無礼
力、強すぎでしょ!!!
さすが武官の一族……!
杜尋雲は蕭雁綾の手を見つめた。
視界の端では、四阿哥が自力で水から這い上がろうと激しく水しぶきを上げている。彼女が手を差し出すと、彼はしっかりと握り返し、池から上がってきた。
冷や汗が止まらない。
杜尋雲は耳鳴りがするほどの気まずさに襲われ、天地が回るような感覚を覚えた。
皇室にしか許されない黄色を身にまとった四阿哥は、まるで水も滴る大型犬のようだ。敷石はびしょ濡れで黒く染まっている。
張り詰めた空気が、ぷつりと切れた。
「四阿哥!」
ようやく遠くから宮女や貴人たちの悲鳴が響いてきた。
それでも、彼の手は蕭雁綾を離さなかった。
親指にぐっと力が込められ、強く締めつけられるのを感じる。最初に出会った日と同じ輝きが一瞬瞳に宿ったが、それはすぐに引っ込められた。
四阿哥はパッと手を引いた。
人差し指の付け根にある硬い皮膚が擦れ合う。杜尋雲はごくりと唾を飲み込んだ。皇子の手に、タコがあるなんて。
やんちゃに見えて、裏では厳しく皇室の教育を叩き込まれているのだろう。杜尋雲は改めてその少年を観察した。
頬がぽっと赤らんでいる。
「自分で落ちたんだ」
濡れた髪をかき上げながら、彼は駆け寄ってきた宮女たちに言った。
えっ!?
私が軽くポンと叩いたら、不意を突かれて半歩下がっただけじゃん! 杜尋雲の脳内でフィルムを巻き戻すようにさっきの光景が再生された。
杜尋雲が勢いよく振り返ると、背後の宮女たちは顔を青くしながら、何度も何度も頷いていた。
遮るもののない場所だし、みんな見ていたはずだ。
「四阿哥、早くお着替えをなさいませ!」
宮女たちは一斉にしゃがみ込み、小刻みに震えている。
「わかった、行くぞ」
彼はあごをくいっと上げ、大股でスタスタと歩き去っていった。
あの悪ガキ、私を責めなかった……!?
遠ざかる四阿哥の後ろ姿を見つめていると、覗く耳がほんのりピンク色に染まっていた。
おい。
おいおい。
この子、まさか!?
蕭雁綾のことが好きなの?
私はあんたの母さん……あ、いや!
義理の母さんよ!!!
杜尋雲の頭の中は大混乱に陥った。
王貴人と容貴人も駆け寄ってきた。
「蕭貴人、お怪我はありませんか」
「大丈夫です」
「四阿哥ったら、いつもあんな調子ですから」
「ええ、お気になさらないで」
「それにしても、今日は随分と激しく追いかけっこなさっていましたね」
王貴人が口元を押さえてくすくす笑う。
「さすがは蕭家のお嬢様ですこと」
「本当、お見事でしたわ」
容貴人も同調して頷いた。
杜尋雲はあまりのことに言葉を失った。これ、日常茶飯事なのか。だが、先ほどのあの少年の照れたような表情が、頭から離れなかった。
ショタコン趣味なんてないけれど。
ただ……。
ただね。
杜尋雲は再び蕭雁綾の手を見つめた。
この子だって、まだ十四歳なのだ。
現代なら、ただの幼馴染で片付く関係。
つるんで遊びたがったっておかしくはない。
はぁ……。
「蕭貴人、風邪を召されないよう、あなた様もお着替えなさってくださいね」
言われて初めて、袖が半分濡れ、動くたびに裾に張り付いていることに気づいた。
昔の服って本当に不便ね。心の中で愚痴をこぼしながら、若竹を呼ぶ。
若竹の顔も、さっきの宮女たちと同じように真っ青だった。
「大丈夫よ、戻りましょう」
そう言うや否や、若竹がさっと彼女の裾を持ち上げた。
庭園のアーチ門をくぐり抜ける際、杜尋雲は少し離れたところで太監が何やら記録しているのを目ざとく捉えた。
やっぱりね。後宮で男女が密会なんて、土台無理な話なのだ。
***
聴蘭と素梅が着替えの衣装を盆に載せて持ってきた。
「若竹、選んでちょうだい」
若竹は淡い緑色の布地に触れた。
「娘娘、こちらなど春らしくてよろしいかと存じます」
「じゃあそれにしよう」
杜尋雲は自然な仕草ですっと両腕を広げた。
聴蘭と素梅が着物を広げる。
「若竹一人でいいわ。二人は下がって」
「はい、娘娘」
二人は足音を忍ばせて下がっていった。
若竹が手慣れた様子で服を着せかけ、その手が胸元を通った瞬間、杜尋雲は彼女の手を掴んだ。
「娘娘……」
杜尋雲はその手をきゅっと握る。
「あなた、私に何か隠してるでしょう」
若竹の息が乱れた。
「娘娘……何か疑問がおありでしたら、奴婢がお答えいたします」
「蕭雁綾は、あの二人の貴人とどこまで親しかったの? 陰口を叩かれたり、嫌がらせされたりしてなかった?」
「大変親しくされておりました……娘娘、下人はそこまで近寄って聞き耳を立てることは許されておりませぬ……」
「そう。わかったわ」
杜尋雲は手を離した。
「悪かったわね」
若竹は慌てて後ずさり、床に跪いた。
「娘娘が奴婢に謝られるなど、滅相もございません!」
「今の私の態度は、謝るに値するわ」
杜尋雲は目を閉じ、自分で帯を整えた。もちろん、若竹に着せてもらうほど綺麗にはいかない。
「もう一つ質問。四阿哥は、普段から『私』と遊びたがっていたの?」
若竹は唾を飲み込んだ。
「四阿哥は、よく目立つような振る舞いをなさるお方です。娘娘が沁花園にいらっしゃる時は、頻繁にお姿を見せられておりました」
「私がいない日でも、毎日あんな風に騒いでると思う?」
若竹は一拍置いて答えた。
「……四阿哥は、宮中でも有名な悪戯好きでいらっしゃいます」
「ならいいわ」杜尋雲はため息をついた。「立って。もう跪かなくていいから」
「……」
「……」
「娘娘、すでに違和感にお気づきでしたら……奴婢から一つ、ご報告すべき儀がございます」
「何?」
「蕭雁綾様、蕭大人は、普段から白黒はっきりした、裏表のないお方でございました」
「はあ!?」
杜尋雲は思わず自分を疑った。
「つまり『私』は、目上の人にも生意気で、平気で突っかかるようなキャラだったってこと!?」
「左様でございます……」
「おいおい、そんな大事な設定、なんで今頃言うのよ!?」
杜尋雲は、自分が演じすぎていたことに気づいて頭を抱えた。あの二人の貴人が遠慮がちに押し付け合っていたのも、もともと気さくな者同士でつるんでいたからなのか。二人とも出世欲なんて最初からなかったのだ。
「蕭大人は品行方正で立ち居振る舞いも優雅でいらっしゃいましたが、ただ、曲がったことが大嫌いで……」
「あー……なるほどね。不正を見過ごせなくて、義憤に駆られて口を出しちゃうタイプだったわけね」
「はい」
「じゃあ初日の私の態度、割と合ってたんじゃない? はっきり物言う性格なら、大阿哥にあの物言いをしたって不自然じゃないでしょ」
「されど、皇室の男子に楯突くことなど許されませぬ」
おいおいおい。
杜尋雲は眉間を揉んだ。
「で、彼女は誰に盾突いたの……いや、誰を怒らせたのよ? つまり、メンツを潰されて根に持たれるレベルで衝突した相手よ。誰がいるの?」
「孫貴妃、文妃、常妃、関妃、苗嬪、舒嬪、温嬪の各様方です」
「ちょっと待ちなさい! 料理のメニューでも読み上げてるの!? なんでそんなに多いのよ! 上の位なんて全部で九人しかいないじゃない!」
若竹は声を潜めて言った。
「はい……皇后様と、主宮の姜貴妃娘娘を除く、すべての方々でございます……」
「はあ!?」杜尋雲は飛び上がらんばかりに驚いた。「それでよく首が飛んでないわね!?」
近くの椅子に崩れ落ちるように座り込んだ。
「そういう超ド級の情報、教えるのが遅すぎるんじゃないの?」
「娘娘……奴婢の目から見まして……殺意を抱かれるほどではないかと……。皆様、寛大な御心をお持ちですので」
杜尋雲は大きく息を吸い込んだ。
「まあね。口論になったところで、後から思えばただの小娘の戯言程度に流してくれたんでしょうけど」
「……」
若竹は頭を深く下げたまま、微動だにしなかった。
「どうしてさっさと話さなかったのよ。別に減るもんじゃあるまいし」
杜尋雲は頭をわしゃわしゃと掻きむしり、背もたれにぐったりともたれかかった。自分の大雑把なガサツさと、この蕭雁綾の生意気な性格。後宮で絶対にやっちゃいけない要素が見事に揃ってしまっている。思わず自嘲の笑みが漏れた。
「娘娘。蕭雁綾様、蕭家の大のお嬢様は……」
若竹がわずかに顔を上げると、その瞳は微かに潤んでいた。
「きっと、娘娘の仰る『鉄の鳥』にお乗りになるようなお方だったかと」
飛行機のこと?
杜尋雲は若竹の顔をじっと見つめた。
「……つまり彼女、わざと粗相をやらかして、宮中から追い出されたがってたってこと?」
「奴婢がそのようなこと、滅相もございません」
「追い出されるにしても、何かしら罪名がつくでしょ。死罪は免れたとしても大問題よ。下手すりゃ流罪じゃない」
杜尋雲は立ち上がり、書棚から規則書を引っ張り出してきた。宮規なんて丸暗記できるはずもない。
確かに、貴人としての品位に欠けると判断されれば、宮女へと降格させられる条文がある。もちろん、流罪に関する項目も。
「宮女なら、二十五歳になった時に一度だけ、実家に帰るかどうかの選択権があるのよね?」
「はい」
杜尋雲は条文を目で追いながら、しばらく沈黙した。
下女に身を窶してでも。
外へ出たかったというの?
次の頁をめくる。
この抜け道が通用するのは、貴人、常在、答応といった下位の妃嬪だけだ。もし正式な「妃」の位にある者が重大な規律違反を犯せば、一生冷宮に幽閉され、軟禁生活を送ることになる。一度でも真に皇帝の女となってしまえば、ここから出る道は完全に絶たれるのだ。
やっぱり……あの御前侍衛が関係しているのかもしれない。
杜尋雲はまた一つ、長いため息をついた。
蕭雁綾、男って生き物はね、あんたが二十五になるまで待っちゃくれないわよ。
ここの人間は十六そこそこで嫁入り・婿取りをするのだ。御前侍衛ともなれば、方々から縁談が殺到して敷居がすり減るレベルだろうに。
「若竹、もう立っていいわよ」
ため息混じりにその名を呼んだ。
だが若竹は跪いたままだ。
「まだ何かあるの?」
若竹は消え入りそうな声で口を開いた。
「娘娘が奴婢に胸の内を明かしてくださったということは……嬪へと昇格されたあかつきには、若竹をお連れくださるおつもりですね」
「当たり前でしょ」
「お願いがございます。聴蘭と素梅も、一緒にお連れいただくことは叶いませんでしょうか」
若竹の声は、指先が震えるほど強張っていた。
下人が主に対して要求を突きつけるなど、言語道断なのだろう。杜尋雲は眉を上げ、震える彼女を見つめた。
「前にも申請できるって言ってたわね。どうしてもあの二人を連れて行きたいのね」
「はい、娘娘」
たったそれだけの願いに、これほどの勇気を振り絞り、こんな回りくどい根回しをするなんて。
「仲がいいのね。一緒に入宮したの?」
「はい」
「そんなに怯えられたら、私がまるで鬼みたいじゃない」
杜尋雲は椅子の上で横向きになり、頬杖をついた。
「私、そんなに話の通じない人間に見える?」
「娘娘、決して二人を蔑むつもりはございません。ですがあの者たちは天真爛漫すぎて、余計なことを口にしては失敗を招きやすく……後宮には向いていないのです」
「……」
杜尋雲は記憶を辿ったが、二人が目立ったヘマをした覚えはなかった。だが少し考えて合点がいった。一連の給仕の中で、二人がもたつきそうになると、すかさず若竹が間に入って仕事を肩代わりしていたのだ。
「蕭雁綾の下にいたからこそ、あの二人はお仕置きされずに済んでたってわけね?」
若竹は口を噤んだ。
「他の気性の荒いお妃様のところに回されたら、ちょっとしたミスで板打ちの刑にされる。……そうでしょ?」
「……はい」
杜尋雲は、前世の臨床現場で吐き出し尽くしたはずのため息を、すべてここで使い果たしているような気分になった。
「何かあるなら、これからは私に直接言いなさい。ほら、立ちなさい」
「感謝申し上げます、娘娘」
さっき若竹が床に平伏した瞬間、杜尋雲はこの世界との繋がりがふっと途切れてしまったような孤独感を覚えていた。
「私たち、結構いい関係になれてると思ってたんだけどな」
若竹にもその真意が伝わったのか、その瞳には再び涙が滲んでいた。
「あんた、本当に蕭雁綾のことが大好きなのね」杜尋雲は静かにつぶやいた。「私が心を入れ替えて、うまく立ち回って、なんとか生き延びてほしいって願ってるんでしょ」
「め、滅相もございません」
「腹を割って話してくれたお礼に、私も一つ情報を教えてあげるわ」
杜尋雲はそろそろ限界だった。この息の詰まるクソみたいな後宮の生活に。
若竹は椅子の傍らまで歩み寄り、腰を落としてしゃがみ込んだ。
「いい? 身分差だらけのドロドロした三角関係に巻き込まれるくらいならね。皇帝だの皇子だの、侍衛だののゴタゴタよりも……私、元の世界にいた頃は、絶対に! 断然! 謝鸞みたいなタイプが好みだったのよ!」
「……え?」
若竹はぽかんと口を開けた。
「意味わかる?」
若竹はブンブンと猛烈に首を横に振った。
「男も女もいけるクチだったけど、無意識に惹かれちゃう特定のタイプってのが確実にあるの! 理解できる!?」
若竹は青ざめ、狂ったように首を振り続けた。
「つまりね!」
杜尋雲は若竹の手を引いて、自分の胸元に押し当てた。
若竹は魂が抜け出たように目を丸くした。
「こっちに来てから、ここにも大問題が発生してるのよ! 私、完全に異性愛者になっちゃったみたいなの!」
杜尋雲は彼女の手をさらに衣の奥へと滑り込ませた。肌と肌が触れ合う。だが、蕭雁綾の体は静まり返り、何のときめきも波紋も生まれない。
若竹の顔は一瞬で真っ赤に沸騰した。
「にゃ、娘娘……!」
「何赤くなってんのよ!」
若竹はもう片方の手で顔を覆った。
「奴、奴婢が……貴、貴、尊いお体に触れるなど……!」
「何を緊張してんの。女同士、同じもんがついてるでしょ」
若竹は恥ずかしさのあまり、小刻みに何度も頷いた。
「お風呂の時だって散々見てるじゃない」
「は、はいぃ……」
杜尋雲は目を細めた。この子、まさかガチの百合なんじゃ……? だから妹分たちを必死に庇って、蕭雁綾のことも小宮女たちのことも命がけで守ろうとしてるのかしら。
「もういいわ」
杜尋雲が手を離すと、若竹は弾かれたように手を引っ込め、両手を胸の前で重ね合わせた。顔の紅潮は一向に引く気配がない。
まあいいか、と杜尋雲は思った。主従関係なんだから、緊張して当然だ。これじゃ何も検証できない。
「はぁ……」
何一つ思い通りにいかない現実に、杜尋雲は深いため息を落とした。
「聴蘭と素梅を呼んでちょうだい。二人も一緒に連れて行くって、伝えてあげなさい」
若竹の声が、パッと数オクターブ跳ね上がった。
「ありがとうございます、娘娘ッ!!!」




