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龍と廃嫡皇女のシェアハウス  作者: 三連九
第2章 目覚める町
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第9話 白嶺で暮らす

 桶は、思っていたよりずっと重かった。


 井戸の縁に両手をかけたアリアは、水の入った桶を持ち上げようとして、すぐに腕を止めた。少しだけ持ち上がった水面が揺れ、桶の中でちゃぷんと音を立てる。


「……重いです」


「水だからねえ」


 横から、しわのある手が伸びてきた。


 白嶺の朝は早い。温泉の湯気がまだ白く残り、石畳の隙間には薄い霜がある。アリアが仮住まいの戸を開けたときには、近所のおばあさんたちはもう井戸のまわりに集まっていた。


 そのうちの一人が、アリアの桶をひょいと持ち上げた。


「姫様、それは満杯にするもんじゃないよ」


「姫様ではなく、アリアで」


「はいはい、アリア様」


「様も、できれば」


「それは無理だねえ」


 おばあさんたちは、声をそろえて笑った。


 からかわれているのに、不思議と嫌ではなかった。帝城で笑われると、胸の奥が冷たくなった。ここで笑われると、手の中の桶だけが重い。


「最初は半分。こぼさず運べるようになったら、少しずつ増やすんだよ」


「はい」


 アリアは桶の水を半分ほど戻してもらい、もう一度持った。


 今度は持ち上がった。


 けれど、歩き出すと水が揺れた。左へ傾く。慌てて右へ戻す。今度は右へ傾く。


「違う違う、そうじゃない」


「桶を見すぎだよ。足もとを見るんだ」


「肩に力が入ってる。ほら、背中」


 あちこちから声が飛んだ。


 アリアは一つずつ頷いた。頷くたびに水が揺れるので、途中から頷くのもやめた。


 レクス・ノアは井戸のそばの石の上に座って、その様子を見ていた。小さな尻尾が、霜のついた石をゆっくり払っている。


「非効率だ」


 レクスが言った。


「でも、がんばってる」


 ノアの声がした。


「がんばりと効率は別だ」


「じゃあ、がんばり効率」


「その分類はない」


「つくればある」


 おばあさんの一人が、ふふっと笑った。


「小さい龍様は、朝からにぎやかだねえ」


「にぎやか」


 ノアが嬉しそうに繰り返した。


 アリアは水をこぼさないように、ゆっくり歩いた。


 仮住まいまでの道は短い。


 けれど、戻り着いたときには、指先が赤くなっていた。


 それでも桶の中には、水が残っている。


「できました」


 小さく言うと、おばあさんたちがまた笑った。


「できたできた」


「明日は薪だね」


「薪も、運び方があるからねえ」


 アリアは桶を置いた。


 まだ何も大きなことはしていない。


 水を半分、運んだだけ。


 でも、白嶺の朝の中に、少しだけ自分の手の跡が残った気がした。


* * *


 その日の午前、アリアは薪を落とした。


 午後には、薬草を裏返す向きを間違えた。


 市場では、干し肉の包みを抱えきれず、ルークスに半分持ってもらった。


「白嶺の暮らしは、なかなか手強いですね」


 ルークスは笑いながら言った。


「はい」


 アリアは両手で小さな籠を抱え直した。


「でも、教えていただけるので、分かります」


「それはいいことです。分からないのに分かった顔をされると、白嶺の人たちは困りますから」


「分かった顔」


「大人がよくやる顔です」


 アリアは少し考えた。


「わたしも、気をつけます」


「アリア様は、今のところ大丈夫です。桶に負けた顔はしていましたが」


「桶は、強いです」


 ルークスはこらえきれずに笑った。


 市場といっても、帝都のような大きなものではない。広場の端に木台が並び、野菜、干し肉、布、薬草、古い道具が置かれている。売り声も少なく、話し声のほうが多い。


 その隅で、薬草を干していた女性が手を上げた。


「アリア様、字は書けるんだったね」


「はい」


「じゃあ、これを書いてくれないかい。南の商人に出す控えなんだけど、うちのじいさんの字は読めたもんじゃなくてね」


 差し出された板には、品の名と数が炭で書かれていた。


 アリアはそれを見て、少しだけほっとした。


 字なら分かる。


 数なら、分かる。


 井戸の桶より、薪の束より、ずっと軽い。


 アリアは木台の端を借り、紙に品名を書き写した。薬草の束、乾いた根、布袋、山羊の乳で作った硬いチーズ。数字をそろえ、足し合わせる。


 横から見ていた女性が、目を丸くした。


「まあ、早い」


「間違っていませんか」


「いや、うちのじいさんよりずっといいよ」


「失礼だぞ」


 奥から老人の声がした。


 女性は笑って、アリアの手元に小さな袋を置いた。


「働いた分だ」


 袋の中には、小ぶりの芋が三つと、乾いた豆が入っていた。


 アリアは袋を見つめた。


「いただいて、よいのですか」


「仕事をしたんだろう」


「はい」


「なら、持っておいき」


 胸の奥に、じわっと温かいものが広がった。


 施しではない。


 お礼とも少し違う。


 働いた分。


 その言葉は、金貨より小さくて、金貨より手に近かった。


 レクス・ノアが木台の下から袋を見上げた。


「報酬だ」


 レクスが言った。


「芋」


 ノアが言った。


「報酬だ」


「報酬、食べられる」


「ものによる」


「これは食べられる」


 アリアは袋を両手で抱えた。


「はい。これは、食べられます」


 夕方には、別の家で手紙の代筆を頼まれた。


 短い文。


 南へ嫁いだ娘へ、冬の具合と山羊の子が生まれたことを知らせる手紙。


 アリアは一字ずつ丁寧に書いた。読み上げると、頼んだおじいさんは何度も頷いた。


「うん。それでいい。あの子も分かる」


 帰り際、焼きたての小さなパンをひとつ渡された。


 まだ少し熱かった。


 アリアはそれを落とさないように、両手で包んだ。


 白嶺で暮らす一日は、知らないことばかりだった。


 けれど、知らないことを教わるたびに、帰り道の荷物が少しずつ増えていった。


* * *


 帝都の皇帝執務室では、夜になっても灯りが消えなかった。


 机の上には、書類がいくつもの山になっている。税。北方情勢。地方官の更迭案。飢饉の兆し。門閥貴族からの抗議文。


 オスヴァルト・レオ・ヴァルグレインは、その一枚に目を通し、署名し、次の一枚へ手を伸ばした。


 扉の前で、近衛が膝をつく。


「第一皇女殿下の行方は、依然として不明です」


 筆先が止まった。


 部屋の中で、紙のこすれる音だけが残る。


「……探せ」


 オスヴァルトは言った。


 近衛が頭を下げる。


「御意」


「だが、追うな」


 近衛は、わずかに息を止めた。


「発見しても、手を出すな。報告だけを上げろ」


「承知いたしました」


 扉が閉まる。


 オスヴァルトはしばらく書類を見ていた。


 そこには数字が並んでいる。帝国を動かす数字。人を飢えさせないための数字。軍を維持するための数字。貴族を黙らせるための数字。


 そのどれにも、幼い姪の名前は書かれていない。


 オスヴァルトは目を閉じた。


「門閥貴族どもめ……」


 声は、誰にも届かないほど低かった。


* * *


 アイゼンフェルト侯爵家の夜は、静まり返っていた。


 銀の茶器は磨かれ、机の上には小さな盤が置かれている。白と黒の駒が並ぶ盤面を、アーデルハイト・フォン・アイゼンフェルトはじっと見ていた。


 報告役の男は、頭を下げたまま動かない。


「第一皇女が生きている可能性がある、と」


 アーデルハイトの声は、よく整えられた刃物のように静かに響いた。


「はい。北方へ抜けた痕跡がございます。また、龍種らしきものを見たという噂も」


「噂?」


「は」


 アーデルハイトは盤上の白い駒に指を置いた。


 動かしはしない。ただ、指先で位置を確かめる。


 報告役の男は、もう一度頭を下げた。


「いかがいたしましょう」


「まずは確認なさい」


 命令は短かった。


 怒りはない。焦りもない。


「第一皇女が生きているのか。龍種の噂が事実なのか」


「御意」


「それからです」


 男が下がる。


 部屋に残ったアーデルハイトは、盤上の白い駒を一つだけ動かした。


 音は小さい。


 けれど、その音を聞いた者がいれば、帝都のどこかで何かが始まったと分かったかもしれない。


* * *


 エーヴァルト・レインベルクの部屋にも、夜の灯りが残っていた。


 老執事長は、机の上に置かれた荷札を見下ろしている。


 商家の品目を書きつけた、ありふれた紙である。油の壺、冬布の束、干し肉の数。けれど、紙の端に結ばれた薄い灰色の糸だけが、ただの荷札ではないことを示していた。


 エーヴァルトは小さな刃で糸を解いた。


 紙の折り目と、品目の数と、糸の向きが、短い知らせへ変わっていく。


 アリア様、ご健在。


 長い沈黙が落ちた。


 エーヴァルトの表情は変わらない。


 皺の深い指が、紙の端を静かに押さえている。


 それから視線が、解いた糸の結び目に再び落ちた。


「左様でございましたか」


 それ以上は、何も言わなかった。


 紙を畳み、封へ戻す。別の箱を開け、さらに薄い紙を取り出す。そこへ短い符号を書き、乾く前に閉じた。


 部屋を出るとき、エーヴァルトはいつもと同じ顔をしていた。


 誰に見られても、老執事長が夜の見回りに出ただけに見えただろう。


 ただ、誰もいない廊下を曲がる直前。


 ほんのわずかに、口元がゆるんだ。


* * *


 アンは、両手いっぱいに白いシーツを抱えていた。


 帝城の廊下は長い。夜でも石の床は冷たく、壁の灯りは規則正しく並んでいる。アンは背筋を伸ばし、いつもより少し速く歩いていた。


「アン」


 呼び止められて、足が止まる。


 エーヴァルトが、廊下の影に立っていた。


「執事長」


 アンはすぐに頭を下げようとした。けれど、抱えていたシーツが少しずれた。


 エーヴァルトは声を落とした。


「ご無事でしたよ」


 アンの腕から音もなくシーツが落ち、白い布が床に広がる。


 アンは両手で口元を覆った。次に顔を覆った。膝が折れそうになるのを、必死にこらえる。


「……姫様」


 声は、ほとんど息。


 涙が指の間からこぼれ落ちていく。


 エーヴァルトは、布を拾うことも、慰めの言葉を重ねることもしなかった。


「今しばらくは、ここで」


「はい……」


「お判りでしょうが」


 アンは袖で涙を拭った。


 それから、落としたシーツを一枚ずつ拾い上げる。


「はい。分かっております」


 顔を上げたとき、アンは笑っていた。


 けれど、その笑顔は長くは続かなかった。深く頭を下げ、静かに言う。


「必ず、お迎えに参ります」


 頭を上げたアンの顔から、もう笑みは消えていた。


 そこにいたのは、泣き虫の侍女ではない。


 帝城に残ると決めた、アリア付きの筆頭侍女だった。


* * *


 白嶺では、数日が過ぎていた。


 アリアは水を半分より少し多く運べるようになった。薪はまだよく落とす。薬草は、表と裏を間違えなくなった。


 ルークスは、その間ずっと町を歩き回っていた。


 市場で話し、温室で話し、鍛冶場で話し、温泉小屋の石段で老人たちに捕まり、夕方には紙を何枚も抱えて仮住まいへ戻ってくる。


「これは、町案内ではないのですか」


 アリアが尋ねると、ルークスは紙を机に並べた。


「町案内です。ただし、人の案内です」


 紙には、名前ではなく、役目が書かれていた。


 元鉱山頭。


 鍛冶師。


 温室管理。


 石工。


 薬師。


 荷馬車を扱っていた人。


 坑道の木組みを直せた人。


 今は畑をしている人。


 今は寝込んでいる人。


 今は何もしていない人。


「白嶺は小さい町です。誰が何を知っているか、みんな知っています」


 ルークスは、ガイゼルたちを見送った朝と同じ言葉を、もう一度口にした。


「ただ、知っていることと、使っていることは違います」


 レクス・ノアは机の端に敷いた布の上で、紙を見ていた。小さな前足が、役目の並んだ紙の端を押さえている。


「まだいる」


 レクスが言った。


「はい。います」


 ルークスは頷いた。


「鉱山が止まって、人が減って、役目が消えてしまった。でも、役目を知っている人は、まだ町にいます」


「宝?」


 ノアが聞いた。


「かもしれません」


 ルークスは笑った。


「ただし、宝箱はたいてい、本人が自分を宝箱だと思っていません」


「難しい宝」


「ええ。難しい宝です」


 アリアは紙を見つめた。


 白嶺の町には、人がいる。


 でも、その人たちの中に、昔の白嶺が眠っているのかもしれない。


* * *


 崩れた音は、昼すぎに聞こえた。


 どん、という低い音。


 次に、小さな石が転がる音。誰かの短い悲鳴。犬が吠え、山羊が柵の中で跳ねた。


 アリアは市場の木台で数字を書いていた手を止めた。


「今の」


「坑道の方です」


 ルークスの顔から、明るさが消えた。


 走り出すルークスのあとを、アリアも追った。レクス・ノアの小さな体が、雪の残る道を低く駆ける。


 放棄坑道の入口近くで、石壁の一部が崩れていた。


 大きな崩落ではない。入口をふさぐほどでもない。けれど、落ちた石は道の端に散らばり、白い粉じんがまだ空気に浮いている。


 住民たちは集まっていた。


 でも、誰も動いていなかった。


「怪我人はいませんか」


 アリアは声を出した。


 思ったより大きい。


 大人たちが、はっとこちらを見る。


「怪我人は」


「いない。誰も中には入っておらん」


 老人が答えた。


 アリアはほっとしかけて、すぐに崩れた石の近くに子供がいるのに気づいた。


「子供は離れてください」


 言葉が先に出た。


 子供はびくっとして、母親に腕を引かれる。


 ルークスが若者たちへ声をかけた。


「柵代わりになるものを。人を近づけないようにしてください。そちらの縄も借ります」


「あ、ああ」


「石には触らずに。まず道を空けます」


 ルークスの声に、若者たちが動き始めた。


 アリアは崩れた入口を見た。


 石の間に、細い隙間がある。


 その奥が、少し暗い。


 レクス・ノアが前に出た。小さな体がぴたりと止まる。


「そこ」


 レクスが言った。


 アリアは息をのむ。


「まだ落ちる」


 次の瞬間、入口の上の石が二つ、ずれた。


 ごろ、と音を立てて落ちる。


 さっきまで子供が立っていた場所に、石がぶつかった。


 誰も声を出さなかった。


 粉じんだけが、ゆっくり広がる。


「近づくな」


 レクスの声は短かった。


 住民たちは、ようやく一歩ずつ下がった。


 老人のひとりが、崩れた入口を見つめて呟いた。


「昔なら、鉱山頭がおった」


 別の老人が頷く。


「保安頭もおった。誰が近づいてよくて、誰が下がるべきか、声を出す者がおった」


「今は、誰もおらん」


 その言葉は、崩れた石より重く落ちる。


 町には人がいる。


 けれど、誰が何をするのかが、なくなっている。


 アリアは、さっきの自分の声を思い出した。


 怪我人はいませんか。


 子供は離れてください。


 言えたのは、偉かったからではない。


 ただ、誰も言わなかったからだ。


 それが、少し怖かった。


* * *


 夜、仮住まいの机には紙が広がっていた。


 元鉱山頭。


 保安頭。


 石工。


 坑道の木組み。


 薬師。


 温室管理。


 今日もらった芋と豆は、暖炉のそばの籠に入っている。焼きたてのパンは、三人で分けた。レクス・ノアはほんの少しかじり、ノアが「外がぱりぱり」と喜んだ。


 アリアは自分の手を見た。


 水を運んだ指。


 薪で小さく傷ついた手のひら。


 数字を書いた指先。


 崩落の前で、ぎゅっと握っていた手。


「人が足りないのではありません」


 アリアは言った。


 ルークスが顔を上げる。


「はい」


「役目が、失われたのです」


 言葉にすると、少しだけ形が見えた。


 白嶺は空っぽではない。


 人も、家も、温泉も、畑も、道具もある。


 でも、それをつなぐ役目が、途中で切れてしまっている。


「町は、覚えています」


 ルークスが紙を指で押さえた。


「人も、覚えています。ただ、もう使わないと思っている」


「使わないと、忘れてしまいますか」


「忘れます。あるいは、忘れたふりをします」


 レクス・ノアの尻尾が、床の上でゆっくり動いた。


「宝」


 レクスが言った。


「探そう!」


 ノアの声が弾む。


「宝探しです」


 ルークスが笑った。


「ただし、石や金ではありません。人の中に埋まっているものです」


 アリアは頷いた。


 人材登用、という言葉なら、帝室の授業で聞いたことがある。けれど今は、紙に残った役目を一つずつ尋ね、本人の手から教えてもらいたかった。


 命令で役目を戻すのではなく、使わなくなった手が何を覚えているかを確かめる。


「教えていただきましょう」


 アリアは言った。


「白嶺を」


 暖炉の火が、小さく鳴った。


「そして、この町の未来を」


 レクス・ノアの小さな体が、机のそばで静かに息をした。


 明日、誰に会いに行くのか。


 ルークスの指が、紙の上をゆっくり動いた。


 元鉱山頭を通り、保安頭を通り、鍛冶師を通り過ぎる。


 その指は、紙の端に書かれた役目の上で止まった。


 温室を仕切っている人。


 石や金からは、いちばん遠く見える役目だった。


 けれど白嶺の最初の宝は、寒い土地で青い葉を育てながら、まだ自分が宝だとは思っていない。


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