第9話 白嶺で暮らす
桶は、思っていたよりずっと重かった。
井戸の縁に両手をかけたアリアは、水の入った桶を持ち上げようとして、すぐに腕を止めた。少しだけ持ち上がった水面が揺れ、桶の中でちゃぷんと音を立てる。
「……重いです」
「水だからねえ」
横から、しわのある手が伸びてきた。
白嶺の朝は早い。温泉の湯気がまだ白く残り、石畳の隙間には薄い霜がある。アリアが仮住まいの戸を開けたときには、近所のおばあさんたちはもう井戸のまわりに集まっていた。
そのうちの一人が、アリアの桶をひょいと持ち上げた。
「姫様、それは満杯にするもんじゃないよ」
「姫様ではなく、アリアで」
「はいはい、アリア様」
「様も、できれば」
「それは無理だねえ」
おばあさんたちは、声をそろえて笑った。
からかわれているのに、不思議と嫌ではなかった。帝城で笑われると、胸の奥が冷たくなった。ここで笑われると、手の中の桶だけが重い。
「最初は半分。こぼさず運べるようになったら、少しずつ増やすんだよ」
「はい」
アリアは桶の水を半分ほど戻してもらい、もう一度持った。
今度は持ち上がった。
けれど、歩き出すと水が揺れた。左へ傾く。慌てて右へ戻す。今度は右へ傾く。
「違う違う、そうじゃない」
「桶を見すぎだよ。足もとを見るんだ」
「肩に力が入ってる。ほら、背中」
あちこちから声が飛んだ。
アリアは一つずつ頷いた。頷くたびに水が揺れるので、途中から頷くのもやめた。
レクス・ノアは井戸のそばの石の上に座って、その様子を見ていた。小さな尻尾が、霜のついた石をゆっくり払っている。
「非効率だ」
レクスが言った。
「でも、がんばってる」
ノアの声がした。
「がんばりと効率は別だ」
「じゃあ、がんばり効率」
「その分類はない」
「つくればある」
おばあさんの一人が、ふふっと笑った。
「小さい龍様は、朝からにぎやかだねえ」
「にぎやか」
ノアが嬉しそうに繰り返した。
アリアは水をこぼさないように、ゆっくり歩いた。
仮住まいまでの道は短い。
けれど、戻り着いたときには、指先が赤くなっていた。
それでも桶の中には、水が残っている。
「できました」
小さく言うと、おばあさんたちがまた笑った。
「できたできた」
「明日は薪だね」
「薪も、運び方があるからねえ」
アリアは桶を置いた。
まだ何も大きなことはしていない。
水を半分、運んだだけ。
でも、白嶺の朝の中に、少しだけ自分の手の跡が残った気がした。
* * *
その日の午前、アリアは薪を落とした。
午後には、薬草を裏返す向きを間違えた。
市場では、干し肉の包みを抱えきれず、ルークスに半分持ってもらった。
「白嶺の暮らしは、なかなか手強いですね」
ルークスは笑いながら言った。
「はい」
アリアは両手で小さな籠を抱え直した。
「でも、教えていただけるので、分かります」
「それはいいことです。分からないのに分かった顔をされると、白嶺の人たちは困りますから」
「分かった顔」
「大人がよくやる顔です」
アリアは少し考えた。
「わたしも、気をつけます」
「アリア様は、今のところ大丈夫です。桶に負けた顔はしていましたが」
「桶は、強いです」
ルークスはこらえきれずに笑った。
市場といっても、帝都のような大きなものではない。広場の端に木台が並び、野菜、干し肉、布、薬草、古い道具が置かれている。売り声も少なく、話し声のほうが多い。
その隅で、薬草を干していた女性が手を上げた。
「アリア様、字は書けるんだったね」
「はい」
「じゃあ、これを書いてくれないかい。南の商人に出す控えなんだけど、うちのじいさんの字は読めたもんじゃなくてね」
差し出された板には、品の名と数が炭で書かれていた。
アリアはそれを見て、少しだけほっとした。
字なら分かる。
数なら、分かる。
井戸の桶より、薪の束より、ずっと軽い。
アリアは木台の端を借り、紙に品名を書き写した。薬草の束、乾いた根、布袋、山羊の乳で作った硬いチーズ。数字をそろえ、足し合わせる。
横から見ていた女性が、目を丸くした。
「まあ、早い」
「間違っていませんか」
「いや、うちのじいさんよりずっといいよ」
「失礼だぞ」
奥から老人の声がした。
女性は笑って、アリアの手元に小さな袋を置いた。
「働いた分だ」
袋の中には、小ぶりの芋が三つと、乾いた豆が入っていた。
アリアは袋を見つめた。
「いただいて、よいのですか」
「仕事をしたんだろう」
「はい」
「なら、持っておいき」
胸の奥に、じわっと温かいものが広がった。
施しではない。
お礼とも少し違う。
働いた分。
その言葉は、金貨より小さくて、金貨より手に近かった。
レクス・ノアが木台の下から袋を見上げた。
「報酬だ」
レクスが言った。
「芋」
ノアが言った。
「報酬だ」
「報酬、食べられる」
「ものによる」
「これは食べられる」
アリアは袋を両手で抱えた。
「はい。これは、食べられます」
夕方には、別の家で手紙の代筆を頼まれた。
短い文。
南へ嫁いだ娘へ、冬の具合と山羊の子が生まれたことを知らせる手紙。
アリアは一字ずつ丁寧に書いた。読み上げると、頼んだおじいさんは何度も頷いた。
「うん。それでいい。あの子も分かる」
帰り際、焼きたての小さなパンをひとつ渡された。
まだ少し熱かった。
アリアはそれを落とさないように、両手で包んだ。
白嶺で暮らす一日は、知らないことばかりだった。
けれど、知らないことを教わるたびに、帰り道の荷物が少しずつ増えていった。
* * *
帝都の皇帝執務室では、夜になっても灯りが消えなかった。
机の上には、書類がいくつもの山になっている。税。北方情勢。地方官の更迭案。飢饉の兆し。門閥貴族からの抗議文。
オスヴァルト・レオ・ヴァルグレインは、その一枚に目を通し、署名し、次の一枚へ手を伸ばした。
扉の前で、近衛が膝をつく。
「第一皇女殿下の行方は、依然として不明です」
筆先が止まった。
部屋の中で、紙のこすれる音だけが残る。
「……探せ」
オスヴァルトは言った。
近衛が頭を下げる。
「御意」
「だが、追うな」
近衛は、わずかに息を止めた。
「発見しても、手を出すな。報告だけを上げろ」
「承知いたしました」
扉が閉まる。
オスヴァルトはしばらく書類を見ていた。
そこには数字が並んでいる。帝国を動かす数字。人を飢えさせないための数字。軍を維持するための数字。貴族を黙らせるための数字。
そのどれにも、幼い姪の名前は書かれていない。
オスヴァルトは目を閉じた。
「門閥貴族どもめ……」
声は、誰にも届かないほど低かった。
* * *
アイゼンフェルト侯爵家の夜は、静まり返っていた。
銀の茶器は磨かれ、机の上には小さな盤が置かれている。白と黒の駒が並ぶ盤面を、アーデルハイト・フォン・アイゼンフェルトはじっと見ていた。
報告役の男は、頭を下げたまま動かない。
「第一皇女が生きている可能性がある、と」
アーデルハイトの声は、よく整えられた刃物のように静かに響いた。
「はい。北方へ抜けた痕跡がございます。また、龍種らしきものを見たという噂も」
「噂?」
「は」
アーデルハイトは盤上の白い駒に指を置いた。
動かしはしない。ただ、指先で位置を確かめる。
報告役の男は、もう一度頭を下げた。
「いかがいたしましょう」
「まずは確認なさい」
命令は短かった。
怒りはない。焦りもない。
「第一皇女が生きているのか。龍種の噂が事実なのか」
「御意」
「それからです」
男が下がる。
部屋に残ったアーデルハイトは、盤上の白い駒を一つだけ動かした。
音は小さい。
けれど、その音を聞いた者がいれば、帝都のどこかで何かが始まったと分かったかもしれない。
* * *
エーヴァルト・レインベルクの部屋にも、夜の灯りが残っていた。
老執事長は、机の上に置かれた荷札を見下ろしている。
商家の品目を書きつけた、ありふれた紙である。油の壺、冬布の束、干し肉の数。けれど、紙の端に結ばれた薄い灰色の糸だけが、ただの荷札ではないことを示していた。
エーヴァルトは小さな刃で糸を解いた。
紙の折り目と、品目の数と、糸の向きが、短い知らせへ変わっていく。
アリア様、ご健在。
長い沈黙が落ちた。
エーヴァルトの表情は変わらない。
皺の深い指が、紙の端を静かに押さえている。
それから視線が、解いた糸の結び目に再び落ちた。
「左様でございましたか」
それ以上は、何も言わなかった。
紙を畳み、封へ戻す。別の箱を開け、さらに薄い紙を取り出す。そこへ短い符号を書き、乾く前に閉じた。
部屋を出るとき、エーヴァルトはいつもと同じ顔をしていた。
誰に見られても、老執事長が夜の見回りに出ただけに見えただろう。
ただ、誰もいない廊下を曲がる直前。
ほんのわずかに、口元がゆるんだ。
* * *
アンは、両手いっぱいに白いシーツを抱えていた。
帝城の廊下は長い。夜でも石の床は冷たく、壁の灯りは規則正しく並んでいる。アンは背筋を伸ばし、いつもより少し速く歩いていた。
「アン」
呼び止められて、足が止まる。
エーヴァルトが、廊下の影に立っていた。
「執事長」
アンはすぐに頭を下げようとした。けれど、抱えていたシーツが少しずれた。
エーヴァルトは声を落とした。
「ご無事でしたよ」
アンの腕から音もなくシーツが落ち、白い布が床に広がる。
アンは両手で口元を覆った。次に顔を覆った。膝が折れそうになるのを、必死にこらえる。
「……姫様」
声は、ほとんど息。
涙が指の間からこぼれ落ちていく。
エーヴァルトは、布を拾うことも、慰めの言葉を重ねることもしなかった。
「今しばらくは、ここで」
「はい……」
「お判りでしょうが」
アンは袖で涙を拭った。
それから、落としたシーツを一枚ずつ拾い上げる。
「はい。分かっております」
顔を上げたとき、アンは笑っていた。
けれど、その笑顔は長くは続かなかった。深く頭を下げ、静かに言う。
「必ず、お迎えに参ります」
頭を上げたアンの顔から、もう笑みは消えていた。
そこにいたのは、泣き虫の侍女ではない。
帝城に残ると決めた、アリア付きの筆頭侍女だった。
* * *
白嶺では、数日が過ぎていた。
アリアは水を半分より少し多く運べるようになった。薪はまだよく落とす。薬草は、表と裏を間違えなくなった。
ルークスは、その間ずっと町を歩き回っていた。
市場で話し、温室で話し、鍛冶場で話し、温泉小屋の石段で老人たちに捕まり、夕方には紙を何枚も抱えて仮住まいへ戻ってくる。
「これは、町案内ではないのですか」
アリアが尋ねると、ルークスは紙を机に並べた。
「町案内です。ただし、人の案内です」
紙には、名前ではなく、役目が書かれていた。
元鉱山頭。
鍛冶師。
温室管理。
石工。
薬師。
荷馬車を扱っていた人。
坑道の木組みを直せた人。
今は畑をしている人。
今は寝込んでいる人。
今は何もしていない人。
「白嶺は小さい町です。誰が何を知っているか、みんな知っています」
ルークスは、ガイゼルたちを見送った朝と同じ言葉を、もう一度口にした。
「ただ、知っていることと、使っていることは違います」
レクス・ノアは机の端に敷いた布の上で、紙を見ていた。小さな前足が、役目の並んだ紙の端を押さえている。
「まだいる」
レクスが言った。
「はい。います」
ルークスは頷いた。
「鉱山が止まって、人が減って、役目が消えてしまった。でも、役目を知っている人は、まだ町にいます」
「宝?」
ノアが聞いた。
「かもしれません」
ルークスは笑った。
「ただし、宝箱はたいてい、本人が自分を宝箱だと思っていません」
「難しい宝」
「ええ。難しい宝です」
アリアは紙を見つめた。
白嶺の町には、人がいる。
でも、その人たちの中に、昔の白嶺が眠っているのかもしれない。
* * *
崩れた音は、昼すぎに聞こえた。
どん、という低い音。
次に、小さな石が転がる音。誰かの短い悲鳴。犬が吠え、山羊が柵の中で跳ねた。
アリアは市場の木台で数字を書いていた手を止めた。
「今の」
「坑道の方です」
ルークスの顔から、明るさが消えた。
走り出すルークスのあとを、アリアも追った。レクス・ノアの小さな体が、雪の残る道を低く駆ける。
放棄坑道の入口近くで、石壁の一部が崩れていた。
大きな崩落ではない。入口をふさぐほどでもない。けれど、落ちた石は道の端に散らばり、白い粉じんがまだ空気に浮いている。
住民たちは集まっていた。
でも、誰も動いていなかった。
「怪我人はいませんか」
アリアは声を出した。
思ったより大きい。
大人たちが、はっとこちらを見る。
「怪我人は」
「いない。誰も中には入っておらん」
老人が答えた。
アリアはほっとしかけて、すぐに崩れた石の近くに子供がいるのに気づいた。
「子供は離れてください」
言葉が先に出た。
子供はびくっとして、母親に腕を引かれる。
ルークスが若者たちへ声をかけた。
「柵代わりになるものを。人を近づけないようにしてください。そちらの縄も借ります」
「あ、ああ」
「石には触らずに。まず道を空けます」
ルークスの声に、若者たちが動き始めた。
アリアは崩れた入口を見た。
石の間に、細い隙間がある。
その奥が、少し暗い。
レクス・ノアが前に出た。小さな体がぴたりと止まる。
「そこ」
レクスが言った。
アリアは息をのむ。
「まだ落ちる」
次の瞬間、入口の上の石が二つ、ずれた。
ごろ、と音を立てて落ちる。
さっきまで子供が立っていた場所に、石がぶつかった。
誰も声を出さなかった。
粉じんだけが、ゆっくり広がる。
「近づくな」
レクスの声は短かった。
住民たちは、ようやく一歩ずつ下がった。
老人のひとりが、崩れた入口を見つめて呟いた。
「昔なら、鉱山頭がおった」
別の老人が頷く。
「保安頭もおった。誰が近づいてよくて、誰が下がるべきか、声を出す者がおった」
「今は、誰もおらん」
その言葉は、崩れた石より重く落ちる。
町には人がいる。
けれど、誰が何をするのかが、なくなっている。
アリアは、さっきの自分の声を思い出した。
怪我人はいませんか。
子供は離れてください。
言えたのは、偉かったからではない。
ただ、誰も言わなかったからだ。
それが、少し怖かった。
* * *
夜、仮住まいの机には紙が広がっていた。
元鉱山頭。
保安頭。
石工。
坑道の木組み。
薬師。
温室管理。
今日もらった芋と豆は、暖炉のそばの籠に入っている。焼きたてのパンは、三人で分けた。レクス・ノアはほんの少しかじり、ノアが「外がぱりぱり」と喜んだ。
アリアは自分の手を見た。
水を運んだ指。
薪で小さく傷ついた手のひら。
数字を書いた指先。
崩落の前で、ぎゅっと握っていた手。
「人が足りないのではありません」
アリアは言った。
ルークスが顔を上げる。
「はい」
「役目が、失われたのです」
言葉にすると、少しだけ形が見えた。
白嶺は空っぽではない。
人も、家も、温泉も、畑も、道具もある。
でも、それをつなぐ役目が、途中で切れてしまっている。
「町は、覚えています」
ルークスが紙を指で押さえた。
「人も、覚えています。ただ、もう使わないと思っている」
「使わないと、忘れてしまいますか」
「忘れます。あるいは、忘れたふりをします」
レクス・ノアの尻尾が、床の上でゆっくり動いた。
「宝」
レクスが言った。
「探そう!」
ノアの声が弾む。
「宝探しです」
ルークスが笑った。
「ただし、石や金ではありません。人の中に埋まっているものです」
アリアは頷いた。
人材登用、という言葉なら、帝室の授業で聞いたことがある。けれど今は、紙に残った役目を一つずつ尋ね、本人の手から教えてもらいたかった。
命令で役目を戻すのではなく、使わなくなった手が何を覚えているかを確かめる。
「教えていただきましょう」
アリアは言った。
「白嶺を」
暖炉の火が、小さく鳴った。
「そして、この町の未来を」
レクス・ノアの小さな体が、机のそばで静かに息をした。
明日、誰に会いに行くのか。
ルークスの指が、紙の上をゆっくり動いた。
元鉱山頭を通り、保安頭を通り、鍛冶師を通り過ぎる。
その指は、紙の端に書かれた役目の上で止まった。
温室を仕切っている人。
石や金からは、いちばん遠く見える役目だった。
けれど白嶺の最初の宝は、寒い土地で青い葉を育てながら、まだ自分が宝だとは思っていない。




