知らない恋
女官の謝鸞ははっきりと教えてくれた。朝の拝謁は、まず太皇太后に挨拶し、その後に皇后にお目見えするものだと。
皇帝には会わない。
ただ一つ、例外を除いては。
たまたま皇帝のお渡りの時刻と重なってしまった場合だ。
滅多にないことだと言われていた。皇帝の拝謁はもっと早い刻限に行われるのが通例だからだ。
今日はこちらの集合が早すぎたのだろうか? 杜尋雲は内心で首を傾げた。比較できる基準など持ち合わせていないのだから仕方がない。
皇帝の歩みは落ち着き払っており、なるほどこれが日常なのだと察せられる。彼は奥へと進み、太皇太后の御前で膝をついた。
杜尋雲にしてみれば、皇帝などまじまじと見つめるような代物ではない。こうして頭を垂れて伏していればすぐに終わる話だ。今の彼女の目標は、とにかく目立たず低姿勢を保つことだった。
そもそも自分は位の低い貴人にすぎず、扉のすぐ近くにいるため、奥の様子などろくに見えもしない。
だが、どうしても頭を上げたくてたまらない衝動が突き上げてくる。
なんなのよ、これ?
朝の拝謁で行儀が悪ければ、月ごとの手当を削られると聞いた覚えがある。ひどい場合は位を落とされることもあるのだ。
それなのに、何かの力がどうしても彼女に前を見させようとする。
杜尋雲がわずかに顔を上げると、扉口に立つ侍衛と目が合った。
皇帝直属の近衛隊――御前侍衛のひとり。
文開済。
その名が脳裏に直接浮かび上がった。
彼は二列に並ぶ侍衛の斜め後方、目立たない位置に控えていた。
蕭雁綾の心臓が、跳ねるように脈打つ。
室内の煙がかった空気は、蝋燭の灯火に染まって琥珀色を帯びていた。
その一方で、彼は昇りつつある朝日の冷たい光の中に立っている。
朱塗りの柱が、空を刺し穿つように伸びていた。
嘘……嘘でしょ。
杜尋雲は慌てて頭を下げたが、それでももう一度見たいという抗いがたい欲望が湧き上がる。
凛々しい面差し、小麦色の肌、身につけた軽甲越しにもわかる均整の取れた筋肉の輪郭。
全然私のタイプじゃないじゃん!
杜尋雲は心の中で叫んだ。それなのに心臓は激しく乱れ打っている。
蕭雁綾、あなた御前侍衛なんかに惚れてるわけ!?
他の護衛たちはみな前方を直視していた。
だが、その男だけは蕭雁綾の視線に気づいた瞬間から、彼女をじっと見つめ続けていた。
杜尋雲はごくりと生唾を飲み込んだ。
彼の眉元は兜に隠れていたが、筋肉のわずかな緩みが杜尋雲には感じ取れた。
彼はただ、厳めしい表情を取り繕いながら想い人を見つめているのだ。
とんでもないことだ。実にまずい。
杜尋雲は青ざめた。どう考えても打ち首ものの沙汰だ。皇帝の拝謁が終わり、足音が次第に近づいてくる。
杜尋雲は慌てて再び頭を下げた。
後宮はすべて皇帝の女たちの世界であり、建前上、いかなる男も近づくことは許されない。
太医と侍衛を除いては。
だが太医が来るときは侍衛か宦官が同席する。
侍衛がいる場合も、必ず他の侍衛や宦官が付き従う。
ましてや御前侍衛の役目は皇帝の警護に尽きる。
二人きりになる機会など、あるはずがなかった。
それなのに。
心を通わせてしまっている。
杜尋雲は頬の火照りと動悸、そして頭を巡る気まずさの中で、手のひらにじっとりと滲み出る汗を止められずにいた。
元の世界での杜尋雲は、どちらかといえば色白で中性的な男が好みだった。強いて言うなら型通りの「女顔」が好きで、女性に対しても、刈り上げのようなボーイッシュすぎるタイプには惹かれない。
目の前の男の容姿は、完全にストライクゾーンから外れている。それなのに、胸は波打つように高鳴るのだ。
最悪だわ。
頭では微塵も興味がないのに、体が狂おしいほど触れ合いを求めている。
目を閉じれば、口づけを交わす妄想さえ浮かび上がってくる始末だった。
皇帝の足音が遠ざかっていく。御前侍衛の隊列も、独特の金属音を響かせながら去っていった。
杜尋雲はほっと息をついた。
張り詰めていた緊張が抜けていく。
体がぽかぽかと温かかった。
彼に一度会えたから、なのか?
太皇太后から「面を上げよ」と声がかかる。
一同が一斉に立ち上がった。
杜尋雲はほとんど放心状態で動作をこなしていた。あの青年の姿が、どうしても脳裏から離れない。
杜尋雲は隊列に従って歩を進め、一行は皇后娘娘の宮殿へと戻った。
そこでもう一度拝礼を済ませれば、ようやく退出できる。
ふう。
早起きを除けば、さほど難易度は高くない。
「嬪」以上に昇格しない限り、貴人以下の側室たちの仕事は生涯これ一つなのだ。毎朝集まり、挨拶をする。さらに身位が低ければ、毎日通う必要すらない。
やっぱり臨床医の仕事のほうがよっぽど過酷だったわね……以前は怯えて損したわ。皇帝の女たちの生活なんて、どこが過酷だっていうのよ。
杜尋雲は内心で胸をなでおろしたものの、どこか落ち着かないざわめきが胸に燻っていた。
宮殿の外へと出ると、少し離れた場所に若竹、聴蘭、素梅の三人が控えていた。
ようやく少し安心できた。
「早く戻りましょう」
杜尋雲は謝鸞が届けてくれた書物を調べたくて仕方がなかった。常識に照らし合わせれば、御前侍衛があのような態度を取るなど即刻打ち首に決まっている。だが、この世界の文化は微妙に異なるかもしれない。やはり確認しておくのが賢明だ。
足早になる。この甬道が、今は長すぎて鬱陶しかった。
「蕭貴人様」
「蕭貴人様」
背後から、反響を恐れるかのような潜められた声が届いた。
杜尋雲が振り返る。
見覚えのない二つの顔があった。
それぞれ一人の宮女を従えている。
「主子、王貴人と容貴人」
若竹が小声で囁いた。
杜尋雲は素早く左右を一瞥し、礼をとった。
「お姉様方にご挨拶申し上げます」
「妹君、ご挨拶などよいのですよ。ごきげんよう」
「妹君のお体がようやく快復されて何よりです。今日はぜひ、私たちと葉子牌をご一緒しましょうね」
「午後は沁花園にいらして。約束ですよ」
二人の貴人は揃って深い藍色の装束を身にまとっており、よく調和していた。同じ妃嬪の配下に属しているからか、あるいは単純に仲が良いのだろう。
二人は挨拶を交わすと、足を止めることもなく急ぎ足で立ち去っていった。
「主子、私たちも早く貴妃娘娘の御前へ参りませんと」
若竹が小声で促した。
杜尋雲はそこで、もう一仕事残っていたことを思い出した。自分の「直属の上司」に朝の挨拶を済ませなければならないのだ。
聴蘭と素梅が右の壁沿いを進むのを見て、杜尋雲もそれに倣って右へ折れる。同じ宮殿に住まう身とはいえ、彼女には正面の中門をくぐる資格はなかった。
今の杜尋雲にとって、立ち並ぶ壁面はどれも同じに見えて仕方がない。
「蕭貴人様にご挨拶申し上げます。万福金安にございます」
曲がり角で待ち受けていた宦官が、二歩進み出て出迎えた。
杜尋雲は彼の案内に従って門内へと足を踏み入れた。その道すがら、若竹、聴蘭、素梅の足取りが次第に止まり、その場に控えた。
待って!
ちょっと待って!
この身分の方を前にしたときの一人称は何だっけ? 「臣妾」でいいの!?
復習する暇もなく、最後の扉へと至ってしまった。
ああ、もう! さっきの忌々しい光景のせいだ。あの御前侍衛のせいで記憶がすっかり乱されてしまった。
宦官たちが頭を垂れて一礼し、殿内へと導いた。
中央の梨花木の椅子に、姜貴妃が腰掛けていた。
太皇太后や皇后の玉座とは異なり、その座壇上ではなく平場に置かれている。殿内の金箔の装飾はごくわずかで、控えめな金泥の縁取りがある程度だった。
衣も純然たる明黄色ではなく、皇后のものと比べると少し色合いを違えてある。
背後の屏風に描かれた意匠は一見すると鳳凰のようだが、実際には鳳凰に似せた別の鳥だった。
杜尋雲はここにきて、後宮の歴然たる階級差を肌身で実感した。彼女は身を屈めて礼を執る。
「臣妾、貴妃娘娘にご挨拶申し上げます。貴妃娘娘、万福金安にございます」
「……」
椅子に座る人物からは何の返答もない。
面を上げよとも、下がれとも言われなかった。
杜尋雲は言い回しを間違えたのではないかと疑った。頭の中にはテレビドラマの創作や元の世界の知識、そしてこの世界の女官からの教えがごちゃ混ぜになっている。
けれど、たった一言の挨拶でそこまで外すはずもない。
「妹よ、面をお上げ。顔をよう見せておくれ」
姜貴妃が突然、柔らかな声で呼びかけた。
杜尋雲は顔を上げた。
「あと二日もすれば、こうして顔を合わせることも叶わなくなるのだからね」
その微笑みには確かな慈しみの色が滲んでおり、杜尋雲はそれをはっきりと見て取った。
この子。
いや、違う。
この貴妃、見たところまだ二十歳そこそこにしか見えない。
まさか……私的にかなり親しい仲だったの!?
何て返せばいいのよ!?
「臣妾……娘娘の温情、身に余る光栄に……」
「娘娘、林貴人様がお目通りを求めております」
外から宦官の報告する声が響いた。
「蕭貴人、もう下がりなさい」
姜貴妃は瞬時に最初の面持ちへと戻り、先ほどの温かな眼差しは跡形もなく消え失せていた。
ふう……助かった、朝は忙しくて。
杜尋雲は扉の外へ退くと、急ぎ足で若竹の元へと駆け寄った。走るというよりは、底の厚い靴が大きな音を立てないよう体幹に力を込めた早足だった。
「主子」
若竹がただならぬ気配を察知する。
「もうすぐ宦官が朝餉を運んでくる頃合いじゃない? 急いで戻りましょう」
「はい」
杜尋雲は足早に長廊を抜け、偏殿へと帰り着いた。
「扉を閉めて」
聴蘭と素梅はおとなしく外で立ち止まり、若竹が内側から静かに扉を閉ざした。
杜尋雲は謝鸞が届けてくれた書物の山を降ろし、猛然と頁をめくった。
後宮の規律を破った場合の罰則――訓戒だの、罰銀だのといった箇条書きが並んでいる……前半の生ぬるい規定など、もはや何の役にも立たない。
彼女は一気に巻末から読み進めた。
若竹は部屋の中で不安げに控えて近づくこともできず、その眉根を深く寄せていた。
杜尋雲の目が、ついに侍衛との密通・後宮紊乱に関する条文を捉えた。
一文字たりとも見落とすまいと、指先で文字をなぞる。
――滅族、家財没収。
関与した妃嬪も同罪、死罪に処す。
やっぱり……そうよね……。
根本的な掟というものは、この世界であろうと変わりはしないのだ。
杜尋雲は恐怖のあまり本を乱暴に閉じ、両手で強く押し潰した。めくった頁の跡が分からなくなるまで、小口が歪むほど全体重をかけて押さえつける。
震える掌をどけると、本の表紙は滲み出た冷や汗でぐしゃりと波打っていた。
蕭雁綾、蕭雁綾、あなた一体なんて真似をしてくれたのよ。




