今日より、妾は蕭雁綾
若竹は、杜尋雲が想像していたよりもずっと聡明だった。
この娘が数百年後に生まれていればよかったのにと、彼女は幾度となく思わされた。
若竹の書いた実家への手紙。無事を知らせる部分は整然としつつも生き生きとしており、宝物を拾ったことなど、日常の些細な出来事に過ぎないように見せていた。
杜尋雲は時折、彼女の横顔を眺めながら、もしや現代の女子大生ではないかなどと空想に耽ることがあった。
「蕭貴人様……」
段衡が戸口で一礼した。すでに藁の衣を身にまとっている。
杜尋雲の視線は、どうしようもなく庭のほうへと漂った。
一日中待っていたのだ。
薄暗い夕暮れ。
祈祷を行うには適した時刻だった。
この時代は科学の限界ゆえ、往々にして呪術と医術が入り混じって用いられる。
段衡とて長く医官を務めてきた身、呪術が真っ当な治療に及ばないことなど百も承知だが、もし大っぴらに「これは偽物だ」などと口にすれば、破門を言い渡されかねない。
杜尋雲は静かに部屋を出ると、庭の中央に草木灰で描かれた円の真ん中へと歩みを進めた。
「始めてください、段大人」
段衡は今回、銀色の仮面をつけ、一本の木剣を振るっていた。杜尋雲の周りを駆け回るたび、仮面に黒い亀裂のような影が走る。よく見れば、銀色の部分は木の葉の形をしたスパンコールのような小片であり、蛇の鱗のように幾重にも重なり合っていた。
何事もなければ、これが最後の治療となる。
味方になるか。
それとも、去るか。
「うおおおおおっ!」
彼の手にある剣の振りが次第に速まる。
風がざわめく。
気流が渦巻く。
藁の独特の匂い。
杜尋雲は両目を閉じた。
まるで、田舎の野辺にいるような感覚。
複雑な足運び。
幾重にも巡る。
ぐるぐると、回る。
段衡は黄色い紙の呪符を取り出し、高く掲げた。
それは舞い落ちるとき、気ままに、ゆっくりと揺れた。
木剣が突き出される。
紙に記された朱の文字を貫く。
裂け目で縫い止められた呪符。
それは貴人の眉間でゆらめいていた。
段衡は歯を食いしばり、口から炎を吹き出した。
黄色い呪符がめらめらと燃え盛る。
その灰は、
ただ上へと舞い上がっていった。
杜尋雲が目を開けたとき。
目の前に立つ段衡は、先ほどの激しい動きのせいで荒い息を鼻から漏らしていた。
二人の視線が交わったのは、一秒にも満たない。
若き太医の表情には、確たる意志が宿っていた。
杜尋雲には、彼の決断が分かった。
今日より、彼女は正真正銘の「蕭雁綾」となるのだ。
「おめでとうございます! 蕭貴人様!」
段衡は拳を握り合わせて膝をつき、腹底からの声を響かせた。中庭にその声が反響する。
「おめでとうございます! 蕭貴人様!」
「おめでとうございます! 蕭貴人様!」
「おめでとうございます! 蕭貴人様!」
太監たちの声が次々と重なり合う。
後宮に、まるで慶事のような空気が満ちあふれた。
……
「うう……」
理屈では分かっているけれど、本当に毎朝五時起きなんですか……。杜尋雲は布団の中で少しばかり怠けようとしていた。
そう。
まさに現代人のように。
十分おきにアラームを何個もセットしておく。
あの感覚だ。
若竹が彼女の髪をそっと撫でる。
蕭雁綾というこの顔への慈しみであることは、杜尋雲にも分かっていた。
「主子、お起きになるお時間です」
若竹が小声で呼びかける。
「んん……」
杜尋雲は目をこすった。
「門前の侍衛たちが、配置転換されました」
「えっ?」
なんという手回しの早さだろう。
「城外の河原で遺体が見つかり、刺客ではないかとのことです。危機は去ったとみなされました」
「そうなんだ」
杜尋雲は笑った。
そんな都合のいい偶然があるものか。
手紙の中で、侍衛たちが贈り物を受け取りながら報告を怠っていた事実をそれとなく突いたのだ。内輪の信頼関係にほころびが生じ、これを口実に体面を保ちつつ引き揚げさせたに違いない。ずっと突っ立って見張りを続けるのも、連中にとって馬鹿らしかったのだろう。
杜尋雲は窓の外を眺めた。肌寒い朝の空気が、すでに室内に忍び込んできているようだ。
「主子、娘娘」若竹は微笑みながら頷いた。「本日は装いが異なります」
ああ。
娘娘と呼んだ。杜尋雲は彼女の瞳を見つめた。目の下に隈などひとつもない。
「昨晩はよく眠れた?」
「とてもよく眠れました」
「普段通りにいけば、今日そつなく振る舞えたとして、嬪への冊封はいつ頃になりそう?」
若竹はまばたき一つせず答えた。
「娘娘にご報告いたします。三日後が吉日にございます」
「分かった」
杜尋雲は身を翻してベッドから降りようとした。若竹が跪き、彼女に靴を履かせる。
杜尋雲が何か言いかけた、そのとき。
「娘娘、奴婢は、あなたがここにおいでくださって嬉しく思っております」
杜尋雲は深く息を吸い込んだ。
履かされたのは、濃紺の厚底靴だった。細い竹に戯れる一対の蝶が羽ばたく刺繍が施されている。彼女は足を止め、数秒間それを見つめた。
「今はまだ、皇太后様や皇后様の前では『奴婢』と自称して、嬪になってから『臣妾』と名乗るのよね」
「左様にございます、娘娘」
「でも儀式が済むまでは、周りからは相変わらず『貴人』と呼ばれるのね」
杜尋雲は念を押すように確認した。
「はい」
「怖くないの?」
「娘娘が真実を打ち明けてくださった時点で、奴婢に命を預けてくださったのも同然にございます」
若竹は深く頷くと、「お入り」と声をかけた。
数秒後、聴蘭と素梅が扉を開けて入ってきた。盆の上に捧げ持たれた本日の衣装は、清朝仕立ての桃色の衣で、蘭と梅の花が織り込まれていた。
思わず、この二人の名を連想させる。
「娘娘、こちらは季節に合わせた柄付けにございます」
「春ね」
今は冬から春へと移ろう早春。寒暖も穏やかで、実に過ごしやすい。
もし夏ならば、梅の花の柄など到底使えないはずだ。
若竹はまず杜尋雲の内衣を着替えさせた。
素梅が鴨居を叩くと、外から太監たちが木桶を担ぎ込んできた。
杜尋雲も今ではこの「おまる」での用足しにすっかり慣れていたが、蕭雁綾として朝の拝謁に向かう初日とあって、脈が激しく打つのを感じていた。
彼女が狭苦しい仕切りから出ると、太監たちは素早く一切を片付けて退出した。
杜尋雲は広間で両腕を広げた。若竹が衣を着せつけ、聴蘭と素梅が手際よく装飾品を手渡していく。
貴人の身分に許される装身具はどれも控えめで上品だった。玉の簪は艶消しで、瑞雲を思わせる柔らかな曲線を描き、決して華美であってはならない。医者である杜尋雲にとって、仕事中に視界に入るはずのないこれらは、どこか非現実的なものに思えた。
貴人は中央の大道を通ることは許されず、側面の細い甬道を通って後宮の奥へと向かわねばならない。宮中に入ったこれほど多くの女たちが、その大半は一生外へ出られないのだと思うと、杜尋雲には、大道を通れるかどうかなんて大差ないように思えた。
けれど……。
せっかく来たのだから。
せめて。
せめて、この掟くらいは変えてやりたい。
道を歩きながら見上げても、まだ陽は昇っておらず、空は紫色を帯びていた。後ろに続く娘たちの足音はわざとらしく思えるほど静かだったが、それは特別な訓練の賜物なのだろう。
彼女たちを、普通に外へ出られるようにしてあげること――それが杜尋雲の変えたい最初の望みだった。
数千年だ。
何千年もの長きにわたって。
清代では、宮女は二十五歳になると一度だけ宮中を出る機会が与えられ、残るかどうかを自ら選ぶことができる。残れば終身奉公となるが、これすら清代ならではの特色だった。前代の明では初めから終身奉公だったのだ。この王朝では、さらに緩める余地があるだろうか。杜尋雲は生唾を飲み込んだ。今はそんなことを考えている場合ではない。
集中力を欠いていた。
彼女は自分の手の甲をつねった。
いま何より肝心なのは、朝の拝謁を無事に演じ切れるかどうかだ。
貴人は原則として、皇后の住まう【仁鐘宮】の前に至れば、自身の宮女を中へ連れて入ることは許されない。
若竹、聴蘭、素梅の三人は、心得た様子で大人しく足を止めた。
杜尋雲の手のひらに汗がにじむ。
殿内へと足を踏み入れた瞬間、中央に座す人物に視線を奪われた。
――明黄色の綸子地に、牡丹の刺繍。
一目で皇后だと分かった。
日常の場ということもあってか、身分の高さを示す明黄色を除けば、衣装そのものは過度に仰々しいものではなかった。柳の葉のような眉に、涼やかな切れ長の目、雪のような白い肌。まるで古典の絵巻物から抜け出てきたような女人だった。
「皇后娘娘にご挨拶申し上げます」
杜尋雲は跪いた。
「面を上げよ」
杜尋雲は本殿へ入ることを許された最下層の身分であるため、最も末席に跪くのが筋だった。そのため、部屋の隅を選んで平伏した。不思議なことに、謝鸞にみっちり叩き込まれねばならないと思い込んでいた所作は、この肉体に染み付いた筋肉の記憶が勝手に動き、絵に描いたように完璧な礼法をこなしていた。
話によれば、機嫌を損ねるといつまでも跪かされ続けることもあるという。
だが今日は運が良かったらしい。
居並ぶ面々はほぼ同時に揃った。
いや、太監や宮女たちが申し分なく統制していただけかもしれない。
皇后が皆に向けて小さく頷いた。
周囲の影たちが一斉に立ち上がる。
杜尋雲も周囲の動きを真似て歩き出した。周りの女たちの顔や衣装を記憶するほどの余裕は毛頭ない。ただ、貴人より上の位階は定員十四人のところ現在は九人おり、貴人は合わせて十八人、その背後に従う常在や答応がおよそ三十人いることだけは把握していた。
その三十人は殿内に入ることすら叶わず、移動の列に従うことしか許されない。
上位の妃嬪たちは輿に乗り込み、残りの者たちは早足で後に続いた。
皇后の宮殿を後にし、一行は太皇太后の座す【慈明宮】へと向かった。
これから毎日、誰彼構わず平伏し続けねばならないのかと思うと、杜尋雲は眩暈がしそうだった。だが考え直せば、現代で自分が回診をしていたときも、他業種の人々から見れば同じように煩雑で気の遠くなる作業に見えていたはずだ。
この一連の流れは、テレビドラマとはまるで違っていた。
画面で見ていたものとは程遠い。
おそらくドラマでは物語を動かすために会話を発生させる必要があるのだろう。
だが、現実に広がるこの場において、権威が要求するのは絶対的な「粛立」だった。
唯一の救いは、立ち並ぶ建築の造形が、かつて旅先で目にした紫禁城そのものだったことだ。でなければ、本当に取り乱していたかもしれない。
杜尋雲は玉座の主を直視しなかった。皆が跪くのに合わせて、ただ頭を垂れる。
「太皇太后様、聖躬万安にございます!」
何十もの声が一斉に重なり合った。
その声は、宮殿の天蓋に少なくとも三度こだました。
杜尋雲はその迫力に圧倒された。昔の女たちはみな儚げに装うものだと思い込んでいたが、とんでもない、誰もが気迫に満ちあふれていた。
太皇太后が立ち上がるよう命じない限り、顔を上げることは許されない。杜尋雲は床に身を伏せながら、この肉体の順応性の高さに内心驚いていた。現代の自分の身体なら、五分と持たずに音を上げていただろう。
今の太皇太后は先帝の皇后であった。慈明宮での朝の拝謁を終えた後は皇后の宮殿へと戻り、皇后が自らの玉座に着いたところで皆がもう一度跪拝して、ようやく一連の儀礼がすべて完了することになっている。
初日はとにかく目立たぬよう控えめに。目を合わせず、余計な口を利かないに限る。
「皇帝陛下のお成り――!」
太監たちの鋭い叫びが響き渡った。
中央に跪いていた者たちの膝が、音もなく素早く左右へと退いた。慈明宮の門前に、幅の広い道がさっと開かれる。
空気が凍りついたかのように静まり返った。
三十秒と経たぬうちに、
明黄色の綸子の長靴が、敷居を跨いで踏み込んできた。
そこには、五つ爪の龍が縫い取られていた。




