第7話 龍の呪い?
朝の白嶺は、白かった。
雪だけではない。屋根の端から落ちる湯気も、共同温室の硝子に残った霜も、山の上から町へ流れてくる薄い雲も、みんな少しずつ白かった。
アリアは、両手で小さな椀を持っていた。椀の中には、湯気の立つ薄いスープが入っている。野菜は少なかったけれど、よく煮込まれていて、口に入れると舌がほっとした。
「あついです」
そう言うと、隣にいたルークスが笑った。
「白嶺では、あついものはごちそうです。冷たいものなら、外にいくらでもありますから」
その言い方が少しおかしくて、アリアは椀を見つめたまま、ちいさく笑った。
レクス・ノアは、アリアの足もとに座っていた。小さな体は直接床に触れないよう、敷かれた古い毛布の上にいる。翼はたたまれていて、尻尾の先だけが、湯気の動きを追うようにゆっくり揺れていた。
「あったかい」
ノアの声がした。
「湯気が、白い」
「水が温められているだけだ」
レクスが答える。
「だけ、でも、きれい」
「それは否定しない」
アリアは、また少し笑った。
二つの声がけんかをしているわけではないのに、いつも少しだけ違う方を見ている。それが、今は不思議に安心した。
* * *
ガイゼルは、食事を終えると外へ案内してくれた。
町は、昨日見たときよりも明るかった。温泉小屋の屋根から白い湯気が上がり、共同温室の中では、女の人たちが葉を一枚ずつ確かめている。鍛冶場では、まだ小さな火が赤く残っていて、職人が炉の灰をかき混ぜていた。
遠くの柵の中には、痩せた山羊が数頭いた。数は少ない。でも、いる。
アリアはそれを見て、胸の中でそっと数えた。
湯気。 葉っぱ。 火。 山羊。 人。
白嶺は、何もない場所ではなかった。
「おはようございます」
アリアが通りかかった女の人に頭を下げると、女の人は少し驚いた顔をして、それから慌てて頭を下げた。
「お、おはようございます」
その目が、アリアから、足もとのレクス・ノアへ移る。
女の人の指が、籠の縁をぎゅっと握った。
レクス・ノアは何もしなかった。ただ、アリアのとなりで、雪の上に小さな足跡をつけている。
けれど女の人は、ほんの少し後ろへ下がった。
アリアは、その足の動きを見てしまった。
昨日、町を見たときにも、似たものを見た。
人はいた。暮らしもあった。それなのに、レクス・ノアを見る目だけが、急にかたくなる。
「……怖いのでしょうか」
アリアが小さく言うと、ガイゼルはすぐには答えなかった。
「龍そのものを恐れている者もおります」
やがて、低い声で言った。
「ですが、それだけではありません」
「それだけでは、ない?」
「この地に残った噂を、恐れているのです」
そのとき、道の向こうから、子供の声がした。
「見て、龍だ」
アリアは顔を上げた。
石造りの家の陰から、三人の子供がこちらを見ていた。いちばん小さな子は、まだ手袋も片方しかはめていない。頬を赤くして、目だけをまん丸にしている。
レクス・ノアの尻尾が、ぴくりと動いた。
「子供」
ノアの声が弾んだ。
「小さい」
「お前も小さい」
「ぼくは、ちょっと大きい。気持ちが」
「気だけだ」
アリアは吹き出しそうになって、口を押さえた。
けれど、子供たちの後ろから男の人が飛び出してきた。
「近寄るな」
声は鋭かった。
いちばん小さな子が、びくっと肩をすくめる。
「でも、ちいさいよ」
「だめだ。龍さまは畏れ多い。近づくと何が起きるか分からん」
その言葉は、雪の上に落ちた小石みたいに響いた。小さいのに、はっきり音がした。
レクス・ノアは動かなかった。小さな爪が、雪を少しだけ押している。
「悪いことはしていない」
レクスが言った。
「まだ、何も」
「まだ、は余計です」
アリアは思わず小声で言った。
ノアが、少ししょんぼりした声を出す。
「近くで見たいだけなのに」
アリアは子供たちを見た。怖がっているというより、止められているから止まっている顔をしていた。怖がっているのは、大人のほうだった。
「昔はな」
道端の石段に座っていた老人が、ぽつりと言った。
細い声だったけれど、周りの大人たちは黙った。
「山で働く者が、よう倒れた。朝起きられぬ。体が重い。何を見ても、何もする気が起きぬ。若い者まで、目の奥から火が消えたようになった」
老人は、ゆっくり息を吐いた。
「医者も神官も分からなんだ。鉱山へ入る者が減り、家を出る者が増えた。そうなれば、人は理由を欲しがる」
老人は、白い山の方へ目を向けた。
「山で龍を怒らせたのだ。これは龍の呪いだ、と。誰が最初に言ったのかは、もう誰も知らん」
「それで、龍の呪いと呼ぶようになったのですか」
アリアが尋ねると、老人はアリアを見た。その目は、責めてはいなかった。ただ、長く疲れていた。
「そうだ。そうでないと、怖すぎたのだろうな」
アリアは、胸の前で手を握った。
怖いから、名前をつける。名前をつけると、それが本当のようになる。それは、少し分かる気がした。
廃嫡。 追放。 いらない皇女。
言葉は、言われ続けると、服の中にまで入り込んでくる。
「でも」
小さな声がした。
さっきの子供だった。片方だけ手袋をはめたまま、少しずつ、こちらへ歩いてくる。
大人が慌てて手を伸ばした。
「こら」
「でも、さわらない。見るだけ」
子供はそう言って、アリアの少し前で止まった。レクス・ノアは、じっとしている。
尻尾の先だけが、そわそわと左右に揺れた。
「ふるえている」
ノアが言った。
「寒いのではないか」
レクスの声。
「あっためる?」
「不用意に火を出すな」
「まだ出してない」
「出す前に止めている」
アリアは、子供に向かってしゃがんだ。
「怖いですか」
子供はレクス・ノアを見た。それから、首を横に振った。
「ちょっとだけ。でも、きれい」
ノアの声が、とても小さく弾んだ。
「きれい」
レクス・ノアの尻尾が、また揺れる。今度は隠しきれないほど、ぱたぱたと雪を叩いた。
子供が笑った。
何も起きなかった。
空は割れない。地面も沈まない。誰の体も重くならない。
子供は笑って、レクス・ノアはじっとしていて、アリアはその間にしゃがんでいる。
ただ、それだけのこと。
けれど大人たちは、何も起きなかったことに困ったような顔をした。
アリアは、その顔を見て、胸の中で小さく思った。
噂は、こわい。でも、見たものが、ここにある。
* * *
昼前になって、レクス・ノアは閉鎖坑道へ向かった。
ガイゼルは止めなかった。ただ、坑道の古い柵の前で、昨日よりも険しい顔をした。
「中へは入れませぬ」
「入らない」
レクスが言った。
「入口の岩でいい」
坑道の前には、雪をかぶった石がいくつも積まれていた。昔、落盤を防ぐために組まれたものだという。アルヴィスがその中のひとつを選び、鉄槌で割った。
乾いた音が山に返った。
割れた岩の断面を見て、アリアは首をかしげた。
黒っぽい石の断面に白い筋、と少し硝子のように光るところ。
変わっているようにも見えるし、ただの岩のようにも見える。
「……これが、何かですか」
アリアが尋ねると、レクス・ノアは断面に鼻先を近づけた。
「水の波みたい」
ノアが言った。
「きれい。こっちへ、こう、ゆらってしてる」
小さな前足が、空中に線を描く。アリアには、その線がよく分からなかった。
「魔素だ」
レクスの声は、静かだった。
アリアはその言葉を、口の中でそっと繰り返した。
「まそ」
「世界にある、目に見えにくい力だ。生き物にも、土にも、水にも、長い年月をかければ岩にも染みる」
「岩にも、ですか」
「龍なら知っている」
レクスはそこで少し黙った。
レクス・ノアの小さな体が、岩の断面を見つめている。
「だが、こういう残り方は、普通ではない」
「普通ではない」
アリアは岩を見た。さっきと同じ岩に見える。
でも、もう同じには見えなかった。
見えないものが、そこにある。見えないのに、残っている。
「それは、龍の呪いなのですか」
アリアが聞くと、レクスはすぐに答えなかった。
「呪い、という言葉は便利すぎる」
「便利」
「分からないものを、分かったように置ける」
アリアは、老人の言葉を思い出した。
――そうでないと怖すぎたのだろうな。
「では、これは」
「分からない」
レクスは、はっきり言った。
アリアは少し驚いた。レクスは何でも知っていそうに見えるのに、知らないことを隠そうとしない。
「ただ」
レクス・ノアの前足が、割れた岩のそばに置かれた。
「岩は覚えている」
その言葉は、坑道の奥へ吸い込まれていった。
* * *
午後、坑道から町へ戻ったあとだった。
空が、一瞬だけ暗くなった。
最初に気づいたのは、山羊だった。柵の中で草を噛んでいた一頭が、急に首を上げる。次に犬が吠えた。子供たちが顔を上げる。最後に、大人たちが空を見た。
空を、一頭のワイバーンが旋回していた。
白嶺では、ワイバーンそのものは珍しくないのだという。けれど、町の上空を回ったり、ましてや町の近くに降りてくることは、ほとんどない。
「山の竜だ」
誰かが言った。
「まずい」
「隠れろ」
声が、あちこちで跳ねる。
子供が母親の服を握り、温室の戸が急いで閉められた。鍛冶場の火の前にいた男が、槌を握ったまま外へ出てくる。
「やっぱり、龍の呪いが残っておるんじゃ……」
怯えた声が、湯気の中にまざった。
けれど、ワイバーンは襲ってこなかった。
何度か大きく町の上を回ったあと、町外れの道へ、静かに舞い降りた。
翼を折りたたみ、首を低くする。まるで、誰かを待っているように。
レクス・ノアの顔が上がった。
「呼んでる」
ノアの声がした。
レクスは黙って、空気を読むようにワイバーンを見た。
「……我らか」
アリアは、レクス・ノアの横顔を見た。
「行くのですか」
「呼ばれたなら行く」
「お客さん?」
ノアが少し楽しそうに言った。
「分からん」
レクスの返事は短かった。
レクス・ノアが前に出る。
町の人たちは、その様子を息を止めて見つめている。
小さな龍の体は、ワイバーンよりずっと小さい。けれど、ワイバーンはその小さな龍をじっと見ていた。レクス・ノアも見返す。
しばらく、何も起きなかった。
火も出ない。爪も振るわれない。ワイバーンは吠えず、レクス・ノアも動かない。
やがて、ワイバーンが静かに首を垂れた。
地面へ顎が触れるほど、深く。
アリアは息を止めた。
それは、襲う姿ではなかった。待つ姿でも、怒る姿でもない。
誰かに、礼をしているようだった。
「……?」
レクスの声が、ほんの少しだけ迷った。
「こんにちは?」
ノアが言った。
ワイバーンは返事をしない。ただ、もう一度、さらに深く頭を下げた。
そのとき、ワイバーンの目がアリアへ向いた。
ほんの一瞬だった。アリアは体を固くする。
黄色い目は、アリアを射るようには見ず……
静かに首を下げた。
「わたしに、も?」
アリアの声は、ほとんど息だけだった。
「アリアにも?」
ノアの声が、心底ふしぎそうに重なる。
レクスが小さく唸った。
「……解せぬ」
それから、ワイバーンは翼を広げた。
大きな風が町外れの草を倒し、温泉の湯気を横へ流す。住民たちが思わず後ずさった。
けれど、ワイバーンは誰も襲わなかった。何も壊さなかった。ただ空へ戻っていく。
高く、さらに高く。白嶺山脈の奥へ、静かに消えていった。
残された町には、しばらく誰の声もなかった。
やがて、老人のひとりが呟いた。
「……龍の呪いではなかったのか……頭を下げた?」
その言葉は、雪の上を静かに広がっていった。
* * *
夕方になると、町はゆっくり元の音を取り戻した。
鍛冶場では火が小さくおとされ、温室では戸が閉められた。山羊は柵の中に戻され、白嶺の人々は家の前で、いつもより小さな声で話していた。
「龍は、人を襲わなかった」
「ワイバーンのほうが、頭を下げた」
「何も起きなかったな」
「あれは、襲いに来たのか」
「いや、誰も襲わなかった」
そんな声が、あちこちから聞こえた。
アリアは、温泉小屋のそばで立ち止まった。
朝に会った老人が、石段に座っている。老人は、アリアに気づくと、ゆっくり目を細めた。
「本当に、龍の呪いだったのかのう」
つぶやきは、誰に向けたものでもなかった。
でも、アリアには聞こえた。
その言葉は、朝の「近寄るな」とは違って、誰かを止めるための声ではない。小さくて、頼りなくて、それでも、止まっていたものが少しだけ動きはじめたように聞こえた。
アリアは、何も言わなかった。まだ、分からないから。
分からないことを、分かったふりで返したくなかった。
* * *
夕暮れ、アリアはレクス・ノアと一緒に丘の上に立った。
白嶺の町が、下に広がっている。温泉の湯気が細く上がり、家々の窓に小さな灯りがともっている。山の影は青く、閉鎖坑道のあたりだけが、少し早く夜になっているように見えた。
アリアは、両手を胸の前で握った。
「龍の呪いでは、ないのですね」
レクス・ノアは、町ではなく山を見ていた。
「呪いではない」
レクスの声は、はっきりしていた。
アリアは、少しだけほっとした。けれど、そのすぐあとで、レクスは続けた。
「だが、ここで何かが起きた」
風が吹き、アリアの髪が頬に当たる。
「何か」
「分からない」
また、その答えだった。
でも今度は、怖いだけではなかった。
「水の波みたいだった」
ノアが言った。
「きれいだった。でも、ちょっと、さみしい」
「さみしい魔素という分類はない」
「分類にないだけで、さみしいものはさみしい」
「……反論が面倒だ」
アリアは、ほんの少し笑った。
怖い話のあとで笑っていいのか迷ったけれど、ノアの声はそうさせてくれた。
「岩だけが覚えている」
レクスが言った。
アリアは、閉鎖坑道の方を見た。
町の人たちは、長いあいだ噂を覚えていた。でも、岩はもっと前から、別のものを覚えているのかもしれない。
「わたしも、見ます」
アリアは言った。
「噂だけではなくて、ちゃんと見ます」
声は、少し震えた。それでも、自分で言えた。
レクス・ノアの小さな体が、アリアの横で静かに息をした。
山の奥は、もう暗い。けれどアリアには、その暗さの向こうに、まだ何かが残っている気がした。
閉鎖坑道の方から、風に混じって低い水音が届いた。白嶺は、まだ答えを隠している。




