第8話 ここを、私の居場所に
部屋の中に、知らない木の匂いがした。
白嶺の町の端にある小さな家。石の壁は厚く、窓は低い。床板はところどころ色が違っていて、古いものと新しいものが継ぎ足されているのが分かった。
アリアは入口のところで、しばらく動けなかった。
「寒くはございませんか」
ガイゼルが後ろから尋ねた。
「はい。大丈夫です」
答えてから、アリアはもう一度、部屋の中を見た。
寝台がひとつ。小さな机がひとつ。椅子がふたつ。壁際には薪が積まれ、暖炉にはまだ細い火が残っている。床には厚い布が敷かれ、その上に毛布と食器の入った木箱が置かれていた。
豪華なものはなかった。
けれど、何もない部屋ではない。
「昨日のうちに、町の者とルークスが整えておりました。足りぬものは山ほどございますが、まず今夜を越すには困らぬはずです」
「こんなに、していただいて」
「多すぎますか」
ガイゼルが少しだけ目元をゆるめた。
アリアは慌てて首を横に振った。
「違います。あの……ありがとうございます」
礼を言うと、胸の奥が小さく痛んだ。
帝城にも部屋はあった。寝台も、机も、温かい布もあった。
でも、あそこはもう、アリアの部屋ではない。
ここは、まだアリアの部屋ではない。
その間に立っているみたいで、足の裏が少し頼りなかった。
レクス・ノアはアリアの足もとから、そろりと部屋へ入った。小さな前足が床板を踏み、鼻先が空気を確かめるように動く。
「木」
ノアの声がした。
「火。毛布。少しだけ、山の匂い」
「巣としては仮だな」
レクスが言った。
「仮の巣」
「そうだ」
「仮でも、巣?」
「条件を満たせばな」
レクス・ノアの尻尾が、床の布の端をちょんと押した。
アリアは、その動きを見て、少し息を吐いた。
「では、仮の家ですね」
「家」
ノアが、言葉を味わうように繰り返した。
ガイゼルは何も言わず、アリアが部屋の中へ入るのを待っていた。
アリアは一歩、床板を踏んだ。
音は小さかった。
でも、自分で入った音。
* * *
木箱の中には、畳まれた服と、櫛と、針箱と、小さな薬包が入っていた。
旅の途中で何度も開いた革鞄も、寝台の上に置かれている。
アリアは椅子に座り、膝の上で鞄を開いた。中身はもう何度も見ていたはずだった。替えの下着。薄いショール。小さな布包み。帝城を出るときに持たされた、ほんの少しの身の回りのもの。
それでも、今日はきちんとしまわなければならない。
ここに、置くために。
アリアは鞄の底に手を入れた。
指先が、硬いところに触れた。
「……あれ?」
底板だと思っていた場所の端に、わずかな段差があった。縫い目が、ひとつだけ他と違う。まっすぐに見えるのに、針の癖が見慣れていた。
アリアは息を止めた。
「どうした」
「ここ、変です」
レクス・ノアが寝台の下から顔を出した。小さな体は跳び乗ろうとして、寝台の高さを見て一度止まる。
「乗せます」
アリアが両手を伸ばすと、レクス・ノアは少しだけ考えてから、素直に体を預けた。
「高い」
ノアが言った。
「お前が小さい」
「寝台が大きい」
「どちらも正しい」
アリアは小さく笑い、針箱から細い針を取った。
縫い目を少しずつほどく。
布の下から、細長い革袋が出てきた。
見た瞬間、胸が跳ねた。
袋の口を開くと、金色の光がいくつもこぼれた。金貨。アリアが一人で持つには、重すぎるほどの量だった。
その奥に、折り畳まれた紙が一枚入っている。
アリアは指先で紙を開いた。
文字は短かった。
『すぐにお側に参ります』
署名はなかった。
けれど、署名はいらなかった。
少し右へ流れる字。最後の払いだけ、いつも強い癖。アリアがハンカチに刺繍をするとき、横で何度も見た字だった。
「アン……」
声にすると、喉がきゅっと狭くなった。
涙は落ちなかった。
そのかわり、アリアは紙を両手で持って、胸に押し当てた。
帝城の廊下。
泣きそうな顔で笑ったアン。
馬車に乗せてと何度も言いかけて、最後には唇を噛んで頭を下げた姿。
アリアはあのとき、アンを置いていった。
守るために、そうした。
でも、置いてきた人は、アリアを置いていなかった。
「あたたかい」
ノアがぽつりと言った。
アリアは紙を抱えたまま、レクス・ノアを見た。
「はい」
「その紙、あたたかい」
「紙は温度を発していない」
レクスの声はいつも通りだった。
でも、否定しきる音ではなかった。
「でも、あたたかい」
「……分類が難しい」
アリアは、少しだけ笑った。
それから、金貨の入った革袋を見た。
ずしりと重い。
アンの気持ちも、そこに入っているようだった。
* * *
ガイゼルは、仮住まいの前で荷の数を確かめていた。
ルークスが白嶺の青年と一緒に木箱を運び、アルヴィスは馬車の車輪と馬の足を見ている。白嶺の空は高く、風は冷たかった。
アリアは革袋を両手で抱えて、ガイゼルのそばへ行った。
「ガイゼル」
呼ぶと、ガイゼルはすぐに振り返った。
「はい、アリア様」
「ご相談があります」
ガイゼルは荷札をルークスへ渡し、アリアの前で膝を折った。目線が少し近くなる。
「いかがなさいました」
アリアは革袋の口を開き、金貨を一枚取り出した。
手のひらにのせると、金貨は冷たかった。
「このようなものでお礼をするのは、失礼かもしれません。でも、何もお返ししないのも、違うと思います」
言いながら、言葉がうまくそろわなかった。
お礼。
謝礼。
対価。
どれが正しいのか、アリアにはまだ分からない。
「ここへ連れてきてくださって、部屋も、食べるものも、用意していただきました。ですから」
アリアは金貨を両手で差し出した。
「受け取って、ください」
ガイゼルは金貨を見た。
それから、アリアの顔を見た。
「それは、私が謝礼として受け取るものではございません」
静かな声。
アリアの手が、少し下がる。
「だめ、ですか」
「だめではございません。ただ、形が違います」
ガイゼルは、金貨に触れなかった。
「その金は、おそらく先帝陛下がアリア様へ遺されたもの。あるいは、それを知る者が、姫様のために守ったものです。私が忠義の代金として受け取ってよいものではございません」
「でも、わたしは、何も」
「何も、ではございません」
ガイゼルは、そこで少しだけ声をやわらげた。
「では、こういたしましょう」
アリアは顔を上げた。
「この金は、白嶺で必要となる食糧、薪、布、薬、道具の前金としてお預かりいたします。男爵家が商人へ卸す予定の品を、アリア様へ届けましょう」
「前金」
「はい。施しではなく、取引です」
取引。
その言葉は少し難しかった。
でも、ただ守られるだけではない形だと、アリアにも分かった。
「わたしが、買うのですね」
「はい。アリア様が、白嶺で暮らすために」
胸の奥で、何かが小さく動いた。
暮らす。
逃げるのではなく。
隠されるのでもなく。
「では、お願いします」
アリアは金貨を革袋へ戻し、袋ごと差し出した。
「白嶺で暮らすために、使ってください」
ガイゼルは、両手でそれを受け取った。
「確かに、お預かりいたします」
横で、レクス・ノアが小さく息を吐いた。
「合理的だ」
「ごうりてき」
ノアが真似をする。
「たぶん、いいこと」
「おおむねそうだ」
ガイゼルの口元が、ほんの少しだけ動いた。
* * *
荷の確認が終わるころ、白嶺の空は薄い灰色になっていた。
山の影が町へ落ちる前に、ガイゼルたちは明日の帰路の準備を始めなければならない。
アリアは仮住まいの入口で、しばらく指先を握っていた。
言うなら、今だと思った。
「ガイゼル」
「はい」
「帝都へ行かれることは、ありますか」
ガイゼルの目が少しだけ細くなった。
「年に何度かは。商人の手配や、男爵家としての届け出もございます」
「でしたら」
アリアは、声が小さくならないように息を吸った。
「お一人だけ、伝えていただきたい方がいます」
「どなたでございましょう」
「執事長の、エーヴァルトに」
ガイゼルの表情が変わった。
大きくではない。けれど、いつも穏やかな水面に、小さな石が落ちたみたいだった。
「エーヴァルト・レインベルク卿でございますか」
アリアは首を傾げた。
「卿?」
ガイゼルは一瞬だけ黙り、それから静かに頭を下げた。
「失礼いたしました。帝都では、そのようにお呼びする者もおります」
「エーヴァルトは、執事長です」
「はい。アリア様にとっては、そうでございましょう」
その言い方が少し不思議で、アリアはもう一度首を傾げた。
でも、今はそれより大切なことがあった。
「エーヴァルトに、伝えてください」
アリアは両手を胸の前で握った。
「アリアは生きています、と」
その言葉を口にした瞬間、急に怖くなった。
帝城に届いたら、危なくならないだろうか。
エーヴァルトは困らないだろうか。
アンも、見つかってしまわないだろうか。
けれど、言わずにはいられなかった。
置いてきた人たちに、自分がここにいることだけは伝えたかった。
ガイゼルは深く頭を下げた。
「承知いたしました。必ず、届く道を探します」
「危なくない形で、お願いします」
「もちろんでございます」
アリアはほっとして、手の力を少し抜いた。
ガイゼルは立ち上がり、帝都の方角ではなく、山道の方を見た。
その横顔は、少しだけ厳しかった。
* * *
翌朝、白嶺の町は早くから動いていた。
温泉の湯気が細く上がり、馬車の車輪に薄い霜がついている。アルヴィスは無言で荷縄を確かめ、ガイゼルは白嶺の老人と短く言葉を交わしていた。
ルークスだけが、いつもより明るい声を出していた。
「父上、こちらの荷は残します。こちらは持ち帰り。こっちは……兄上、どちらでしたっけ」
「残す」
「そうでした。残します」
「ルークス」
「はい」
アルヴィスに呼ばれ、ルークスはぴしりと背筋を伸ばした。
「残るなら、浮かれるな」
「浮かれてはいません。少しだけ、張り切っております」
「同じだ」
「違います」
アリアは思わず口元を押さえた。
ルークスがそれに気づき、わざと小さく咳払いをする。
「ご安心ください、アリア様。白嶺の町案内、買い物の手配、住民の紹介、道に迷ったときの回収まで、当面はこのルークス・ヴァルドが承ります」
「道に迷うことも、あるのですか」
「白嶺は小さい町ですが、坂と細道が多いのです。初日は迷います」
「ルークスも迷うのか」
レクスが聞いた。
「私は案内役ですから、迷いません」
「今、初日は迷うと言った」
「案内役は迷うのではありません。町の別の顔を確認しているのです」
「言い換えだ」
「言葉は便利ですね」
ノアが楽しそうに言った。
「ルークス、迷子」
「ノア様、そこはまだ確定しておりません」
「迷子予定」
「予定にも入れておりません」
アリアはとうとう少し笑ってしまった。
寒い朝なのに、息が白くなるのも少しだけ楽しく見えた。
ガイゼルが近づいてきた。
「アリア様」
「はい」
「私は一度、男爵領へ戻ります。私には、あちらで守るべき領民もおります」
「分かっています」
分かっているつもりだった。
でも、ガイゼルが帰ると聞くと、胸の奥が小さく沈んだ。
帝城を出た夜から、ずっとガイゼルは道を知っていた。
前へ進むための人。
その人が、ここでいなくなる。
「白嶺で暮らすことは、簡単ではございません」
ガイゼルは言った。
「ですが、ここには人がいます。暮らしがあります。まずはこの町を知ることからお始めください」
「はい」
「ルークスを、しばらくお預けいたします」
ルークスが一礼した。
「精一杯、務めます」
「頼りに、してもよいですか」
アリアが尋ねると、ルークスは一瞬だけ目を丸くした。
それから、にこりと笑った。
「はい。頼られるために残ります」
レクス・ノアの尻尾が、アリアの足もとでゆっくり揺れた。
「案内役は有用だ」
「有用、うれしい?」
「たぶん違う」
「でも、いいこと」
ルークスは胸に手を当てた。
「有用な男として、精進いたします」
アルヴィスが遠くでため息をついた。
* * *
馬車が動き出した。
車輪が雪の残る道を踏み、ゆっくりと町外れへ向かう。ガイゼルは御者台ではなく、馬車の横に立って最後までアリアを見ていた。
アリアは道の端に立ち、両手を前で握った。
隣にはレクス・ノアがいる。
少し後ろにはルークスがいる。
アルヴィスが馬を引き、ガイゼルが最後に深く一礼した。
「アリア様。どうか、ご無事で」
「ガイゼルも」
言ってから、足りない気がした。
アリアは一歩前へ出た。
「また、来てください」
ガイゼルの目元が、少しだけやわらいだ。
「必ず」
馬車は山道へ入っていった。
車輪の音が、少しずつ遠くなる。
曲がり角で、ルークスが大きく手を振った。アリアも小さく手を振る。ガイゼルたちの馬車は、白い息と朝の湯気の向こうへ消えていった。
見えなくなっても、アリアはしばらく立っていた。
見送られるのではなく、見送る。
それは、少し不思議だった。
風が吹いて、頬が冷たくなる。
アリアは手を下ろし、白嶺の町を振り返った。
石造りの家。温泉の湯気。細い道。閉じた坑道へ続く山の影。まだ少ない人の声。
怖い噂の残る町。
まだ分からないことばかりの町。
でも、戻れば火のある部屋がある。
机がある。寝台がある。アンの手紙をしまう場所がある。
アリアは小さく息を吸った。
「ここが……」
声は、風に取られそうなくらい小さかった。
「わたしの家」
言ってから、胸の奥が少し熱くなった。
まだ、言葉のほうが大きかった。
けれど、嘘ではなかった。
レクス・ノアの小さな体が、アリアの足にそっと寄った。
「仮の巣」
レクスが言った。
「家」
ノアが言った。
「仮の家」
「今は、それでよい」
アリアは頷いた。
今は、それでよかった。
ルークスが一歩前へ出て、町を見渡した。
「白嶺は小さな町です」
その声は、少しだけ仕事の声になっていた。
「誰が何を知っているか、みんな知っています」
アリアは町を見る。
温室の戸を開ける女性。
鍛冶場の前に立つ男。
昨日レクス・ノアに近づいた子供。
温泉小屋の石段に座る老人。
みんな、何かを知っているのだろうか。
白嶺のこと。
昔のこと。
龍の呪いと呼ばれてきたもののこと。
「宝」
レクスが短く言った。
「宝探し!」
ノアの声が弾んだ。
「宝とは限らない」
「でも、探す」
「それはそうだ」
アリアは少し笑った。
白嶺の風は冷たい。
でも、もう背中だけが寒いわけではなかった。
「では、明日から」
アリアはルークスを見上げた。
「この町を、教えていただけますか」
ルークスは胸に手を当て、少し大げさに礼をした。
「喜んで」
アリアはもう一度、町を見た。
逃げてきた場所ではなく、これから知っていく場所として。
白嶺での暮らしは、まだ何も始まっていない。
だからこそ、明日から始められる。
ここまで読み進めていただいた方、いらっしゃいましたら、大変ありがとうございました。
ようやく仮の巣を見つけて、アリアとレクス・ノアの三人の生活が、これから本格的にはじまります。
ゆっくりと三人の生活ぶりを眺めていただければと思います。
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