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龍と廃嫡皇女のシェアハウス  作者: 三連九
第1章 廃嫡皇女と双声の幼龍、白嶺へ
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8/25

第8話 ここを、私の居場所に

 部屋の中に、知らない木の匂いがした。


 白嶺の町の端にある小さな家。石の壁は厚く、窓は低い。床板はところどころ色が違っていて、古いものと新しいものが継ぎ足されているのが分かった。


 アリアは入口のところで、しばらく動けなかった。


「寒くはございませんか」


 ガイゼルが後ろから尋ねた。


「はい。大丈夫です」


 答えてから、アリアはもう一度、部屋の中を見た。


 寝台がひとつ。小さな机がひとつ。椅子がふたつ。壁際には薪が積まれ、暖炉にはまだ細い火が残っている。床には厚い布が敷かれ、その上に毛布と食器の入った木箱が置かれていた。


 豪華なものはなかった。


 けれど、何もない部屋ではない。


「昨日のうちに、町の者とルークスが整えておりました。足りぬものは山ほどございますが、まず今夜を越すには困らぬはずです」


「こんなに、していただいて」


「多すぎますか」


 ガイゼルが少しだけ目元をゆるめた。


 アリアは慌てて首を横に振った。


「違います。あの……ありがとうございます」


 礼を言うと、胸の奥が小さく痛んだ。


 帝城にも部屋はあった。寝台も、机も、温かい布もあった。


 でも、あそこはもう、アリアの部屋ではない。


 ここは、まだアリアの部屋ではない。


 その間に立っているみたいで、足の裏が少し頼りなかった。


 レクス・ノアはアリアの足もとから、そろりと部屋へ入った。小さな前足が床板を踏み、鼻先が空気を確かめるように動く。


「木」


 ノアの声がした。


「火。毛布。少しだけ、山の匂い」


「巣としては仮だな」


 レクスが言った。


「仮の巣」


「そうだ」


「仮でも、巣?」


「条件を満たせばな」


 レクス・ノアの尻尾が、床の布の端をちょんと押した。


 アリアは、その動きを見て、少し息を吐いた。


「では、仮の家ですね」


「家」


 ノアが、言葉を味わうように繰り返した。


 ガイゼルは何も言わず、アリアが部屋の中へ入るのを待っていた。


 アリアは一歩、床板を踏んだ。


 音は小さかった。


 でも、自分で入った音。


* * *


 木箱の中には、畳まれた服と、櫛と、針箱と、小さな薬包が入っていた。


 旅の途中で何度も開いた革鞄も、寝台の上に置かれている。


 アリアは椅子に座り、膝の上で鞄を開いた。中身はもう何度も見ていたはずだった。替えの下着。薄いショール。小さな布包み。帝城を出るときに持たされた、ほんの少しの身の回りのもの。


 それでも、今日はきちんとしまわなければならない。


 ここに、置くために。


 アリアは鞄の底に手を入れた。


 指先が、硬いところに触れた。


「……あれ?」


 底板だと思っていた場所の端に、わずかな段差があった。縫い目が、ひとつだけ他と違う。まっすぐに見えるのに、針の癖が見慣れていた。


 アリアは息を止めた。


「どうした」


「ここ、変です」


 レクス・ノアが寝台の下から顔を出した。小さな体は跳び乗ろうとして、寝台の高さを見て一度止まる。


「乗せます」


 アリアが両手を伸ばすと、レクス・ノアは少しだけ考えてから、素直に体を預けた。


「高い」


 ノアが言った。


「お前が小さい」


「寝台が大きい」


「どちらも正しい」


 アリアは小さく笑い、針箱から細い針を取った。


 縫い目を少しずつほどく。


 布の下から、細長い革袋が出てきた。


 見た瞬間、胸が跳ねた。


 袋の口を開くと、金色の光がいくつもこぼれた。金貨。アリアが一人で持つには、重すぎるほどの量だった。


 その奥に、折り畳まれた紙が一枚入っている。


 アリアは指先で紙を開いた。


 文字は短かった。


『すぐにお側に参ります』


 署名はなかった。


 けれど、署名はいらなかった。


 少し右へ流れる字。最後の払いだけ、いつも強い癖。アリアがハンカチに刺繍をするとき、横で何度も見た字だった。


「アン……」


 声にすると、喉がきゅっと狭くなった。


 涙は落ちなかった。


 そのかわり、アリアは紙を両手で持って、胸に押し当てた。


 帝城の廊下。


 泣きそうな顔で笑ったアン。


 馬車に乗せてと何度も言いかけて、最後には唇を噛んで頭を下げた姿。


 アリアはあのとき、アンを置いていった。


 守るために、そうした。


 でも、置いてきた人は、アリアを置いていなかった。


「あたたかい」


 ノアがぽつりと言った。


 アリアは紙を抱えたまま、レクス・ノアを見た。


「はい」


「その紙、あたたかい」


「紙は温度を発していない」


 レクスの声はいつも通りだった。


 でも、否定しきる音ではなかった。


「でも、あたたかい」


「……分類が難しい」


 アリアは、少しだけ笑った。


 それから、金貨の入った革袋を見た。


 ずしりと重い。


 アンの気持ちも、そこに入っているようだった。


* * *


 ガイゼルは、仮住まいの前で荷の数を確かめていた。


 ルークスが白嶺の青年と一緒に木箱を運び、アルヴィスは馬車の車輪と馬の足を見ている。白嶺の空は高く、風は冷たかった。


 アリアは革袋を両手で抱えて、ガイゼルのそばへ行った。


「ガイゼル」


 呼ぶと、ガイゼルはすぐに振り返った。


「はい、アリア様」


「ご相談があります」


 ガイゼルは荷札をルークスへ渡し、アリアの前で膝を折った。目線が少し近くなる。


「いかがなさいました」


 アリアは革袋の口を開き、金貨を一枚取り出した。


 手のひらにのせると、金貨は冷たかった。


「このようなものでお礼をするのは、失礼かもしれません。でも、何もお返ししないのも、違うと思います」


 言いながら、言葉がうまくそろわなかった。


 お礼。


 謝礼。


 対価。


 どれが正しいのか、アリアにはまだ分からない。


「ここへ連れてきてくださって、部屋も、食べるものも、用意していただきました。ですから」


 アリアは金貨を両手で差し出した。


「受け取って、ください」


 ガイゼルは金貨を見た。


 それから、アリアの顔を見た。


「それは、私が謝礼として受け取るものではございません」


 静かな声。


 アリアの手が、少し下がる。


「だめ、ですか」


「だめではございません。ただ、形が違います」


 ガイゼルは、金貨に触れなかった。


「その金は、おそらく先帝陛下がアリア様へ遺されたもの。あるいは、それを知る者が、姫様のために守ったものです。私が忠義の代金として受け取ってよいものではございません」


「でも、わたしは、何も」


「何も、ではございません」


 ガイゼルは、そこで少しだけ声をやわらげた。


「では、こういたしましょう」


 アリアは顔を上げた。


「この金は、白嶺で必要となる食糧、薪、布、薬、道具の前金としてお預かりいたします。男爵家が商人へ卸す予定の品を、アリア様へ届けましょう」


「前金」


「はい。施しではなく、取引です」


 取引。


 その言葉は少し難しかった。


 でも、ただ守られるだけではない形だと、アリアにも分かった。


「わたしが、買うのですね」


「はい。アリア様が、白嶺で暮らすために」


 胸の奥で、何かが小さく動いた。


 暮らす。


 逃げるのではなく。


 隠されるのでもなく。


「では、お願いします」


 アリアは金貨を革袋へ戻し、袋ごと差し出した。


「白嶺で暮らすために、使ってください」


 ガイゼルは、両手でそれを受け取った。


「確かに、お預かりいたします」


 横で、レクス・ノアが小さく息を吐いた。


「合理的だ」


「ごうりてき」


 ノアが真似をする。


「たぶん、いいこと」


「おおむねそうだ」


 ガイゼルの口元が、ほんの少しだけ動いた。


* * *


 荷の確認が終わるころ、白嶺の空は薄い灰色になっていた。


 山の影が町へ落ちる前に、ガイゼルたちは明日の帰路の準備を始めなければならない。


 アリアは仮住まいの入口で、しばらく指先を握っていた。


 言うなら、今だと思った。


「ガイゼル」


「はい」


「帝都へ行かれることは、ありますか」


 ガイゼルの目が少しだけ細くなった。


「年に何度かは。商人の手配や、男爵家としての届け出もございます」


「でしたら」


 アリアは、声が小さくならないように息を吸った。


「お一人だけ、伝えていただきたい方がいます」


「どなたでございましょう」


「執事長の、エーヴァルトに」


 ガイゼルの表情が変わった。


 大きくではない。けれど、いつも穏やかな水面に、小さな石が落ちたみたいだった。


「エーヴァルト・レインベルク卿でございますか」


 アリアは首を傾げた。


「卿?」


 ガイゼルは一瞬だけ黙り、それから静かに頭を下げた。


「失礼いたしました。帝都では、そのようにお呼びする者もおります」


「エーヴァルトは、執事長です」


「はい。アリア様にとっては、そうでございましょう」


 その言い方が少し不思議で、アリアはもう一度首を傾げた。


 でも、今はそれより大切なことがあった。


「エーヴァルトに、伝えてください」


 アリアは両手を胸の前で握った。


「アリアは生きています、と」


 その言葉を口にした瞬間、急に怖くなった。


 帝城に届いたら、危なくならないだろうか。


 エーヴァルトは困らないだろうか。


 アンも、見つかってしまわないだろうか。


 けれど、言わずにはいられなかった。


 置いてきた人たちに、自分がここにいることだけは伝えたかった。


 ガイゼルは深く頭を下げた。


「承知いたしました。必ず、届く道を探します」


「危なくない形で、お願いします」


「もちろんでございます」


 アリアはほっとして、手の力を少し抜いた。


 ガイゼルは立ち上がり、帝都の方角ではなく、山道の方を見た。


 その横顔は、少しだけ厳しかった。


* * *


 翌朝、白嶺の町は早くから動いていた。


 温泉の湯気が細く上がり、馬車の車輪に薄い霜がついている。アルヴィスは無言で荷縄を確かめ、ガイゼルは白嶺の老人と短く言葉を交わしていた。


 ルークスだけが、いつもより明るい声を出していた。


「父上、こちらの荷は残します。こちらは持ち帰り。こっちは……兄上、どちらでしたっけ」


「残す」


「そうでした。残します」


「ルークス」


「はい」


 アルヴィスに呼ばれ、ルークスはぴしりと背筋を伸ばした。


「残るなら、浮かれるな」


「浮かれてはいません。少しだけ、張り切っております」


「同じだ」


「違います」


 アリアは思わず口元を押さえた。


 ルークスがそれに気づき、わざと小さく咳払いをする。


「ご安心ください、アリア様。白嶺の町案内、買い物の手配、住民の紹介、道に迷ったときの回収まで、当面はこのルークス・ヴァルドが承ります」


「道に迷うことも、あるのですか」


「白嶺は小さい町ですが、坂と細道が多いのです。初日は迷います」


「ルークスも迷うのか」


 レクスが聞いた。


「私は案内役ですから、迷いません」


「今、初日は迷うと言った」


「案内役は迷うのではありません。町の別の顔を確認しているのです」


「言い換えだ」


「言葉は便利ですね」


 ノアが楽しそうに言った。


「ルークス、迷子」


「ノア様、そこはまだ確定しておりません」


「迷子予定」


「予定にも入れておりません」


 アリアはとうとう少し笑ってしまった。


 寒い朝なのに、息が白くなるのも少しだけ楽しく見えた。


 ガイゼルが近づいてきた。


「アリア様」


「はい」


「私は一度、男爵領へ戻ります。私には、あちらで守るべき領民もおります」


「分かっています」


 分かっているつもりだった。


 でも、ガイゼルが帰ると聞くと、胸の奥が小さく沈んだ。


 帝城を出た夜から、ずっとガイゼルは道を知っていた。


 前へ進むための人。


 その人が、ここでいなくなる。


「白嶺で暮らすことは、簡単ではございません」


 ガイゼルは言った。


「ですが、ここには人がいます。暮らしがあります。まずはこの町を知ることからお始めください」


「はい」


「ルークスを、しばらくお預けいたします」


 ルークスが一礼した。


「精一杯、務めます」


「頼りに、してもよいですか」


 アリアが尋ねると、ルークスは一瞬だけ目を丸くした。


 それから、にこりと笑った。


「はい。頼られるために残ります」


 レクス・ノアの尻尾が、アリアの足もとでゆっくり揺れた。


「案内役は有用だ」


「有用、うれしい?」


「たぶん違う」


「でも、いいこと」


 ルークスは胸に手を当てた。


「有用な男として、精進いたします」


 アルヴィスが遠くでため息をついた。


* * *


 馬車が動き出した。


 車輪が雪の残る道を踏み、ゆっくりと町外れへ向かう。ガイゼルは御者台ではなく、馬車の横に立って最後までアリアを見ていた。


 アリアは道の端に立ち、両手を前で握った。


 隣にはレクス・ノアがいる。


 少し後ろにはルークスがいる。


 アルヴィスが馬を引き、ガイゼルが最後に深く一礼した。


「アリア様。どうか、ご無事で」


「ガイゼルも」


 言ってから、足りない気がした。


 アリアは一歩前へ出た。


「また、来てください」


 ガイゼルの目元が、少しだけやわらいだ。


「必ず」


 馬車は山道へ入っていった。


 車輪の音が、少しずつ遠くなる。


 曲がり角で、ルークスが大きく手を振った。アリアも小さく手を振る。ガイゼルたちの馬車は、白い息と朝の湯気の向こうへ消えていった。


 見えなくなっても、アリアはしばらく立っていた。


 見送られるのではなく、見送る。


 それは、少し不思議だった。


 風が吹いて、頬が冷たくなる。


 アリアは手を下ろし、白嶺の町を振り返った。


 石造りの家。温泉の湯気。細い道。閉じた坑道へ続く山の影。まだ少ない人の声。


 怖い噂の残る町。


 まだ分からないことばかりの町。


 でも、戻れば火のある部屋がある。


 机がある。寝台がある。アンの手紙をしまう場所がある。


 アリアは小さく息を吸った。


「ここが……」


 声は、風に取られそうなくらい小さかった。


「わたしの家」


 言ってから、胸の奥が少し熱くなった。


 まだ、言葉のほうが大きかった。


 けれど、嘘ではなかった。


 レクス・ノアの小さな体が、アリアの足にそっと寄った。


「仮の巣」


 レクスが言った。


「家」


 ノアが言った。


「仮の家」


「今は、それでよい」


 アリアは頷いた。


 今は、それでよかった。


 ルークスが一歩前へ出て、町を見渡した。


「白嶺は小さな町です」


 その声は、少しだけ仕事の声になっていた。


「誰が何を知っているか、みんな知っています」


 アリアは町を見る。


 温室の戸を開ける女性。


 鍛冶場の前に立つ男。


 昨日レクス・ノアに近づいた子供。


 温泉小屋の石段に座る老人。


 みんな、何かを知っているのだろうか。


 白嶺のこと。


 昔のこと。


 龍の呪いと呼ばれてきたもののこと。


「宝」


 レクスが短く言った。


「宝探し!」


 ノアの声が弾んだ。


「宝とは限らない」


「でも、探す」


「それはそうだ」


 アリアは少し笑った。


 白嶺の風は冷たい。


 でも、もう背中だけが寒いわけではなかった。


「では、明日から」


 アリアはルークスを見上げた。


「この町を、教えていただけますか」


 ルークスは胸に手を当て、少し大げさに礼をした。


「喜んで」


 アリアはもう一度、町を見た。


 逃げてきた場所ではなく、これから知っていく場所として。


 白嶺での暮らしは、まだ何も始まっていない。


 だからこそ、明日から始められる。


ここまで読み進めていただいた方、いらっしゃいましたら、大変ありがとうございました。

ようやく仮の巣を見つけて、アリアとレクス・ノアの三人の生活が、これから本格的にはじまります。

ゆっくりと三人の生活ぶりを眺めていただければと思います。

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