よく分からないけど、言われた通りにする
若竹の腰は杜尋雲にしっかりと抱きすくめられていた。昨夜の宿直では抱き枕のように抱きしめられ、杜尋雲は夢現のまま胸元へと潜り込んできたため、若竹はその背を優しく叩いて長いことあやしていたのだった。そろそろ宮女たちが起き出す刻限である。
若竹は慎重に主の手をほどいた。
蕭雁綾の唇がわずかに動く。
起こしてしまうのが少し忍びなかった。この娘には四年間仕えてきたのだ、もう少し眠らせてやりたい。
けれど、いま目の前にいる蕭雁綾は、別の世界からやってきた三十歳すぎの外科医なのだと若竹は知っていた。
若竹は一秒ほど迷ったが、やはり身を起こした。
かつての蕭雁綾が戻ってくるのかどうかは分からない。しかし今の蕭雁綾のほうが、この後宮において明らかに生存率の高い人間であることは間違いなかった。
彼女には人間関係の微細なほころびを察知する力があり、太医を手なずけ、護衛兵たちに互いを疑わせることすら自然にやってのける。それは以前の主にはなかった才覚だった。
ただ、この人が生きてさえいれば……すべてに道は開ける。
若竹が起き上がって数秒も経たぬうちに、杜尋雲が目をうっすらと開けた。
「主子、まだ少しお休みになれますよ」
「ん……少しばかり寝たところで変わらないわ。もう起きる」杜尋雲は、これ以上まどろんでいても休まらないと感じていた。
若竹は跪いて靴を履かせる。「本日の朝の拝謁を終えられましたら、謝鸞様がお見えになります。明日の儀礼の流れのすり合わせがございます。昼には先祖への告祭を執り行い、その後、礼服の支度に入ります」
若竹の手が杜尋雲の足元を離れかけた瞬間、その手を掴まれた。
「前回の暗殺未遂、先祖の祭祀へ向かう道中だったわよね」
「はい、左様にございます」
「そう……」杜尋雲は目をこすった。
「娘娘……」
「平気よ、怖がってないから」杜尋雲はひらひらと手を振る。「事件が起きたばかりだし、また仕掛けるにしても、同じ時間や同じ場所を選ぶのは難しいはずよ」
「……」若竹は押し黙ったまま髪を梳かした。
「あなた、今日は休みを取りなさい」
「えっ!?」若竹は思わず髪を掴んでいた手を離してしまった。「娘娘、奴婢めは……」
「あなたのせいじゃないわ」杜尋雲はすぐさま遮った。「最近張り詰めすぎて疲れているのよ。そんな調子じゃ、当日かえって手違いを起こすわ」
「娘娘……」
「当日に失敗したら、大変なことになるんでしょう?」
「奴婢は、その……」若竹は言葉に詰まった。
杜尋雲は淡々と言い添える。「典礼の準備はほかの宦官や宮女がやってくれる。私たちがすべきなのは、身なりをきちんと整えて時間を守ることだけ。聴蘭と素梅を鍛えるいい機会よ」
若竹は数歩下がり、聴蘭と素梅を部屋に呼び入れるしかなかった。
杜尋雲は人差し指をくるくると回しながら言った。「私の下につくなら、二人ともしっかり学んでもらわないとね」
「はい、娘娘」
「若竹は下がって休みなさい」
若竹は胸騒ぎに心臓を高鳴らせながら、頭を下げて部屋をあとにした。
窓越しに二人が蕭雁綾の身支度を整え始める影を見届け、首を横に振りながら、中庭の隅へと退いた。
……
……
「休めと言ったのに。部屋に戻っていなさいな」身支度を終えて部屋を出た杜尋雲は、若竹がまだ控えているのを見て眉をひそめ、聴蘭と素梅を連れて朝の拝謁へと向かった。
「はい、娘娘」
宮女の宿舎は、この主宮の片隅にあった。部屋は大部屋の雑魚寝で、今は誰もいない。若竹は落ち着かない気持ちを持て余していた。
だが、ここ数日ろくに休めていなかったのも確かで、主から暇をもらえるなど滅多にないことだ。体は確かに鉛のように重かった。
布団に潜り込んだものの、ほんの一刻(二時間ほど)微睡んだだけで自然と目が覚めてしまった。
外から宦官たちの料理を運ぶ声がかすかに聞こえる。もう膳を下げているのか。ならば程なくして、女官の謝鸞がやって来るはずだ。
謝鸞様……あの人、本来なら好きになるようなタイプなのよね。若竹は横になったまま寝返りを打った。
宮女が宮中で体を休めることなど滅多に許されない。一日に八刻(十六時間)みっちり働くのが常で、決まりの上では休暇など月に半日あるかないかだ。
目を閉じると、ここ数日蕭雁綾が語って聞かせてくれた、さまざまな「未来」の光景がまぶたに浮かんできた。
女の人も結婚したあと自分の財産を持てて、鉄の車に乗ってどこへでも遊びに行ける。夜に暇ができたら誰の許可もいらずに出歩けて、公園のベンチで酒を飲んだり麻雀を打ったり、踊っている人たちもいる。夏に着る服は手足の肌を堂々と出していて……。
若竹は疲労のなか、その幻想へと沈みかけていた。
――娘娘は、謝鸞様は本来なら自分が好きになるタイプだ、と言っていたっけ。若竹ははっと意識を取り戻した。
どうにも落ち着いて眠っていられない。
手早く身なりを整えると、彼女は中庭へと待機しに向かった。
謝鸞はすでに部屋の中にいた。
杜尋雲は聴蘭と素梅に、明日の儀礼の流れを書き留めさせていた。
二人の書く文字は歪んでおぼつかない。
謝鸞が口を開く。「蕭貴人様、手順書に関しましては、すでに清書されたものが……」
「あの子たちに字の練習をさせているのよ、急ぐことじゃないわ。謝鸞様、今日のご予定はお忙しいのかしら」
「いえ、本日はすべて蕭貴人様のご予定を最優先に動いております」
杜尋雲は聴蘭と素梅の手元を左右から覗き込んだ。二人は一度口頭で聞いた内容を、記憶を頼りに書き取っている。今日は宮女や宦官たちが蕭雁綾の宮殿を整え、明日は嬪の朝服に身を包んで皇帝からの使者による冊封を待つことになる。そして明後日、皇帝のもとへ赴いて謝恩の拝謁を行う。そこで初めて、嬪の位として皇帝と顔を合わせるのだ。
今日の杜尋雲の任務は、精進料理を口にし、先祖の霊廟へ拝礼することだけだった。
忙しいのは蕭雁綾本人ではなく、下働きたちである。だからこそ、若竹を休ませておいて正解だったと杜尋雲は安堵していた。
聴蘭と素梅が朝服の留意点を書き連ねるのを、謝鸞も傍らでじっと見つめていた。
書かれている内容に間違いはないものの、字は曲がりくねり、誤字も混じっている。
「なぜ若竹をお呼びにならないのですか」今日、謝鸞が最も不審に思っていたのは若竹の不在だった。
「あの子、宿直が続いていたから休ませたのよ」
謝鸞は言葉を切り、再び口を開いた。「若竹は貴人様の身の回りの世話役でございます。宿直も準備も、務めを果たすべき責務にございますが」
杜尋雲はひとつ息を吸った。「嬪に昇格して主宮の主となる以上、私には人を束ね、育てる責任があるわ。聴蘭も素梅も大切な人材よ」人を最も早く成長させる方法は重責を背負わせることだと、彼女は身をもって知っていた。二人は決して愚かではない。ただ細かな所作を磨く必要があるだけだ。
――外科医の育成だって、いつかはメスを握らせる日が来るものだ。
それに、若竹を毎晩のように添い寝させているなど、端から見れば何日も徹夜続きのまま朝から晩まで働かせているように映り、異様極まりない。杜尋雲は目を細め、謝鸞と視線を合わせないようにした。
「仰せの通りにございます。一宮の主としての重責、お見事にございます」謝鸞は頭を下げて礼を取った。
我ながらずいぶんと大層な口を利いたものだと杜尋雲は内心苦笑したが、嬪に上がれば自宮の者の言動はすべて己の責任となる。若竹が震えながら聴蘭と素梅を引き取ってほしいと懇願してきたのも、それが理由だろう。宮女が他人の前で不手際を晒せば、主の面子を潰すことになるのだ。下働きであれば、日頃から厳しく躾けられてこそ当たり前の世界。
けれど、誰かを叩いて罰するような真似はしたくなかった。
扉の外から宦官の声が響く。
「蕭貴人様、先祖祭祀の刻限にございます」
「今行くわ」杜尋雲は立ち上がった。
今日は生臭ものは一切口にできず、わずかな精進料理のみで、昼食すら抜かれている。
杜尋雲は目を閉じ、一秒だけ余分に息を整えた。手順通りに、余計な動きは一切しない。女官たちから指示された流れのままに拝礼を済ませる。
それだけでいい。
全行程合わせても三十分足らず。
朝飯前だ。
扉を押し開けると、中庭の門から少し離れた場所に若竹が控えていた。
「若竹、休んでいなさいと言ったでしょう」
「主子、この数日は娘娘のめでたき日柄でございますのに……」
「もういいから、それ以上言わなくていいの」杜尋雲は親指と中指で輪を作り、若竹の額をパチンと弾いた。「心配性なんだから。おとなしく引っ込んでなさい」
若竹はおでこを押さえた。
杜尋雲は思わず吹き出した。
その光景を目にした謝鸞は、ついて行こうとしていた足をぴたりと止めた。蕭雁綾は変わりすぎている。刺激を受けて分別を持とうと目覚めたというよりは、まるで中身がごっそり入れ替わってしまったかのようだった。自分より何歳も年上の宮女を妹のように扱い、職務の引き継ぎにも動じず、何年も勤め上げた女官のように淡々としている。
しかし、いざ問いただそうにも。
掟に背くような過ちとして上に報告できる点など、どこにもないのだ。
むしろ以前よりもずっと理路整然と、秩序正しく動いている。
謝鸞は遠ざかる蕭雁綾の背中を、呆然と見つめていた。
宦官たちが中庭の門を押し広げ、先頭の二人に促されて八人の担ぎ手が輿を入れてきた。
四人担ぎの輿が二基。
「蕭貴人様、お乗りになる輿をお選びください」
杜尋雲はじっくりと観察した。二基の輿の天蓋はまったく同じ朱色に塗られている。側面の透かし彫りはいずれも祥雲の意匠で、帳は固く閉ざされ、先だって慎刑司へ向かった際の吹きさらしの椅子とは格がまるで違っていた。
見ているうちに苦笑いが込み上げてきそうになった。やはり刺客はまだ捕まっていないのだ。護衛兵たちが引き払われたのは、文に「宝物を受け取った護衛がいる」と書かれていたためであり、警戒を解いたわけではない。おそらく外周の巡回は強化されているはずだ。
皇室は今この瞬間も、蕭雁綾が命を落とす事態だけは防ごうとしている。
杜尋雲が適当に片方を選ぶと、聴蘭が前へ進み出て帳を跳ね上げた。
足を踏み入れて腰掛ける。中の腰掛けは肘掛けが如意の形に彫られており、撫でると温かみのある滑らかな手触りだった。彼女が座り直したのと同時に、もう一基の輿には一人の宦官が乗り込んだ。宮女たちが双方の輿の帳の留め金をしっかりと留める。
皇室が自分を殺そうとしているという疑いは、捨ててよいのだろうか。
いや、皇室とは大勢の人間の集まりだ。ひと括りの人格として捉えてはならない。
杜尋雲は輿の中で、密かに張り詰めていた肩の力を抜いた。
「出立!」先頭の宦官が高らかに声を張り上げる。
二基の輿は前後に並び、中庭を出ていった。
謝鸞は隊列の尾に従う。
蕭雁綾が乗った輿に視線をやり、すぐに目線を外して、誰が乗っているかなど知らぬといった風を装った。
だが、ほんの先刻。
彼女の中の疑惑は完全な確信へと変わっていた。
蕭雁綾は、蕭雁綾ではない。
貴人が輿に乗る際は二人の宮女が付き従い、輿の担ぎ棒に足を触れさせぬよう、一人が体を支え、もう一人が裾を整えて気品ある所作を保たねばならない。だというのに蕭雁綾の乗り込み方はあまりに早すぎた。聴蘭と素梅が気を抜いていたせいで追いつけなかったのだろう。
そして蕭雁綾の身のこなしは、あまりにも流れるように自然だった。まるで自室の机の前にある椅子にでも腰掛けるかのように。
――ならば、貴女は一体誰なのですか。
謝鸞は隊列の最後尾を歩みながら、深い思索へと沈んでいった。




