臣・景明喆を派遣し、列祖列宗に祭りを致して曰く……」
杜尋雲は決して上の空には見えない神妙な表情を保ちつつ、実のところ完全に聞き取れなくなっていた。
「ここに貴人・蕭氏あり。淑慎の徳、朕の心これを嘉す」
淑女の「淑」に、慎重の「慎」? 杜尋雲の脳内では思わずツッコミが入る。それ、ただの嫌味じゃないでしょうね?
「皇太后の慈諭を仰ぎ承り、冊封して蕭嬪となし、以て内職を襄けしむ」
杜尋雲はそんな美辞麗句を右から左へと受け流しつつ、平伏のタイミングと合図を伺っていた。
「……敢えて列祖列宗に昭らかにす……」
来た来た。
「尚ぞ其れ歆享せんことを!」
来た来た、実にいい抑揚だ。
杜尋雲は膝を折って跪き、踵の上に腰を落ち着かせ、手のひらを上に向けたまま額の前まで掲げた。
礼官が高らかに唱える。
「一叩首」
おやおや、リズムまであるのね。背筋にじんわりと冷や汗が滲むのを感じながら、彼女は額を軽く床に触れさせた。
「二叩首」
「三叩首」
一跪三叩を終えて身を起こし、それを三度繰り返して、計「三跪九叩」の礼を果たした。
まったく、とんだ悪習ね――心の中でそう毒づきながらも、彼女はこの世界の線香の香りを深く吸い込んだ。皇室の香だけあって、穏やかで心地よい匂いだった。
身なりと冠を整えて、ようやく退席が許される。
礼部の官吏たちが、絹布や祝文を含めた祭祀の品々を焼き払っていく。
(……もったいないこと)
彼女は涼しい顔を保ったまま、祭壇の外へと戻っていった。
聴蘭と素梅が緊張した面持ちで輿の帳を掲げ、慌ただしく支えに駆け寄ってくる。
杜尋雲は無意識に手を挙げ、聴蘭の差し出してきた腕に手を預けた。
素梅は裾が乱れないよう引き受けてくれている。
(しまった)
先ほど沁花園から戻って急ぎ着替えた際、確か若竹もこうしてドレスの裾を支えてくれていたはずだ。
これが侍女たちの仕事なのか?
そこまで気を使うの???
これも全部決まり事なわけ?
輿の中に収まりながら、彼女は心中で嘆息した。
(宮廷って、あまりにも常軌を逸してるわ)
帳が下ろされる瞬間、杜尋雲は視界の端で、謝鸞がふっと視線を逸らすのを目にした。
(はいはい)
(勘づかれたわね)
どう言い繕うか、それとも白状すべきか?
そもそもこの人は信用できる手堅い人物なのだろうか?
わずかに揺れる輿の中で、杜尋雲は思案を巡らせた。いや、信を置けるかどうか以前の問題だ。タイムスリップなど奇怪極まりない話だし、若竹と違って謝鸞には近づくこともできず、抱きしめてその息遣いや脈拍を確かめることもできない以上、彼女の真意を測るのは極めて難しい。
それに宮中における立場の重みも違う。謝鸞の言葉はただの宮女よりも遥かに重く、もし「蕭雁綾が狂気じみた妄想に憑りつかれている」などと上奏されでもしたら、取り返しのつかない事態になる。
これといった物証があるわけではない。
杜尋雲は輿の中でしばしぐったりと身を預けた。今後、おかしな現代の単語さえ口走らなければいいはずだ。礼儀作法などは、後からいくらでも叩き込める。
(いきなり名家の令嬢の蕭雁綾になっちゃうなんて、さすがに難易度高すぎでしょ)
彼女はぼやきながら、すでに乱れてしまった裾に目を落とした。
あるいは……キャラ設定を変更する?
この身体は極めて頑健だし、一族も代々武官の家柄だ。武芸や馬術を習いたいと言い出すくらい、不自然ではないはずだ。
そうしておけば、多少の粗野な振る舞いや行儀の悪さも「武人気質が出ただけ」と大目に見てもらえるかもしれない。
自分のいた世界の大清帝国ならおそらく禁じられていただろうが、この「大青」には女官制度すら残っているのだ……杜尋雲は目を閉じ、どう切り出すべきか言葉を練り始めた。
はぁ……もう一回くらい刺客が来てくれればいいのに。そうすれば格好の口実になるのにね
うーん……いっそ弱々しく甘えてみる!? 私、こう見えて十四歳なんだし!
うわぁ……そこまで考えて、杜尋雲は頭を抱えそうになった。物心ついた頃から他人に甘える習慣などなく、まして中身は三十代の大人なのだ。
(ふぅ……一度練習してみるべきかしら?)
(予行練習くらいなら、減るもんじゃないしね)
頭の中で散々算段をつけているうちに、輿はすでに寝宮へと到着していた。
明朝、皇帝の恩典に感謝の意を述べて初めて居所を移すことができる。今日の太監や宮女たちは慌ただしく立ち働き、その足音さえも自分とは無関係な世界のように思えた。
ことん。
輿の箱が地に着く。
帳が引き上げられた。
今日の道中は、案の定何事もなく無事だった。
門前では若竹が待っていた。
春の日差しを浴びた彼女の衣服は、どこか温もりを帯びているように見える。
杜尋雲は、彼女があまりにも甲斐甲斐しく働きすぎて休むことを知らないと呆れつつも、この瞬間ばかりはただただ安堵を覚えた。
「主子様、礼服は先刻すでに整えてございます。本日は検分のみで済みますよ」
そうだ、一度確認したんだった!
杜尋雲が足早に降りようとしたその時、隊列の末尾の物陰から謝鸞の影がすっと姿を現した。
「謝鸞様」若竹が不意に彼女を呼び止める。
「何か?」謝鸞が視線を向けた。
若竹は膝を折って礼をとった。
「折よくこちらにおいででしたので、今回の衣装の検分をお願いできればと存じまして」
「構いません」
杜尋雲は聴蘭の手にすがったまま、輿を振り返ることすらできなかった。どこかでボロを出してしまったに違いない。
一行は部屋へと入った。
礼服はすでに若竹の手によって長い竿に掛けられていた。
秋香色のサテン生地、丸首の右衽大襟、馬蹄袖。袖口には石青色の金織りの縁取りが施され、袖と身頃の接合部には当て袖が一筋通されている。身頃には五爪の団蟒紋が八つ刺繍され、両肩、胸元、背中、そして前裾にそれぞれ配された団蟒の間を、五色の流雲が埋め尽くしている。裾回りには八宝立水紋が配され、最下部には海水江崖紋が厳かに広がっていた。
朝冠は背後の卓上に鎮座している。
謝鸞は間近に寄り、細部まで入念に改めた。
杜尋雲はその背後から、じっとその姿を見つめ続けた。
この人物の仕事ぶりは誠に実直で、縫い目ひとつにまで気を配り、頭冠にあしらわれた真珠の粒まで念入りに数えている。
やがて、謝鸞は満足げに頷いた。彼女が振り返った際、杜尋雲と視線が交錯したが、その瞳にあった疑念の色はいくらか薄れていた。
代わりに浮かんでいたのは、職務に対する確かな自負だった。
「……」
杜尋雲には見覚えのある表情だった。天性のアクティブな管理職が放つ、あの特有の輝きだ。
女官と宮女とでは、やはりその尊厳において一線を画しているらしい。彼女は少しいたましげに若竹に目をやったが、若竹もふと視線を合わせ、ただ柔らかく微笑みかけた。
……
……
「主子、今夜は……?」
若竹が少し首を傾げた。
「ええ。やっぱりあなたが宿直をして。そうじゃないと眠れないの」
杜尋雲は机に向かい、猛烈な勢いで筆を走らせていた。今は二人きりであり、聴蘭と素梅はすでに下がらせてある。彼女はペンを持つように筆の軸をかなり低く握り、現代人の手付きで謝鸞がもたらした宮中の規則や礼儀作法を凄まじい速さで書き写していた。
若竹は傍らで静かに控えつつ、痛々しそうに見守っていた。杜尋雲が本来ならこれほど必死に練習する必要などないはずなのだ。だが、この宮中で確固たる足場を築くためには避けては通れない道でもあった。
「蕭雁綾って、甘えたりする子だった?」
蕭雁綾の唇がわずかに開き、唐突にそんな問いを投げかけた。
若竹は声を潜めて答える。
「蕭大人様は、内々では……ごくごく稀にですが……少し恥じらいを見せられることがございました」
「ふむふむ。やっぱりね。思春期だし」
杜尋雲は筆を置き、頭の中で暗唱し始めた。終わると、いつものように紙切れを細かく破いて灯火へとくべ、それが完全に灰燼に帰すのを見届けた。
黄金色の炎が蕭雁綾の瞳に映り込む。
「若竹」
「はい」
「あなたの知る謝鸞って、甘えられたらコロッといきそうなタイプ?」
「ええっ!?」
若竹は思わず素っ頓狂な声を上げ、すぐさま真っ赤になって袖で顔を覆い隠した。
「どうなの?」
「そ、それは……」
若竹は狼狽して言葉を失っていた。
(そ、そんなこと許されるわけがありません! いくらお好きだからって、ここは後宮なんですよ!?)
彼女は顔を真っ赤に染め上げた。
「にょ、娘娘……娘娘、どうか……どうかご自重くださいませ!」
「は?」
杜尋雲は袖の隙間から、耳の裏まで真っ赤に染まっているのを覗き見た。
――ほんっとに可愛いわね
彼女は自分の女の子に対する好みまで、すっかり変わってしまったのだと改めて実感した。
そうでなければ……若竹に飛びついて、気が済むまで頬に口づけを降らせていたところだ。
「違うわよ。女官たちみたいに身体を鍛える方法がないかと思ってね。あの人たち、帯剣してるじゃない? 宮中にも絶対に修練場があるはずだし」
「そ、それでしたら……」若竹は目を細めて答えた。「謝鸞大人様のお好みがどのようなものかまでは、奴婢にはわかりかねます……」
「じゃあ、蕭雁綾ならこういうことする?」
杜尋雲は少し俯いて、ぱちりと瞬きをした。それから、若竹の顎に沿うように、ゆっくりと視線を上げ、彼女と目を合わせた。
若竹の唇が耐えきれなくなり、真っ赤な顔のまま何度も小刻みに震えた。
「主子様……蕭大人様は……そのようには、なさいません……」
「そうなんだ。残念」
蕭雁綾の眉がほんの少し寄せられ、尖らせた口元のまま、再び紙を焼く蝋燭の火へと視線を戻した。
若竹にとって、こんな姿を見るのは初めてだった。主たる者は常に優雅さを保たねばならず、使用人に対しては少し顎を上げて見下ろすのが習いなのだから。
「そんなに慌てないでよ。もう抱き合って寝た仲じゃない」
杜尋雲にしてみれば、抱き合って眠るほうがよほど親密なレベルであり、先ほどの甘え仕草など、長く蕭雁綾に仕えてきた若竹にとっては日常茶飯事のライトなものだろうと思っていたのだ。
「儀式が終わったら、また練習しましょうね」
彼女がそう付け加えると、若竹は飛び上がらんばかりに驚いていた。




